再起
両親からの提案があったが、じゃあすぐに明日から大学に戻る。なんてのは流石に無理だった。だから今は近所の公園やコンビニ程度の外出を頑張っている。その間、五十嵐さんが手に入れてくれた、本来受けるはずだった講義のノートで勉強も進めたんだ。
進級出来るかどうかは、入院の証明なども含め相談するつもりだ。問題は出席日数だしな。単位はレポートを出せば貰える講義もある。俺はこんな性格だが教授と仲が良かったりもするからさ。だからと言って優遇はされないのは分かっているけど。
無理だった場合でも休学はしない。それで再度通えるか分からないし。自分の情けなさを自覚する必要があると思ってる。もう成人だし学生とは言え、家族に迷惑をかけるのは駄目だ。だから先ずは、大学へ行く事を優先したい。どんな風に見られるか考えると、憂鬱になるけどな。それに克服すべき問題がある。果たして俺はあの3人の顔を見た時、正常で居られるのだろうか?
トゥルルルル♪
「はい。近藤です。ええ。終わりましたか。思ったほど時間を掛けずに済んで良かったです。これで1番面倒な害虫処理が済みましたね。現実的には、これ以上は出来ないんでしょうし。残りは違う形になりますが、何かあればお願いします。先生。本当にありがとうございました」
何やら母さんの楽しそうな会話が聞こえた。害虫処理? 会社にネズミか何か出たのかな? まぁ喜んでるなら良いか。ただ最近、雰囲気が変わった? たまに怖い顔してるよな? 俺の事で仕事を休ませてしまったから、影響が出ていないか心配だ。やっぱり早く何とかしないと。
さて。今日も確か五十嵐さんが、新しいノートを届けてくれるんだっけ? わざわざ来てもらうのも申し訳ないんだけどなぁ。彼女はこれ以上、俺の件に関わらない方が良いと思うし。例の提案の内容なら大学内で会えば済む話だしな。今まで孤独感を感じていたし、話し相手になってくれれば助かるけど。
正直、母さんが、五十嵐さんに無理強いしていると思うんだ。就活でお世話したとは言うけどさ。内定もらったのか? もし貰ってるんだったら、余計にマズイ気がするんだけどなぁ。それこそ大学内で知られれば、やっかみも増えるだろうし。大学内で動きにくいだろう。
こんな情けない俺の為に多くの人が迷惑してるんじゃないかな。それに異性が頻繁に俺の家に出入りしていると、近所の目もある。ここは賃貸マンションじゃないから、変な噂が立つと住みにくくなるし。その点を母さんはどう考えてるんだろうか?
悩むなら聞いた方が早い。俺は自室を出て、リビングへ向かった。
「母さん。ちょっと良い?」
「ん? どうしたの?」
「五十嵐さんをさ。頻繁に出入りさせない方が、良いんじゃない? ほら。近所の目もあるしさ。俺はノートを貸して貰って助かってるけど」
「まぁその辺りは考えてるわよ。お隣さんには、私の仕事関係って言ってあるし。小春さんには今、色々とやってもらってるしね。そんなに心配するなら、出来るだけ早く小春さんを助けてあげてね」
はぁ。上手く丸め込まれたな。しかし母さんが五十嵐さんに、何を頼むんだろ? 仕事の手伝いとか? まさか俺とくっつけようとか思って無いよな? 今は絶対そんな気にならないし、五十嵐さんに失礼だ。彼女自身、罪悪感でやっているだけだろうし。今の母さんは、過剰に過保護すぎると思う。それだけ心配させた俺が悪いから、感謝しか言えないけどな。
ピンポーン。
ちょうど良いタイミングで、インターフォンが鳴る。これ以上、色々考えると精神的に良くない。俺は大丈夫だ。さっきの電話の音もインターフォンの音も、今の俺なら不安を感じない。そう思って画面を見た瞬間。俺は凍り付く。
「な、何しに来やがった。もうお前と話す事は無い。謝罪も必要ないから帰れ!」
俺はそう言ってカメラを切る。今のは幸助だ。平然とここに来れる図太い所が、アイツらしいよ。俺もよく言葉が出せたもんだ。カウンセリングの効果が分かって良かったけど、やっぱり身体は無意識に震えている。
は⁉︎ ヤバいな。五十嵐さんが来る。俺は慌ててリビングへ向かって叫ぶ。
「母さん! 今すぐ五十嵐さんに連絡して! うちに来るなって!」
「どうしたの? そんなに慌てて。さっきのは、小春さんでしょ?」
「違う。 今のは幸助......だよ。もし五十嵐さんと鉢合わせたら、何をされるか分からない。画面越しでもアイツは変だった」
「......ちっ。分かった。早急に駆除しなきゃね」
「え? 今なんて?」
「ん? こっちの話。とにかく小春さんには、すぐ連絡するわ。ハジメは大丈夫なの? 苦しいなら部屋に行ってなさいな」
なんか俺1人が焦っている。何故母さんはそんなに冷静でいられるんだ? 幸助が闇を抱えている事は、母さんだって知ってるはずだろうに。五十嵐さんが心配じゃないのか? そんな風に考える俺を意に介さず、携帯を手にベランダへ向かう母さん。電話ぐらい俺の前でも出来るだろう。そう思ったが、五十嵐さんの連絡先を知らない俺は、素直に自室へ戻った。
例え勝手に侵入して来ても、家の中までは入れない。そこまでするかは......。母さんはその後、ベランダで長々と電話していたが、内容は聞こえ無かったよ。盗み聞きする趣味はないけど、何を話しているのか気になる。またあの表情をしてたしな。それにあの呟き。何だか人が変わった様で怖い。
その少し後、パトカーのサイレンが聞こえたが、自室の窓からは何も見えなかった。近くで何かあったのかな? などと考えたが、勝手に家の外へ出る事は控えておく。自分から危険に飛び込む必要はない。
幸助は一体、何しに来たんだろうな。アイツが素直に謝罪に来るはずが無いし。カメラを見つめる目は虚で、一言も言葉を発しなかった。それだけで俺の知っている幸助らしくない。普段のアイツなら、お構いなしに話すはずだ。俺が見ていた姿も仮面だったのか? その点、真希や桜子は、表情を隠し切れていなかったと今なら思える。はぁ。駄目だな。あまり考え過ぎない方が良い。もう自分から関わる気は無いんだから。
2日後、何時もと変わらない様子で、五十嵐さんがやって来た。
「五十嵐さん。この前、大丈夫でした? 変な事に巻き込まれてない?」
「この前? ......あぁ。晴美さんに頼まれて、用事を済ませた日ですね。来れなくてすみませんでした」
「母さんから用事? い、いや。それなら良いです。何時もノートありがとう」
「気にしないでください。ついでですから。近藤君はあれから如何ですか? 体調が悪いなら、私を気にせず部屋で休んでくださいね」
何だろうな。表面上は普通なんだが、人形と話してる気分だ。退院した日に会った五十嵐さんじゃない。顔は笑っているのに、感情も感じない。これがビジネススマイル? 幸助の顔を見てから、母さんにも五十嵐さんにも違和感を感じてしまう。何か隠されてるのか、それとも俺の考え過ぎだろうか? 気分がすぐれない俺は、五十嵐さんに断って自室へ戻った。明日はカウンセリングの日だから、先生に相談してみよう。
翌日、俺は父さんと車で病院へ。もう送り迎えは断ったんだが、先日の事もあり念の為にと言われて了承。父さんの変わりようも母さんの影響かも知れないな。その分、色々と話が出来てさ。子供の頃に無かった時間を埋めて行っているけどな。でも家に居たら一緒にお酒を飲みたがる。楽しそうに夢だったと言われたら、断るのがつらい。だから早く回復して、その夢は叶えてあげたい。
「失礼します。黒川先生。お久しぶりです」
「やぁ。顔色も良さそうだね。この分なら薬も減らせるかな?」
「安定剤は必要ですね。たまに夢にうなされますし」
「ふむ。まだ心の内に溜め込んでいるね。例の彼女さんの事かい?」
ドキッとした。黒川先生は何時も鋭い。確かに夢に出て来るのは真希だ。ただ未練と言うのでは無く、どうして? と言う疑問を問いかけてる夢。振られるのは良いんだ。男女関係なんだから、俺以外に気持ちが移るっておかしな事でもない。たった一言、別に好きな人が出来たと言って欲しかったんだ。それなら納得出来るかは別にして、ちゃんとお別れが出来たと思う。
だから何故? 俺を貶める考えに至ったのかを知りたいんだ。俺はそこまで憎まれる様な事をしたのかな。例え色々と悪評があったとしても、俺を信じてくれなかったのは何故? 10年近い付き合いがあっても俺は真希を何も知らなかったのだろうか?
気づいたら先生に話していて止まらなかったよ。それに対し否定も肯定もせずに、先生は黙って聞いてくれた。まただ。また涙が止まらない。
「泣きたいだけ泣きなさい。ここはその為の場所だからね」
毎回なんだが、黒川先生はティッシュを箱で用意してくれる。いい歳した男が、カウンセリングのたびに泣きまくるからな。診察の後は目も鼻も真っ赤で恥ずかしい。入院してた頃は、婦長さんによく揶揄われてたな。それでも黒川先生だけは、何も言わずに寄り添ってくれる。本当に良い先生に当たったものだ。
「ハジメ君は今まで溜め込んでいたんだよ。だから今の環境に戸惑いもあると私は思う。きっとご両親もそれを心配されているんじゃないかな。恥ずかしがらずに甘えたら良い。家族なんだからね。それが出来るのも今だけだ。そして親孝行してあげなさい。それが出来れば君も変われるよ」
「はい。ありがとうございました」
この先生は何時もそうだ。きっと俺を泣かせたいに違いない。
診察室を出ると父さんが心配そうに待っていた。だから俺は笑顔で声をかける。するとホッとしてくれるんだよね。何時までもこう言う関係でいられたら良いのに。
このカウンセリングから10日後。俺は遂に大学へ向かった。心配性な両親は駅まで送ってくれたよ。先生の助言通り甘えておいた。ただ改札までの見送りは辞めて欲しい。流石に恥ずかしいから。
俺は元気に手を振りかえし、もう懐かしく感じる電車へ乗った。見慣れた風景が新鮮だよ。通勤時間より後だから、それほど混雑していない車内。やはり同じ大学の人間もチラホラ居る。それとなく見るが、罰の悪そうな顔で目を逸らされた。
これは聞いていた通りの状況なんだろう。ずっと感じていた嫌な視線は感じないし。ああ。こんな事なら、もっと早く勇気を出すべきだったな。まぁそれも今だから思えるんだろうけど。
そして最寄り駅へ到着。ん? あれは五十嵐さん?
「おはようございます。大学までご一緒してよろしいですか」
「あはは。母さんに言われたんでしょ? もう何処まで過保護なんだか」
「優しい方ですよ。さぁ行きましょう」
まただ。彼女は自分の今の顔に、気づいていないんだろうか? 感情のない顔に貼り付けた笑顔。俺はまだ五十嵐さんに、その事を指摘出来ないでいる。もしかしたら、俺も前はこんな感じだったのかな。
碌な会話もしないまま、大学の入口まで歩く俺達。大勢の中の2人なのに、かなり注目を受けているよ。それでも気にしない様に構内へ足を進め、とうとう俺は大学内へ。
「ただいま」
小さな声でそう呟く。こんな気持ちの良い通学は、初年度以来かもな。俺は思わずニヤけそうになるのを堪え、事務局へ向かった。やっと来たは良いけど、やるべき事はいっぱいあるからな。そこで調べて貰ったんだか、単位だけなら前期で頑張った分、ギリギリ進級出来そうだったよ。但し、出席日数は講義により違う。
うちの大学では出欠を取らない講義もあるし、出欠を指定の用紙に書いたり、授業のレポートで出席を確認したりする場合もあるんだ。俺の提出した診断書を大学がどう判断するかで、留年も決まるだろう。俺だけ特別扱いなどされないから、期待はしない方が良いと考えているけどな。レポートについては家にいる間に、書ける範囲で書いて来た。それも提出するだけはしてみたよ。後期試験まではまだ余裕があるし、駄目元で頑張るしかない。
今出来る事を済まし、俺は講義のある教室へ向かった。出来るだけ目立ちたくないんだが、やはり注目はされるよなぁ。これに慣れないと、また大学に来れなくなってしまう。だから誰とも視線を合わさずに、ただ無心で歩いたよ。その時だ。
「近藤君。すまなかった。俺は君を誤解して何も知らずに、失礼な言動を繰り返してしまった。本当にすまない」
1人の男子学生が俺の前に立ち、そう言って深く頭を下げる。いきなりの事に驚いたが、何時もの様に深呼吸して息を整えた。そしてその彼に言った。
「誤解ですか。俺は貴方を知らないが、貴方の謝罪は受け取ります。ただね。誰かを悪者にして、優越感を持つのは辞めた方が良いと思います。その行為は人を傷つけますから。俺が入りたかった大学が、そんな人間の集まりだとは思いたくない」
俺は相手の返事を待たず教室に入り、五十嵐さんの隣へ座った。あ〜。俺は馬鹿だ。怒りを抑えられなかった。誰もかれもが口を開けば誤解って言う。ならなんで俺に確認しない? 俺は真希以外から誰にも尋ねられた記憶がない。
それに謝って居る姿がさ。ただのパフォーマンスにしか思えなかったんだ。頭を下げた際に僅かに見えた口角が、悪態を投げつける時の口元と同じだったんだ。だからつい言ってしまった。
「どうかされたんですか?」
「い、いや。何でもないです。やっぱり緊張しますね。久しぶりの大学は」
ふぅ。初日からこれでは先が思いやられるな。俺はこの時、見逃していたんだ。すぐ隣で俺を見る人の口元を。