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(付録) 意識の概要  作者: 安田孫康
10/23

9 生物 (2)

9 生物 (2)


  生物の活動は物理法則に違反はしないと生物学では考えられているようである


  細胞には知性が具わりている -- その間接的証拠


  粘菌の知性と記憶の間接的実証


  生体内で運動の第一法則(慣性の法則)は違反されうる


  記憶は生物の活動の重要な基盤かも知れぬ






  《 生物の活動は物理法則に違反はしないと生物学では考えられているようである 》


1) 生物の活動は物理法則に違反はしないと生物学では考えられているようである


2) 生物の活動が物理法則に違反しているか否かはまだ未確定である


3) 物理法則への違反の疑い


  ................


1) 生物の活動は物理法則に違反はしないと生物学では考えられているようである


生物はきわめて高度で複雑な物理的秩序です。しかもその秩序は動的です。


しかし、熱力学第二法則によれば、エントゥロピー(乱雑さ・無秩序)は自然には増大します。


このため、生物という高度な物理的秩序は、根本的に、自然には存在(発生)できないはずです。


(しかし、生物は現に発生し存在しています。このため、生物の存在や活動には、(ふつうの意味で)自然でない何らかの要因の働いていることが予想されます。ます。そうでなくてはなりません。そして、それは、生物発生の過程でも働きしはず、と推測されます)。


しかし、生物学では、生物の活動は熱力学第二法則に違反してはいぬ、と考えられているようです。それは次のような理由によると思われます。


エントゥロピー(無秩序)は自然には増大するが、生物では、エナァジを消費し、エントゥロピーを増大させつつ、部分的に秩序が形成されている。このゆえ、エナァジをしっかり消費しているという点で、生物の活動は熱力学第二法則に違反してはいぬ。(生物は、エナァジを使いもせずに、只で秩序を形成しているわけでない)。


(わたしの理解が足りないか誤解しているかも知れませんが、その場合はご容赦ください)。


この理由は、その記述のかぎりでは、もっともに思われます。


2) 生物の活動が物理法則に違反しているか否かはまだ未確定である


しかし、この理由では、細胞内で化学反応などの物理事象が発生するさいの細胞内の状況や動きなどは少しも考慮されてはいないです。


言わば、この理由は、試験管内で起こされる化学反応についてのものなのです。ちなみに、試験管内での化学反応では、それを起こさせるための準備は、すべて、人間により果たされるです。撹拌や加熱が必要なばあい、それらについてもそうです。


しかし、細胞内での化学反応にては、反応物の現場への正確な移動や接触は不可欠です。(ちなみに、細胞内での化学反応は、試験管内での集合的な反応とは異なり、個別的な反応です。撹拌は不可能です)。そういうことが果たされない限り、化学反応は決して生じないです。


そして、細胞内での、そういう事前の動きは、自然に生じるか、または、細胞自身によりて能動的に果たされるかする以外にないと、推測されます。(なぜなら、細胞に代わり、人間がそれを果たすわけにはいかないからです。そのうえ、そういう目的的な動きをもたらすような都合のいい物理的力は存在しない、とも思われるからです)。しかも、細胞内での物質の移動については、すべての物質が微小管を経由して能動的に輸送されるとは、とても考えられないです。(しかも、微小管が使用されるばあい、余計な手間がぐっと増えます)。


そして、こういう事前の動きに関しては、たとえ熱力学第二法則への違反はないにせよ、なんらかの物理法則への違反のある可能性があります。なぜなら、それらの動きは、統合的・協調的・目的的であり、かつ、きわめて高度な動的秩序だからです。


しかし、細胞内でそういう高度で動的な秩序が形成されることについての根拠などは説明されていず、かつ、見あたらないです。


つまり、生物の活動が熱力学第二法則に違反してはいぬことについての生物学による理由は、人工的な事象についてのものであり、細胞内での現実の自然な事象についてのものでは決してないのです。


このゆえ、生物の活動が熱力学第二法則に違反しているか否かは、まだ確定してはいぬ、と評価されます。


3) 物理法則への違反の疑い


生物の活動は、意識での思考(目的・方針・演算・設計・指令など)にもとづき生じています。たとえば、発話の筋肉運動はかならず意識に生じる考えに従い生じます。さらに、生物の動作は、原子レヴェルや分子レヴェルの物質の動きの統合としてもたらされます。(生物の辻褄の合いし動作を実現するためには、それらの物質は協調的に動かなくてはなりません)。


こういうことから、細胞などの生体に生じるほとんどの物理事象が根本的には意識での思考などの観念--観念的な機能--にもとづき生じることは間違いないと、思われます。


また、生物の活動はきわめて高度かつ複雑かつ動的な物理的秩序です。


この2つの点で、生物の活動が、必ずしも熱力学第二法則ではなかろうと、なんらかの物理法則に違反している可能性あることは、つよく予想されます。


次のようなことが疑われます。


細胞内での化学反応などの物理事象に関与する物質は、その事象の現場にまで正確に移動しなくてはなりません。(たとえばATPやmRNAの現場への移動がその例です)。


しかし、細胞内での物質のそういう移動の多くが、たとえば微小管を経由する能動輸送により実現されているとは、考えられません。(微小管の使用では、余計な手間が増えます)。


また、物質を現場にまで正確に移動させうるような物理的力は存在しない、と思われます。


そして、もしかして、ほかの物質ときちんと結合させるため、物質の微妙な姿勢制御も果たされるかも知れませんが、そういう事象についても同じです。


こういうことのため、必ずしも、すべての物質の動きがそうというわけではないにせよ、また、そこは生体内部という特殊な環境ではあるにせよ、細胞内での物質の動きには、慣性の法則(運動の第1法則)への違反に当たるものがあるかも知れません。(ということは、エナァジ保存の法則も破られているのかも知れません)。


さらに、物理事象に関与する物質の全体的な動きが目的的であるという点と、そして、個個の物質の動きが全体の目的的動きの一部であるという点で、それらの動きは高度な動的秩序です。そしてそれらの動きの実現にエナァジは必ずしも消費されてはいないかも知れません。このゆえ、それらの動きは熱力学第二法則にも違反していると、思われます。






  《 細胞には知性が具わりている -- その間接的証拠 》


1) 生物の知性は非物質的かも知れぬ


2) 生物学による解明で判定されること


3) 細胞には生きている知性が発生している


4) 細胞での知性の発生についてのその他の事象


5) 形などにかんする設計は、知性によりて、その場で、リアルタイムかつ動的に果たされる


6) 細胞内部での物質の動きの多くが通常の(巨視的)物理法則に違反している。


7) 細胞(生体)に具わる知性の要件


8) 知性による設計の方向


  ................


1) 生物の知性は非物質的かも知れぬ


非物質的なものを直接実証することはできないと思われます。まずエナァジがそれに該当します。


ビグ バン理論によれば、エナァジは、体積なくて、非物質的、と評価されます。そして不可視です。


このゆえエナァジを直接実証することできないのです。


すると、存在するのに、直接実証できぬものは、エナァジ以外にも、あるかも知れないことは、考ええます。この可能性は否定はできません。なぜなら、もしもそういうものが、エナァジ同様、非物質的なら、やはり実証できないからです。そういうものは、なんらかの物理現象をとおし間接的にその存在を推測する以外にないからです。


そして、そういうものの候補の1つとして、知性が考えられます。 なぜなら、知性は、どう評価しようと、 とても物質的とは思えないからです。つまり、知性の質を思うなら、知性はとても実証できるような代物ではないのです。(実際、知性の存在が直接に実証されしことは、これまで一度もない、と思われます)。


(ただ、もしもそれが生物レヴェルの知性なら、エナァジ同様、非物質的で不可視ではあるにせよ、体積はあるかも知れません。なぜなら、生物レヴェルの知性は本質的に大きくなくてはいけないからです。なぜなら、それは、たくさんの観念--身体感覚や思考感覚・情報--を同時に感知できるからです)。


知性は、なんらかの物理現象をとおし、間接的にその存在を推測するしかないかも知れません。それでも、その推測が合理的なら、それは信頼できます。そして、それは、間接的証明と見なして差しつかえない、と思われます。


しかし、いずれにしても、知性は直接実証することできないと、思われます。


(すると、それが直接実証できないという点で、生物の知性が無数のエナァジで直接体現されるものであることは、想定しえるかも知れません。生物の大きな知性は、エナァジのとる形態の一つでありて、エナァジ(物質)の進化の新しい形、と見なせるかも、知れません。なぜなら、エナァジには、(これも実証できないにしても)、無生物で固定的な知性が具わりている、と強く推測(評価)されるからです。量子論の創始者の一人であるマクス プランクもこういう考えを抱いていつようです。プランクは時代の一歩先を進んでいつ、と思われます)。


2) 生物学による解明で判定されること


細胞内部での物質の動きのメカニズムは生物学により詳細に解明されています。


しかし、これはとんでもないことと思われるかも知れませんが、その解明によれば、以下のことが判断されます。


A) 細胞には生きている知性が発生している。


B) 細胞内部での物質の動きの多くが通常の(巨視的)物理法則に違反している。


逆に言えば、生物学による解明は上記のことを間接的に証明していると言えます。


その理由は以下のとおりです。


3) 細胞には生きている知性が発生している


細胞の活動に細胞内での物質の移動(輸送)は欠かせないです。


たとえばATPがあります。


ATPはマイトコンドゥリアにより合成されますが、合成されて細胞質中に放出されしATPは先ずランダムに散在する、と思われます。そして、どこかでATPが必要になるときに、ATPは必要なだけそこへ輸送される、と思われます。


ATPは大量に生産されて大量に消費されるそうです。ATPの使用頻度はきわめて高いと思われます。細胞の活動度が低いときを除外して、多くのATPは合成されしのち速やかに消費されるのでしょう。


このゆえ、ATPの動き--ATPが使用される現場への移動ないし輸送--は、的確かつ迅速でなくてはならないと、推測されます。また、的確さは、迅速さの原因の一つでありえます。


ただ、ATPが、なんらかの物理的原因ないし物質的手段によりて自動的にその輸送先に輸送されるのか、または、自力で移動するのかは、明解ではありません。これは、生物学によりても明らかにされてはいない、と思われます。


さて、ATPの細胞内での輸送には、大まかには、次のような観念が関与していると、思われます。


i) 細胞内のある場所で(ある物理事象--たとえば筋肉運動--を起こすため)ATP(の加水分解によるエナァジの発生)が必要である。


この観念には場所についての正確な情報も含まれます。(ATPが的確に使用されるためには、そういう情報が欠かせないです)。なぜなら、外的には三人称の客体であるATPにじぶんの輸送先の情報は到底知りえないゆえに。それ以前に、ATPには、自分がどこかへ輸送される必要があることさえも、知りえないです。


ii) その輸送先へどのATPを輸送するかの決定。


iii) 輸送されるATPがその輸送先に達しつか否かの判定。


しかし、ATPは、三人称の客体なので、みずから自発的・主体的・能動的にどこかへ移動することは有りえないです。このゆえ、ATPがどこかへ輸送されるには、その根拠として、(iii)の判定を除外して)、少なくとも、上記の観念が事前に形成されることが欠かせないです。さもなくば、物理事象としてのATPの輸送は決して生じないです。これらの観念の形成は、ATPの能動輸送が実現されるためには不可欠です。


しかし、これらの観念の質や所在は丸きり分からないです。その形成は不可欠なのに、その存在は完全に不明です。


そして、(質は不明ながら)、それらの観念が形成される物質的(物理的)な原因・メカニズム・枠組・基盤などは細胞内部に丸きり見当たらないです。言わば、無数の物質の統合的な集合体である細胞のなかに、ATPの輸送の仕様を承知する物質は存在しないです。そもそも、三人称の客体である物質の集合体により(大きな)観念が形成される--観念的な働きが果たされる--ことは、有りえないです。このゆえ、物質的なものに原因を求めるならば、これはミシン リンクです。


このゆえ、ATP輸送の仕様は、非物質的な、文字通りの観念であらざるを得ないです。


つまり、細胞内でのATP輸送は、根本的に、その輸送を規定する(広範かつ正確かつ包括的な)文字通りの観念に基づくのです。


しかし、観念(思考)は、高度な(物理的)秩序です。そして、高度な秩序は、熱力学第二法則ゆえに、その形成を可能とする何らかの根拠・メカニズム・枠組・基盤のないかぎり、決して形成されません。


このゆえ、ただの物質の集合体が観念(思考)を扱うことは不可能です。


そして、文字通りの観念を扱うことのできるもの--認識・識別・評価・判定・設計・決定などの観念的(知的)な働きを果たせるもの--は、知性に他なりません。このゆえ、細胞には、かならず(非物質的な)生きている知性が生じていることに、なります。


また、細胞の知性により扱われる情報は空間的広がりあるなかでの情報です。しかし、知性なら、空間的広がりを有することが可能と予想されます。そして、それは、その広がりのなかでの複数の観念もしくは大きな観念を扱うことができる、と思われます。むしろ、知性は、空間的広がりのなかでの物質的状態ないし状況を認識するため、細胞に匹敵する体積を有する大きなものでなくてはならないと、予想されます。


ただ、その知性の本性・質・所在・詳しい機能などは不明ですが、それは別の問いです。


それでも、少なくとも、細胞に生きている知性が生じることは、不可欠です。(このことが、生物学による、細胞内での物質の動きのメカニズムの解明により間接的に証明されているのです)。


細胞の活動はきわめて高度で動的な物理的秩序です。そして、熱力学第二法則ゆえに、そういう秩序が物質により只で形成されることは有りえないです。しかも秩序には合理性が具わりていなくてはなりません。そして、物質の集合体の全体に合理性をもたらせるものは、その秩序形成の根拠である観念だけです。(合理的な物質の集合体(= 物理的秩序)は、その根拠となる合理的観念なしには、決して形成されえないです)。このゆえ、細胞の活動の実現に、その合理的な動きの基盤となりうる知性が関与することは、不可欠です。細胞の自発的かつ能動的かつ合理的な活動は、知性の働きに基づくのです。それは、知性に基づかない限り、決して達成されないです。


物質で観念を形成することは不可能です。このため、もしも生きている(大きな)知性が細胞にあらかじめ生じていないなら、前記の観念が生じることは、そもそもありません。そしてATPが能動輸送されることも決してないのです。


植物と動物の別を問わなく、どんな生物であろうとも、その体は、目的的かつ合理的に形成されている、高度な物理的秩序です。これは、その体の形成が合理的観念に基づいていることを意味します。しかし、物質は、対外的には三人称の客体です。このため、そういう物質がどれほどたくさん集合しようとも、そこに観念が(自然)形成されることは有りえないです。そして、(文字通りの意味での)観念を扱うことのできるのは、知性だけです。このゆえ、生物の体の形成が観念に基づいているという点で、生物の体には知性が生じていることになります。これは必然です。


(ちなみに、ビグ バン理論によれば、この宇宙と物質の源であるエナァジは、体積なくて非物質的と評価されます。つまりエナァジは非物質的でありかつ不可視なのです。(別言すれば、なにかが非物質的で不可視であることは、その何かが存在しないことは必ずしも意味しないです。ものにより、非物質的で不可視なものも、エナァジ同様、存在しうるかも知れません)。


このため、エナァジは、観念の一種、きわめて特異な観念のようなもの、と見なすことができるかも知れません。しかし、それにも拘わらず、エナァジは、(外的エナァジの供給を受けることなく)、完全に自発的かつ主体的かつ能動的に動作しつづけています。


そして、こういう不可視で非物質的で活発なエナァジが細胞に具わる知性の直接の源である可能性は、考えられるかも知れません。(なぜなら、この宇宙にほんとうに存在するのは、エナァジだけだからです。物質は、エナァジに具わる働きの静的な現われや投影にすぎないのです。物質は、言わば、エナァジという根拠ある幻想なのです)。つまり、細胞の知性は不可視で非物質的なエナァジのようなものかも知れません。これは、知性がエナァジで直接体現されているかも知れないことを、意味します)。


4) 細胞での知性の発生についてのその他の事象


ATPの動きだけには限らなく、細胞内での物理事象はきわめて多様です。そして、それらの多くにおいても知性は深く関与していると、推測されます。


その一つとして、遺伝子発現メカニズムがあります。このメカニズムでは、大まかには、次のような観念が生じる、と思われます。


i) ある遺伝子の情報--たとえば、蛋白質の情報--が細胞内のある場所に必要である。


しかし、このようなことは誰も知らないのです。細胞内にそれを認識しうる物質または物質の集合体は存在しないです。むしろ、こういうことは、根本的に知りえないです。すべての目的的かつ合理的な動きは、なぜか、根拠もなしに、完全自動で生じているのです。不思議です。


ii) その(転写元の)遺伝子が、どの染色体のDNAのどこに保存されているか、知る必要がある。


しかし物質はこれも知りえないです。誰も知らないのです。(むしろ、DNAを解読せし人間のほうがよく知りています)。


iii) その遺伝子の、そのDNAでの開始点と終了点を、識別する必要がある。


これらの地点は、遺伝子に付与されている特定の塩基配列により識別されるとのことですが、この塩基配列はたくさんの原子(量子)で構成されます。そして1個の量子は情報の最低単位です。


このため、開始点と終了点を知るためには、多くの情報を体現する沢山の塩基の並びの全体を包括的に識別しなくてはいけません。そういう働きは欠かせないです。そして識別は観念的で知的な働きです。しかし、そういう包括的な識別を果たせる物質的メカニズムは細胞に実装されてはいないです。このゆえこの識別は不可能です。(それにも拘わらず、識別は何かによりて現実に果たされている、と判断せざるを得ないです。それはなんなのでしょう? 不思議です)。


さらに、転写元の遺伝子の情報をmRNAに具体的に転写する段階でもさまざまな観念的(知的)な働きが必要と思われます。しかし以降は省略します。


細胞内では様ざまな物理事象が遂行されます。しかし、それらに生じる動きを細かく分解してゆくと、そこには多様な観念が現われてきます。細胞内の物理事象では、眼には見えずとも、多様な観念的働きが現実に果たされているのです。それらは、物質の外的な動きの根拠でありて、整合的な物理事象を実現するためには欠かせないです。


(たとえば、私たち人間が日常的に果たしている行為にも多層で多様な観念が関与しています。観念的な働きは、人間の動作や物質の動きの根拠でありて、それなしに整合的な行為が達成されることは有りえないです)。


そして、観念的働きを物質や物質的メカニズムが代行することは不可能です。観念は、(非物質的な)知性によりてしか扱えず、観念的働きは知性にしか果たせないです。


このゆえ、細胞がきちんと動作できるためには、その細胞には、観念的働きを担当する知性がかならず具わりていなくてはならないことに、なります。これは必然です。生物学によるメカニズムの解明は、このことを間接的に実証しています。


5) 形などにかんする設計は、知性によりて、その場で、リアルタイムかつ動的に果たされる


簡単に言えば、次のようなことになります。


生物学によれば、DNAには、生物の形にかんする設計図面またはそれに類する情報は含まれてはおりません。(このことは、DNAなどについての生物学による解明から判断される事実です)。


しかし、一般に、物品の製造におき、形についての設計は不可欠です。このゆえ、形にかんする設計は、知性によりて、その場で、リアルタイムかつ動的に果たされる他はありません。(詳しい理由は後述します)。


ここで、形とは、動物と植物の別や生物種の違いを問わなく、以下のようなものを指します。


a) 細胞の構成部品の形など


b) 細胞・組織・器官などの生体の構成・構造・形など


c) 生物の体の構成・構造・形(体制)など


d) 性の違いによる生殖器官や性徴などの相違や形


つまり、DNAは、簡単には、生物の設計図と言われますが、形についての情報が含まれてはいないという点で、実は、十分な設計ではないのです。(たとえば、こういう不十分な設計に基づくならば、人間社会での物質的物品などはぜったい製造されえないです。つまり、形などについての設計の欠如は、深刻なミシン リンクです)。


形などにかんする設計が、知性によりて、その場で、リアルタイムかつ動的に果たされるということは、とても有りそうになく、驚くべきことです。しかし、生物が合理的かつ見事に実現されるためには、そうであらざるを得ないです。なぜなら、形などについての設計は不可欠であり、かつ、設計という観念的かつ知的かつ包括的な機能を果たせるものは、知性の他に存在しないからです。


このゆえ、生物の体の形などは、(細胞などの生体に発生している)知性によりて、その場で、リアルタイムかつ動的に設計され、かつ、製造されることに、なります。


つまり、細胞などには、かならす知性が発生しているのです。


(ちなみに、脳は、知的な機能を果たす特別な器官と思われます。それでも、脳のない単細胞生物にさえ、機能は劣るにしても、統合的で包括的な知性は発生しているのです)。


そして、こういうことが、生物学によるさまざまな解明により間接的に実証されているのです。


  ................


形などにかんする設計が知性によりてその場でリアルタイムかつ動的に果たされることの根拠は、次のとおりです。


生体に必要な蛋白質は遺伝子に保存されている情報にもとづき合成できます。


しかし、それらがたくさん結合し、細胞の部品・細胞・組織・器官が形成されるとしても--無数の物質で構成される形が形成されるとしても--、なんの制御も果たされないなら、それらはランダムな蛋白質の塊になるほかはありません。熱力学第二法則により、これが自然な結果です。


しかし、まともな部品・細胞・組織・器官は現実に形成されます。そしてこれらは目的的かつ合理的な高い秩序です。しかもそれらの形成には高い再現性が具わりています。


そして、物理的(物質的)秩序の形成に再現性あることは、その秩序が偶然ランダムに形成されしものでないことを意味します。


こういうことゆえ、部品・細胞・組織・器官は、なにかによりて、なんらかの根拠に基づき、制御されつつ、確実に製造される、と判断されます。これは必然です。(物理的根拠があれば、その事象が熱力学第二法則に抵触することはありません)。


そして、製造とその制御の根拠になりうるものは、設計です。この設計は不可欠です。


しかし、根本的に、DNAに形などについての設計は含まれてはいないです。形などについての設計は存在しないです。


このゆえ、形などの製造の根拠になる設計は、なにかによりて、その場で、リアルタイムかつ動的に為される他はありません。(とてもそのようには思われませんが)、そのように結論されます。


そして、物質の動きを制御するための根拠(= 設計)となりうるのは、(大きな)観念です。そして、三人称の客体の物質が観念を形成するのは不可能なので、この観念は、文字通りの非物質的観念です。


そして、非物質的観念を扱うことのできるものがあるとするなら、それも非物質的なものである知性だけです。


このゆえ、部品・細胞・組織・器官の形の形成の根拠になりうるものとして、知性は、それらの生体に発生していざるを得ないです。知性は生体にかならず発生しているのです。


ちなみに、この知性の本性・質・所在・詳しい機能などはここではまだ不明ですが、それは別の問いです。


それでも、この知性は、物質の動きについての制御の根拠になりうるものゆえに、物質的ではないにせよ、物理的です。(この知性は物質とのあいだで物理的相互作用が可能と思われます)。そして、もしも、仮に、この知性が体積なくて非物質的なエナァジのようなものならば、それは、物理的であり、この宇宙に存在できるです。(エナァジが、この宇宙と物質の存在の源であり、かつ、物理性の源です)。


6) 細胞内部での物質の動きの多くが通常の(巨視的)物理法則に違反している。


ATPは細胞内部の物理事象のエナァジ源と言われます。しかし、マイトコンドゥリアにより生産されしATPが細胞質内に放出されつとしても、それが消費されるためには、必要とされる場所にまで正確かつ迅速に輸送される必要があります。(化学反応を効率的に起こすため、ATPの微妙な姿勢制御も生じるかも知れません)。


しかし、(その動きを規定する観念に基づくことなく)、ATPのそういう微細で正確な動きをもたらしうる物理的力は存在しないです。このため、そういう動きは物理法則に違反する、と評価されます。(そして、たとえ、その動きが観念に基づくにせよ、それはやはり通常の(巨視的)物理法則に違反する、と思われます。


(なぜなら、現在の物理学にては、観念と物質のあいだは切れているからです。しかし、私たちの意識がこの物理世界を感知できている事実から、観念と物質のあいだのどこかで相互作用の生じることは、明らかです。観念は、物質的ではないにせよ、物理的です))。


(細胞内部であろうとも、物質は、対外的には三人称の客体であり、なんらかの相互作用に受動的に巻きこまれて初めて対外的に動けます。自転も外的な動きです)。


また、DNAに保存されている遺伝子が発現する(適用される)メカニズムは極めて細かくかつ正確です。しかも、遺伝子に関係するメカニズムは極めて多様です。さらに、関与する物質も多様です。


遺伝子発現メカニズムは、きわめて精巧なマシーンの動きに例えられます。このマシーンは、驚くべきことに、DNAなどの高分子にたいする微細な加工処理さえ果たします。(メカニズムの多様さに対応し、実施される加工処理も多様です)。さらに、それには、リアルタイムの状況感知能力と判断能力さえ具わりている、と評価できます。


しかし、遺伝子発現メカニズムにても、関与する物質の微細かつ正確な動きなどをもたらしうる物理的力は存在しないです。(その動きは、自転をふくめ、主に空間移動です)。もちろん、この大きさのレヴェルでは、それを果たしうる物質的メカニズムも存在しないです。むしろ物質的メカニズムは救いない悪循環に陥ります。


つまり、一般に、細胞内で物質を正確に動かすことのできる物理的力は存在しないです。このゆえ、そういう正確な動きは通常の(巨視的)物理法則に違反すると評価されます。


ちなみに、慣性の法則(運動の第一法則)が、その破られる物理法則の第一候補と予想されます。(ということは、エナァジ保存の法則も破られているかも知れません)。


そして、こういうことのため、生物学による細胞内の物理事象のメカニズムの解明は、通常の(巨視的)物理法則への違反の間接的証拠と見なせます。


7) 細胞(生体)に具わる知性の要件


次のようなことが、細胞(生体)に具わる知性の要件と思われます。


a) 細胞(生体)の大きさに匹敵する大きさ(体積)を有する。


b) 細胞内部の物理的状態(状況)を一度に認識できる自己状態観測能力(情報収集能力)を有する。


この観測には、(DNAに保存されている遺伝子をふくめ)、細胞内のそれぞれの物質がどういうものであるかの知識(情報)も、なぜか含まれる、と推測されます。(とても不思議です)。


c) 認識せし情報にもとづく、細胞内にての、つぎの瞬間の状態や動きについての演算能力(設計能力・思考能力)を有する。


そして、生きている知性は、つまり、意識です。このため、生物学による物質の動きのメカニズムの解明は、細胞に意識が生じることも間接的に証明していることに、なります。


ちなみに、意識が生じることは、組織や器官などの大きな生体にも該当するだろうと予想されます。なぜなら、組織や器官の動きは、一般に、統合的かつ協調的かつ目的的だからです。無数の物質の動きにこういう質をもたらしうるものは、(本質的に大きなものである)意識だけと思われます。(意識は、無数の物質の全体に重なるかたちで形成されるので、かならず、(大きなものである)物質システム意識です)。


8) 知性による設計の方向


知性による設計は、その知性が発生している生体の物理的(物質的)秩序を形成し維持する方向で果たされる、と推測されます。


この傾向は、エナァジに具わる物理的作用--自己創発作用(または、自己融合作用)--に起因する、と推測されます。


ビグ バンのインフレイション膨張では、無数のエナァジから多種類の素粒子--より高い物理的秩序--が形成されました。このことから、エナァジには、じぶんを素材として使い、より高い物理的秩序を形成しようとする傾向が具わりている、と評価されます。それがエナァジの自己創発作用です。


さらに、この作用は完全自動で動作します。このため、知性による設計も、根本的には、完全自動で果たされる、と思われます。(このゆえ自由意志は存在しないです)。


ただ、設計される観念は、時間の経過のなかで持続はしない、と予想されます。生体を形成する無数の物質の全体は1個の大きな物質的秩序ですが、この観念は、つぎの瞬間の秩序を表現するなら、それで事足りる、と思われます。なぜなら、設計されつづける観念の内容が積分的に実現されるなら、それで大きな目的は達成されうると、思われるからです。(そもそも、設計は、瞬間瞬間果たされるので、根本的に持続はしないです)。


しかし、それにつけても、瞬間ごとの設計の積みかさねによりて、時間の経過のなかで一貫する結果が得られることは、たいへん不思議です。なぜなら、その結果から、脳がなくても、生物の生きている知性には記憶が具わりているよう見えるからです。そして、そういう能力により、その知性が先のことを予測することができるよう思われるからです。






  《 粘菌の知性と記憶の間接的実証 》


1) 粘菌には知性が具わりている


2) 粘菌には記憶力がある


  ................


1) 粘菌には知性が具わりている


単細胞生物である粘菌の一種に知性の具わりていることを強く示唆する実験が、北海道大学教授の中垣俊之先生により実施されしそうです。


その粘菌は、単細胞のまま巨大になることができるそうです。さらに、それは、広いシートゥ状に伸ばすこともできるそうです。また粘菌に脳はありません。


そして、実験では、この粘菌が広い迷路にまんべんなく伸ばされて、入口と出口の2ヶ所だけに餌が置かれました。すると、餌のない所からは体が後退してゆき、単細胞の体の一体性を維持せしままで、その体が餌のある入口と出口の2ヶ所に集中しました。そして、入口と出口をつなぐ部分が最短距離をとりました。


しかし、いかにその粘菌が高度に組織化されし物質システムであろうとも、もしもその粘菌が三人称の客体である物質の集合体にすぎぬなら、こういう結果は決して得られないです。なぜなら、その粘菌の体に、そういう大きく統合的で包括的な動きを自動的にもたらす物質的メカニズムは具わりてはいないからです。こういう動きは、たとえば「餌のある所に行こう」という大きく目的的な思考(観念)に基づかない限り、決して生じないです。


しかも思考は高度な(物理的)秩序です。そして、高度な秩序は、熱力学第二法則ゆえに、その形成を可能とする何らかの根拠・メカニズム・枠組・基盤などのないかぎり、決して形成されません。


このゆえ、ただの物質の集合体が観念(思考)を扱うことは不可能です。


このため、粘菌の体には観念(思考)が形成されつ、と評価されます。そして、思考を形成できるのは知性だけなので、その粘菌に知性が具わりていることに、なります。


(この知性の正体・質・形態・所在などはここではまだ不明ですが、それは別の課題です。ちなみに知性は意識と思われます)。


そして、このことは、粘菌の体が知性による思考(設計)にもとづき動くことを、意味します。それは、さらに、粘菌のからだを構成する無数の物質が、原子・分子・アイオンのレヴェルでの様ざまな物理事象において、思考にもとづき統合的かつ協調的に動くことも、意味します。さもなくば、粘菌が整合的に動くことは不可能です。


そして、そういうことは、物理学にとり深刻ながら興味ぶかい課題になる、と思われます。ちなみに、このことから、観念(思考)と物質のあいだに接点があることに、なります。恐らく、観念は、(エナァジのように)非物質的で不可視ではあるにせよ、物理的なのでしょう。


こういう次第で、この実験結果から、その粘菌に知性の具わりているらしいことが、視覚的に容易に見てとれますが、この点で、この実験は高く評価されます。


さらに、(物質的でないと推測される)知性の発生や存在を直接実証することは本質的に不可能と思われますが、この実験は、それを、粘菌に生じる物理現象をとおし、間接的に実証しつ、ともみなせます。この点でも、この実験は高く評価されます。


ちなみに、知性は意識ですが、この実験は、脳のない細胞のレヴェルでも意識の生じることを間接的に実証しつ、とも評価できます。人間の主観の意識以外、間接的ではあるにせよ、(細胞レヴェルでの)意識の発生が実証されしことは初めてと、思われます。(エナァジ同様、意識を客観的かつ直接に実証することは、不可能と思われます)。これは、言わば、新発見です。この点でも、この実験は高く評価されます。


2) 粘菌には記憶力がある


そして、中垣先生により、別のかたちの実験も実施されました。


この実験では、一定時間ごとに、環境条件(温度と湿度)を、粘菌にとり快適な条件とそうでない条件とのあいだで交互に切り替える操作が3回繰り返されました。快適な条件の持続時間は1時間、そうでない条件では10分です。快適な条件下で粘菌は動きます。しかし、快適でない条件下では、粘菌は動きを止めました。そして、4回めには、快適な条件がそのまま維持されました。


すると、快適な環境が継続しているにも拘わらず、4回めに粘菌は動きを停止させつそうです。


さらに、粘菌の個体が変えられて、この実験が100回実施されました。すると、約半数の粘菌が、4回目には、環境が快適なのにも拘わらず、動きを停止させつそうです。


まず、脳のない粘菌の知性が実証されしことは驚くべきことですが、この別のかたちの実験の結果はさらに驚くべきです。


なぜなら、この結果から、脳がなくても粘菌は時間の経過の感覚を記憶できる、と視覚的に評価できるからです。しかもその記憶はかなり正確です。(なぜなら私たち人間はそういうものも記憶と考えるからです。(非物質的なものである)記憶を直接実証することは不可能です)。


しかし、粘菌の体には、時間の経過を計数できる時計のような物質的メカニズムは具わりていない、と思われます。(そのメカニズムの結果に従い、体全体の動きを臨機応変かつ統合的かつ包括的に制御できるメカニズムも具わりてはおりません)。このため、時間の経過は、観念的感覚(= 記憶)として保持される他はない、と推測されます。そして、非物質的である感覚(記憶)を感じられるものは、知性だけです。


いずれにしても、粘菌に(時間の経過についての)記憶力のあることが実証されしことは、驚くべきです。これは、画期的発見であり、きわめて意義ぶかい、と思われます。


なぜなら、このことから、脳のない細胞・組織・器官などの様ざまな生体にも何らかの記憶力の具わりていることが、予想されるからです。(粘菌だけに記憶が具わると限定する理由はありません)。


記憶は知性以上に不思議なものと思われますが、この発見は、記憶とはどういうものであるかをより詳しく説明するための助けとなるかも知れません。または、人間や動物での記憶のメカニズムの解明の基礎となるかも知れません。少なくとも、この発見は、人間や動物に記憶の具わりていることの客観的証拠たりえます。


さらに、生体内部で、ある物理事象は、無数の物質の統合的かつ協調的な動きによりて実現されます。記憶は、そういう物理事象が、時間の経過のなかで、通時的かつ整合的に実現されることの根拠にもなるかも知れません。


なぜなら、物質の動きについての瞬間的設計を積分的に積み重ねるだけでは、ある物理事象を一貫せしかたちで実現することは難しいかも知れないからです。記憶力や先の状態を予測できる能力ないなら、物理事象をまともに組み立てることは難しいかも知れないからです。


予測は未来の状態についての演繹的思考ですが、これまでの状態についての記憶に基づくことで、それが可能になるかも知れません。


それにつけても、細胞(生体)(の知性(意識))に記憶の具わりていることは不思議です。生体とはそういうものであると考える他はないかも知れません。


ところで、人間や動物の意識には記憶力が具わりています。このことから、ごく単純な記憶や複雑な記憶の別を問わなく、そもそも、(物理的)意識には、根本的に、観念を記憶する機能(能力)が具わりている、と評価できるかも知れません。さもなくば、動物の脳がどれだけ複雑になろうとも、記憶は決して生じないに違いありません。


(ちなみに、環境条件の変化におうじ、体全体の動きを、臨機応変かつ統合的かつ包括的に制御できるという点でも、粘菌には知性が具わりていることになります。そういうことができるのは、体全体にわたり生じる大きな知性だけだからです)。






  《 生体内で運動の第一法則(慣性の法則)は違反されうる 》


1) 粘菌の知性の間接的実証により更に実証されること


2) 生体内での物理法則への違反を説明することは容易ではない


3) 生体内で運動の第一法則は違反されている


4) 生体内での物理事象の手順には観念的働きも含まれる


5) 粘菌の知性の実証は、細胞内で運動の第一法則が破られうることも実証している


6) 粘菌の知性の実証は、観念と物質のあいだに接点があり、観念には物理的側面があることも、実証している


  ................


1) 粘菌の知性の間接的実証により更に実証されること


北海道大学の中垣俊之先生により、単細胞生物である粘菌に知性と記憶の具わりていることが、間接的ながら、視覚的かつ客観的に実証されました。


また、タフツ大学の生物学者のマイケル レヴィンも、プラネリア(プラナリア)という扁形虫を使いし研究で、そのワームに知性と記憶の具わりていることを間接的に実証しています。


さらに、ほかの研究者も、植物をふくめ、さまざまな生物に、知性と記憶の具わりていることを間接的に実証しているようです。


しかし、それらの実証では、さらに、以下のことも、間接的ながら、視覚的かつ客観的に実証されている、と評価できます。


A) 生体内で運動の第一法則(慣性の法則)は違反されうる。(生体内で運動の第一法則の適用は免除されうる)。


B) 観念と物質のあいだには接点があり、観念には、(それは物質的ではないにせよ)、物理的な側面がある。


C) 細胞には脳がなくても意識が具わりている。


A)のことはギョッとするようなことです。物理学により、その根拠・メカニズム・枠組・基盤などの解明が取り組まれることが、つよく望まれます。


また、B)のことも大変なことと思われます。しかし、こういう視点が物理学にきちんと取り入れられることが望まれます。なぜなら、観念は、生体におき、物質の動きに影響を及ぼしうるからです。そして、それは、物理学の視野を広げることにも繋がります。


C)につき。生物の生きている知性は意識です。


(より正確には、無数の物質で構成される大きな物質システムに生じる知性が意識です。たとえば、AIのように、知性は無生物でありえ、1個の量子であるエナァジや物質にも無生物の知性は具わりています。(知性は測定や演算などの観念的機能を果たします)。しかし、意識は、大きな物質システムに生じるものであり、海底の熱水噴出口のあたりや結晶の塊の形成プロセスなどに生じる知性(= 生きていぬ意識)を例外として、生体に生じる知性は一般に生きています)。


このゆえ、生体での知性の具備の実証は、脳がなくても生体には意識が具わることも実証していることに、なります。意識(= 大きな知性)の発生に脳は必須ではないのです。これは、また、間接的ではあるにせよ、意識の客観的実証に当たります。それは、初めてのことであり、高く評価されます。


2) 生体内での物理法則への違反を説明することは容易ではない


人間や生物の能動的動きは何となく物理法則に違反するよう無意識的に感じられます。しかしそれを説明することは容易ではありません。なぜなら生物の体の造りや動きのメカニズムはあまりに複雑だからです。しかし、細胞レヴェルでならば、それは比較的シムプルなので、説明しやすいと思われます。


ただ、細胞でありても、そこで果たされる物理事象は複雑であり、かつ、多様です。このため、細胞の動きをきちんと評価するには、細胞内での物理事象のメカニズムなどを慎重に精査する必要があります。


  ................


生物の体の造りと、そこで発生する物理事象は、あまりに複雑です。シムプルな細胞でありても、そこで果たされる物理事象は複雑です。しかも、多細胞生物の体は、細胞・組織・器官で構成されており、多層構造です。そしてそれらの種類は多種多様です。これらのことゆえ、物理法則への違反の印象をきちんと裏づけることは容易でなくて、それに説得力はほとんどありません。


むしろ、そういう複雑さのなかに、物理法則に違反することなしに、生物の能動的動きをもたらす、眼にみえず、物質的でない、なんらかの不思議な鍵ないし秘密が潜んでいるのではないか、と期待されるくらいです。


恐らく、生物学でも、そういうことが暗に想定されている、と推測されます。なぜなら、細胞内部のさまざまな物理事象のメカニズム(手順)には観念的な働き(観念)が含まれておりますが、生物学ではそれらが一切顧慮されていぬ--完全に無視されている・ミシン リンクのままにされている--よう見えるからです。そして、このミシン リンクが解決されない限り、生物の動きが物理法則に違反しないとは明言できません。


しかし、これまでそういうものーー眼にみえず、物質的でない、なんらかの不思議な鍵ないし秘密ーーが明解に示されしことは一度もありません。期待だけが通奏低音のように根強く持続するばかりです。


しかし、不思議なものと言えば、たとえば知性も不思議です。このため、もしもミシン リンクを解決するための鍵として暗に不思議なものを想定するなら、知性もその候補になりえます。生体内での物理事象の説明から知性を除外する理由はないのです。


3) 生体内で運動の第一法則は違反されている


植物をふくめ、生物が自発的・主体的・能動的・整合的に動くためには、その動きに関与する全ての細胞が、その動きをもたらす方向で、統合的・協調的・整合的に動作する必要があります。


そして、ひとつの細胞の全体が統合的かつ整合的に動作するには、その動きをもたらす方向で、構成要素の物質のあいだに様ざまな物理事象が協調的に発生しなくてはなりません。これは必然です。さもなくば、細胞はまともに動くことできません。そして生物の体も整合的に動くことできません。


そして、細胞内での物理事象の核は化学反応です。(細胞内での物理事象には、たとえば、クエン酸回路--TCA回路、TCAサイクル、トリカルボン酸回路、クレブス回路--のように、複数の化学反応で構成される複雑な物理事象もたくさんあります)。


つまり、細胞内での化学反応の発生が、生物の動きの基盤です。


たとえば、動物の多くの動作は筋肉運動によりもたらされます。筋肉繊維はアクチンとミオシンという2種類の蛋白質分子の重合体で形成されますが、その筋肉が具体的(物理的・物質的)に収縮し弛緩するには、ATPがミオシン分子の頭部に正確に結合し、それが加水分解されなくてはなりません。


つまり、生物が動くためには、細胞内で様ざまな化学反応が起きなくてはなりませんが、化学反応がきちんと発生できるためには、関与する物質が正確かつ確実に接触する必要があるのです。ふつう、こういうことは考慮されませんが、これはとても重要なことです。


こういうことゆえ、器官・組織・細胞などの生体の動きをきちんと調べるためには、細胞内での化学反応のメカニズムにおける物質の動きを、原子・分子・アイオンなどの大きさのレヴェルで細かく見る必要があります。


ここで、物質の動きには、化学反応に関与する物質の空間移動(または、輸送)や自転も含まれます。これは当然です。なぜなら、それらがきちんと確実に果たされない限り、化学反応がきちんと確実に発生することは期待されないからです。


そして、たとえば、物質を互いに接触させるには溶液を撹拌するという方法があります。しかし細胞内を撹拌することは不可能です。


このゆえ、化学反応がきちんと発生できるためには、反応物の物質は、たがいに接触できる位置まで、なんらかの根拠ないし原因により、正確かつ確実に輸送されなくては--移動しなくては--ならないのです。


しかも、その輸送は迅速でなくてはなりません。


しかし、化学反応を現実に生じさせるに足る、物質の、微細かつ正確かつ迅速な動きをもたらせる物理的力は、細胞内に存在しないです。これは決定的です。物質のそういう微妙な動きをもたらせるきめ細かな物理的力は存在しないです。


むしろ、細胞内に存在するのは、電磁気力・アイオンの濃度差・浸透圧などの集合的力です。これらは、多数の物質のランダムな動き(移動)の原因になりえますが、しかし、個この物質に微細かつ正確な動きを個別的にもたらすことは決してできません。


このゆえ、信じがたいですが、細胞内での物理事象のメカニズムの進行におき、物質の正確な輸送(移動)などの部分に物理的根拠または原因はないことになります。(ひいては、生物の能動的動きに物理的根拠または原因は根本的にないのです)。それは不思議な動きです。この部分は、生物の能動的動きについての根本的なミシン リンクです。(そして、それはいまだ解決されてはいないです)。


しかし、(物理的根拠または原因ないのに)、細胞内で物質の微妙かつ正確な動き--輸送・移動--は、現実に発生しています。(さもなくば、生物の能動的動きをもたらすための化学反応がきちんと確実に発生すること決してできないからです)。


このゆえ、細胞内での物質の正確な移動などは、(その根拠ないし原因がどのようなものであれ)、運動の第一法則(慣性の法則)に違反するほかはない、と予想されます。その法則の適用が免除されている、とも言えます。


4) 生体内での物理事象の手順には観念的働きも含まれる


さらに、これは驚くべきことですが、物質の正確な空間移動などが可能であるためには、色いろ観念的な根拠も必要です。それは、たとえば、ATPの加水分解に関しては、次のようなことです。


i) ATP分子を細胞内のある場所で加水分解させる必要があるという判断ないし決定


ii) その場所に移動させるATPの選定


つまり、化学反応であろうとも、細かく見れば、それは複数の手順から構成されるです。そして、そのなかには、判断・決定・選定などを果たす観念的働きも含まれるです。物質の対外的な動きの根拠として、こういう観念的働きは不可欠です。これは論理的必然です。


(これは、たとえば、なんらかの物質システムが、中央制御室からの観念的指令にもとづき統合的に運用されるようなことです。大きなシステムにおける物質の目的的動きは、かならず、包括性を有する知性による観念的根拠にもとづき生じるのです。細胞などの生体も、無数の物質から形成されるという点で、大きなシステムです)。


(ちなみに、細胞内で発生する他のほとんどの物理事象にも多様な観念的働きが含まれる、と推測されます)。


そして、ふつう、それらの観念的働きは大きいです。観念は本質的に大きいのです。そして観念をあつかう観念的働きも大きいです。


そして、そういう観念的働きが果たされない限り、物質が対外的に正確かつ効果的に移動することは不可能であり、必要な化学反応がきちんと確実に発生することも覚つかないです。そして生物が整合的に動くこともできなくなります。


つまり、細胞内での化学反応の発生が生物の動きの基盤であるだけでなく、細胞内で果たされる観念的働きも生物の動きの基盤です。むしろ、観念的働きが生物の能動的動きの根本的基盤と評価されます。


しかし、いかに高度に組織化されていようとも、三人称の客体である物質の集合体にすぎないもの(= 細胞)が観念を扱うことは不可能です。物質レヴェルで観念は決して生じないです。物質は、決して観念的働き(思考)を遂行できないのです。


つまり、三人称の客体である物質の集合体(= 細胞)が、本質的に大きなものである知性の働きを代行することは、不可能です。


このゆえ、観念的働きを担当するものとして、細胞には必ず知性が具わりていなければならないことに、なります。これも論理的必然です。知性はかならず細胞などの生体に具わりているのです。知性やその働きが、生物の能動的動きについての根本的ミシン リンクを解決するための重要なキーなのです。


そして、観念的働きは知性により果たされます。つまり、細胞に知性の具わりていることが、生物の能動的動きの根本的基盤です。


さらに知性は意識です。知性(= 意識)の具備とその知性により果たされる観念的働きが、ある意味、生物(生体)の本質と見なせるかも、知れません。


5) 粘菌の知性の実証は、細胞内で運動の第一法則が破られうることも実証している


中垣先生による実験では、粘菌の体が餌のある所に集中しました。このことは、「ここに食べ物がある。ここに体を集中させよう」という(目的的)思考が粘菌に発生し、粘菌の体がそれに基づき動きしことを、意味します。


なぜなら、粘菌の体にそういう特殊な動きをもたらす物質的メカニズムは具わりてはいぬからです。


しかも、体が一つのことに向けて統合的に動くなら、その動きに関与する物質が協調的に動く必要があります。しかし、物質的メカニズムが具わりてはいぬゆえに、無数の物質のそういう動きは、むしろ、大きく包括的な観念に基づく他はありません。つまり、無数の物質の動きは観念に基づいているのです。(これは消去法ですが、仕方ありません。なぜなら、(エナァジの存在同様)、思考や観念を直接実証することはほぼ不可能と推測されるからです)。


そして、(きめ細かな物理的力や物質的メカニズムが存在しない状態で)、物質が観念に基づき空間的に動くということは、その動きが運動の第一法則(慣性の法則)に違反することを、直ちに意味します。


つまり、説明はとてもややこしいですが、中垣俊之先生・マイケル レヴィン・その他の研究者による研究では、生体内で運動の第一法則が破られうることも、視覚的・客観的・間接的に実証されつです。運動の第一法則が破られるというのは信じがたいです。驚くべきことです。


6) 粘菌の知性の実証は、観念と物質のあいだに接点があり、観念には物理的側面のあることも、実証している


私たち人間の主観の意識による、身体感覚や思考の感覚の感知は、即値の事実でありて、当人にとりて、それ以上の実証は一切必要ではありません。


そして、その感知によれば、私たちは、じぶんの意識に生じる考えに基づき活動しています。


(たとえば、発話の筋肉運動はかならず脳(& 意識)に形成される思考にもとづき生じます。自律的な器官での自己制御をのぞき、私たちは、このように、おおむね、思考にもとづき活動しているのです)。


少なくとも、脳のある多細胞生物は、脳(& 意識)に生じる思考に基づき活動しています。


そして、こういうことから、観念と物質のあいだに接点あると、直ちに判断できます。観念と物質のあいだのどこかには、間違いなく接点あるのです。


または、意識の出力側のことはここでは問わぬにしても、意識の入力側におき、意識は外界を感知できています。そして外界は物質です。これは、意識が、外界の物質にかんする感覚を得ることができるということを、意味します。そして、感覚は、観念であり、情報です。つまり、物質についての情報は、意識にたいし、どこかで、感覚という観念になるのです。


つまり観念と物質のあいだに接点はあるのです。


そして、このことは、(少なくとも意識に生じる)観念には、(それは物質的ではないにせよ)、物理的側面あることを、意味します。私たち人間の感じる観念は物理的です。


しかし、人間や生物が感じる観念に物理的側面が具わりていることを客観的に実証することは困難です。なぜなら、観念を直接客観的に実証することはほぼ不可能と予想され、かつ、多細胞生物の体とその動きのメカニズムは複雑怪奇だからです。


しかし、単細胞生物ならば、その体全体が1個の細胞であり、かつ、脳はありません。つまり状況がとてもシムプルです。このゆえ、単細胞生物にかんしては比較的検討しやすいと、思われます。


そして、単細胞生物である粘菌に知性の具わりていることが、中垣俊之先生により実証されました。さらに、プラネリアに知性の具わりていることも、マイケル レヴィンにより実証されました。


これらの脳のない単細胞生物につき検討するなら、それらに知性が具わりているということは、より正確に言えば、それらの体全体に、それらの統合的かつ整合的な動きの根拠となる、大きく包括的な観念が発生する、ということを意味します。


そして、このことは、さらに、これらの生物の動きに関与する全ての物質が、その大きく包括的な観念にもとづき動く、ということを、意味します。


そして、これは、直ちに、それらの生物の体内に観念と物質の接点があり、観念に物理的側面があることを、意味します。


つまり、この説明もややこしいですが、これらの生物の知性の実証は、このことも、視覚的・客観的・間接的に実証しつのです。


観念と物質のあいだには接点があり、観念には物理的側面があるのです。これは一大事です。


こういう認識が物理学に取り入れられることが望まれます。少なくとも、生体内部で、知性により形成される思考という観念が、物質の対外的動きに影響しうる、という認識は必要です。なぜなら、その観念が物質の動きにまさに関与しているからです。物理学がこのことを無視するわけにはいかないと思われます。






  《 記憶は生物の活動の重要な基盤かも知れぬ 》


北海道大学の中垣俊之先生により、単細胞生物で脳のない粘菌に知性と記憶の具わりていることが、間接的ながら、視覚的かつ客観的に実証されました。


また、タフツ大学の生物学者のマイケル レヴィンも、プラネリアという脳のない扁形虫を使いし研究で、そのワームに知性と記憶の具わりていることを間接的に実証しています。


さらに、ほかの研究者も、脳のない植物をふくめ、さまざまな生物に、知性と記憶の具わりていることを間接的に実証しているようです。


植物をふくめ、脳のない生体に知性の具わりていることが実証されつということは、とても重要であり、高く評価されます。


生きている知性は意識です。このため、脳のない生体の知性の実証は、脳のない生体に意識が具わることも実証しています。間接的ながら、意識が客観的に実証されつのは、初めてです。この点でも、生体の知性の実証は高く評価されます。


さらに、上記の研究では、脳のない生体に記憶の具わりていることも実証されました。これは、革新的なことであり、きわめて意義ぶかい、と思われます。


なぜなら、記憶と記憶にもとづく予測が、さまざまな生体における、多数の手順で構成されて時間のかかる物理事象を達成するための根拠ないし基盤になる、と予想されるからです。たとえば、細胞内でのクエン酸回路などが、これに該当します。


また、多数の手順や物理事象で構成される多層で大きな物理事象もあります。これは、おもに、細胞・組織・器官・体の機能的ないし形態的な変化をもたらすと、思われます。これはまさに進化に該当します。そして、その実現は、その複雑さや大きさに応じ、多かれ少なかれ、時間を要すると、予想されます。しかし、その時間がどれだけ長かろうと、その間、意識が持続しているかぎり、記憶と予測はある程度は保持されるかも知れません。


このゆえ、生体の知性(= 意識)に記憶が具わりていなければ、生体(生物)の活動や進化は根本的に不可能と思われます。


記憶は、意識の形成での新しい機能の創発かも知れません。意識とはそういうものかも知れません。そして、意識が持続するかぎり--生体の活動度が低下しようとも、その生体が生きているかぎり--、記憶は(物理的)意識に保持されるかも知れません。そして、その記憶が、時間のかかる、さまざまな物理事象の根拠ないし基盤になるのかも知れません。


こういう点で、記憶の実証はほんとうに意義ぶかいと思われます。






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