ピリオド1「差し伸べられた温かさ」
そんなとき、自分の両手に何かが覆い被さった。生温かくも、冷たい感触。見ないでもわかる。それは人間の手であった……
私はすぐに後ろを振り返ると、そこには二十歳ぐらいの若い男の人が立っていた。その人は優しく私の手を頭から離させて、彼は自身の手でそっと私の髪を整えてくれた。
海の底のような藍色の、ふんわりウエーブがかかった髪。左耳に髪をかけ、前髪は目にかかる長さで、目元はあまり見えない。
しかし、口角を上げた口許からは、不思議と穏やかな表情を浮かべているように感じさせた。
そして、そんな彼の手からは魔力が送られてくる。本来ならありえないはずなのに……
私の目の前に佇む彼は、私の両手を掴んでいる。彼の掌は私よりも冷たいのに、じわじわと内から温かいもの……魔力が私の身体に流れ込んでくる。
* * *
「僕の名前はアルド・ロア。今回の調査団の一人だったんだけど、途中で迷ってしまって……やっと洞窟の拓けたところに着いたと思ったら……君がいたのさ」
耳にふわふわと漂う声。目を見開いたままの彼女に、彼は軽い口調で続けた。
「ああ、驚かせてごめんね。僕は戦えないけれど、触れたものに魔力を与えられるんだ。あっ……見ず知らずの者が急に触れたら怖いよね……」
彼は申し訳なさそうに手を離した。
「――触れたものに魔力を?」
やっと彼女の表情が変化……というよりかは眉がきゅっと寄せ上がった。目や口元は、きょとん顔のままだった。
彼は自分の手元を見ながら話し始めた。
「ああ。僕は触れさえすれば勝手に魔力が渡る体質なんだ。珍しいよね。でも、それは魔獣にも有効で、魔獣に触れられたらおしまいなんだけどね……」
「そう、なの、……珍しい……体質ですね……」
重大であろう内容だが、彼はスラスラと軽く笑みを込めて言った。
一方で彼女の方は、先程まで動揺していたのだからたった数分前に出会った男性のことまで考えを巡らせられないでいる。それゆえ、驚きもまともに表現できない。
いまいち理解ができないまま、彼女は応えた。流暢に話した彼とは違い、一つひとつの言葉を発するのに時間がかかっていた。そして、彼女はあることを忘れていたのに気づき、慌てて続けた。
「申し出るのが遅くなってごめんなさい。私の名前はライナ・スカーレット。そして……魔力を送ってくれてありがとうございます」
彼女は深々とお辞儀をした。彼女は頭を下げたときにやっと、彼に自身の醜態を見られて尚且つ、止めてもらったということに気づいた。それから一気に青ざめる思いと恥ずかしい思いがこみ上げてきた。心はひんやりするけれど、体温はドッと上がった。
彼女は罰が悪そうにしながら、顔を上げた。彼の目を、顔を、見ることを恐れ、彼女は下を向いた。
ドォーン。
大きな地響きが起きた。
それから、ドォン、ドォン、ドォンと何かがこちらに近づいてくる音がする。
やはり……と彼女は思った。小さく息を吐いてから口を開いた。
「そこにいる魔獣は、私が先程倒しました。恐らくこの奥に……それを上回るボスがいます……ね、もうすぐこちらに来ることは間違いない……でしょうね」
「この音はそうだよね。うん、魔獣だね。いやあ、この倒れている魔獣も結構大きいけどね」
彼のどこか素っ頓狂な態度と違い、彼女の言葉は淡泊且つ少ない言葉で要件を伝えようとされていた。声も先程より沈んでいた。
勿論、彼女は五メートル級の魔獣討伐で既に精神が乱れており、さらに稀有な存在に遭遇して身体も心も頭もぐちゃぐちゃになっていた。
しかし、もうじきあろう魔獣の再来を察知して切り替わった。
彼女は鞘にも戻さず、放り置いていた剣を静かに拾った。付着した血で異臭を放つ剣を一振りして、その汚れごと取り去った。戦いたくはないけれど、逃げるわけにもいかない。
元々、共に行動していた調査団のメンバーたちが洞窟を抜けて助けを呼びに行っているとは言え、駆けつけるまでには時間がまだかかるだろう。今はまだ洞窟の先がはっきりと明るいわけではない。助けは夜明けまで来ないだろう。
仮に助けを待ったところで、大型魔獣との長期戦では彼女たちに勝ち目はないだろう。魔獣に背を向けて走れば、先程逃がした調査団と合流してしまう。そうなれば、今までの彼女の頑張りも水の泡となってしまう
――どうにか、生存率を上げなければならない。
またしても、彼女は誰かを助けるという意の含まれた戦いに挑まねばならない。彼女は下唇を噛んでから、剣を強く握りしめた。音のする方へ構えた彼女の眼は、命を迷う余裕なんて消えていた。
その力んだ手に、そっと彼は自身の手を被せた。そして、悲しい表情をしながら
「魔獣が僕に接触したら魔力が渡ってしまう。だから、基本的には僕は後方支援になってしまう……先に謝っておくよ、ごめんね。けど、絶対にフォローするから。魔力しかあげられないけど……一緒に頑張るから……」
「――わかりました。私もあなたを頼らせてもらいます」
「それと……敬語なしで互いに名前で呼ぼう、ライナ!」
一言前とは変わって、彼は明るい雰囲気で歯を見せてにっこりと笑った。これから大きな戦いがあるというのに……
ライナはまだ会ったばかりの彼との距離感が分からずにいたが、仕方なく「ええ……」と答えた。
先程の戦いで消耗した魔力はアルドから補うことができた。あとは、ライナがどこまで頑張れるかにかかってくる。
徐々に音が近づいてくる――
もう他の命を考える気持ちなんて毛頭ない。
逃げ出したい感情も。怯える気持ちも。
覚悟をはしたとはいえ、全てが追いつかないまま始まろうとしている……
――壮絶な戦いが、二人を残酷に嘲笑いながら待ち受けていた。
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