第2話 逃亡の果てに
王宮で私にあてがわれた部屋の床をくり抜いて作った空間に潜ませておいた聖剣と聖鎧を取り出し、ドレスを破り捨てて下着のまま鎧を身につけた私は窓を突き破って王宮を脱出した。
翌朝、世界を救った勇者は寵愛を受けようと寝所にいた王に夜這いをかけ誘惑したが、拒絶されたことで激昂し城内の兵を斬り殺して逃亡した、と報じられた。
根も葉もない作り話はまたたく間にミクリオンにそしてエルディラード全土に広がり、私はお尋ね者となった。
広大なエルディラードで人一人見つけることは不可能に近い、と高をくくっていた私を打ちのめしたのは、最後の戦いでも共に戦ったパーティメンバー『最後の英雄』の一人、『至高の賢者』バルディオスだった。
彼は千里眼を以て、私の居所を突き止めて王の親衛隊と共に私の寝床を襲った。
「バルディオス! 王の言っていることは全て出まかせだ!
あなたほど聡明な御仁がそれに気づかないわけあるまい!」
私の叫びにバルディオスは深いシワの刻まれた顔をしかめてため息をつく。
「ワシが聡明……嗤わせるわ。
賢者などただ魔法とその知識に長けた者を尊称する呼び名に過ぎん。
魔王が死んだ今、国を滅ぼしかねない力を持ったワシのような存在は権力に固執する王侯貴族や平和を愛する愚民どもにとって危険以外の何物でもない。
だから王はワシにろくな権力を与えず、表向きには存在しない王室直属の暗殺部隊のコマの一人とした。
邪魔になればいつでも始末できるようにな。
残りわずかの余生を暗殺の恐怖に怯えながら過ごせと申すか?
飼い主様に可愛がられるためならば阿呆にでも俗物にでも成り下がってみせるわ。
お主はそうなれなかった。
だから、こうなった」
そう言い捨てて彼は極大の灼熱魔法で私の逗留していた宿を焼き払った。
逃げる私の背後からは炎に灼かれる宿の主人や家族、そして他の宿泊客の叫び声がした。
「どこまでも逃げるがいい!
逃げれば逃げるだけワシの御役も長引くというもの!
ジークリンデ!
お主の生に安息は訪れぬ!
轡を並べし戦友たちこそが此度の貴様の敵じゃ!」
燃え盛る炎を背にゲラゲラと笑うバルディオスは既に狂気に取り憑かれていた。
バルディオスの予言したとおり、私のもとにはかつて仲間だった者たちが私の命を狙って押し寄せてきた。
真っ向から立ち向かってくる者もいれば、罠を張る者や味方のフリをして陥れようとしてくる者もいた。
私は聖剣を振るって彼らと戦った。
彼らの中には私に肉薄する力を持つ者もいる。
容赦は出来なかった。
だが、聖剣は彼らの血を吸う度にその輝きを失い、真っ白だった刀身は赤黒く錆びていった。
グランカリバーは魔を討ち滅ぼす勇者のための剣。
魔王討伐という使命を果たした今、ただ自分の身を守ろうと人を斬る度に聖なる加護を失っていくのは当然だった。
およそ一年の間逃亡生活を続けてきたが、状況は何一つ好転せず、かつての仲間たちと殺し合いを続ける中で私は肉体的にも精神的にも疲弊していった。
だから、塁が及んではならないと旅の途中も頑なに近寄ろうとしなかった故郷に帰ってきてしまった。
全ての人々が悪意と殺意を向けてくるこの世界で、残されたたった一つの希望にすがってしまったのだ。
故郷は私が守護者たちにさらわれた時から時間が止まっていたかのように、山も川も家も畑もすべて同じ場所に同じようにあった。
そして、私が育った小さな宿屋の扉を開くと、頭の禿げ上がった父親と白髪の混じった母親がせっせと働いていた。
彼らは私に気付くと、ジークリンデと名乗る前の私の名前を呼んで抱きしめてくれた。
王都での私の噂は辺境のこの村にも伝わっていなかったようで、胸をなでおろした。
だが、隠しておくことは出来ずあったことを全て両親に吐露した。
「それでも私達とこの村の人たちはあなたを守る」
そう言って涙を流す両親の前で、私もまたワァワァと子供のように泣き崩れた。
全てを失ってしまったと思ったけれど、私には故郷も両親も残っていた。
大丈夫。
この場所とこの人達を守るためならば聖剣も力を貸してくれる。
そして私は絶対に誰にも負けはしない。
誰が襲ってきても守り抜いてみせる。
それから私は毎日村の門番として王国の暗殺者たちの襲撃に備えた。
だが、幾日経っても村を攻める兵は派遣されず、平和な日常を送っていた。
「王もようやく諦めたのだろう。
お前が逃げている間にも何人もの美姫に手を付けられたと噂されている。
怒りに身を燃やし続けられるほど、王は強いお方ではない」
安堵の言葉を漏らす両親の言葉に、楽観的だとは思うが私もそうであることを信じた。
続けて、村を挙げて私の凱旋パーティをすることが告げられた。
いくら王都から離れた村とは言え、騒ぎすぎると厄介なことになると思ってたしなめたが、
「世界を救った勇者を祝うことを咎めるなど誰にできよう!
たとえ王の親衛隊が迫ろうとも村の男どもかき集めて撃退してやるさ!」
と胸を叩く父親の姿を見て、不安な気持ちは一気に萎えてしまった。
その夜は生まれてから一番楽しい夜だったように思う。
村の人々が私の冒険譚に耳を傾け、口々に私を褒め称える。
幼馴染の女の子は一緒にワイン造りの仕事をしようと誘ってくれた。
幼馴染の男の子は嫁の貰い手がなくて困ってるからウチなんてどうだ、なんて雑な求婚をしてきた。
皆が優しくて、皆が笑っていて、涙をこらえるのが大変だった。
一生分の幸せが詰まったこの夜を与えてくれた神様に生まれて初めて、感謝した。
だがそれは突然、雷が落ちるかのように私の身体を走り回った。
急に吐き気が止まらなくなり、目の前に並べられた料理の上に私は胃の中のものを吐いた。
「ようやく効いてきたか」
朦朧とする意識の中で父親の言葉が響く。
「おとう……さん……」
「すまんな。でも美味かったろう。
父さんが腕によりをかけて作った最後の晩餐は」
いつの間にか、村の人達は宿からいなくなり、代わりに王家の紋章をつけた兵士たちがドカドカと武器を構えて闖入してきた。
「哀れだな。ジーク」
兵士たちの間を割ってひときわ背の高い男が私に近づいてきた。
「レ……レオンハルト……まさか……あなた、まで……」
「当然だろう。
お前の首を取るのに俺ほど適任者はいない。
何せ『聖剣の勇者』と双璧をなす、『聖躬の射手』なのだから」
金色の前髪をかきあげてレオンハルトは近寄り、私の顎を掴む。
「王の好色ぶりには反吐が出るが、お前を葬る口実を与えてくれたことには感謝しなくてはな。
先陣を切って戦うお前の背中に矢を射掛けてやりたい衝動に駆られたことは数え切れん」
生き残った仲間たちの中でもレオンハルトとは最も古い付き合いだ。
守護者たちを亡くして、途方に暮れていた私を支えて突き動かしてくれた人。
誰に対しても優しく、誰よりも勇敢で強靭な戦士……
親友のように心を開き、兄のように慕っていた。
「そんな貴方が……どうして!?」
「俺より強い者。
武の道を極める上でそれだけで貴様は俺の的になる。
魔王を葬り去るまでは、と矢をつがえた指を必死でこらえていたがな」
私の襟ぐりを掴み、壁へと叩きつけた。
「さあ。聖鎧を纏え!
聖剣を手にしろ!
無防備な娘ではなく、聖剣の勇者として俺の糧になれ!」
レオンハルトの怒鳴り声に応えるようにお母さんが私の剣と鎧を投げつけてきた。
「おかあさん……どうして……?」
お母さんは困ったように目頭を抑えて呟く。
「死んだと思うようにした娘に今更帰ってこられても……
しかも厄介事を村に連れてこられてはねえ」
「もう家族ごっこをする歳ではないんだ。
お前は一人の大人として生きている。
自分のやったことの始末は自分でつけろ」
お母さんをかばうように前に出てきたお父さんは無表情で嘘のように冷たい言葉を私に吐く。
「私は何も悪いことはしていない!
王が私を……て、手篭めにしようとしたから!
それで……抵抗して――」
「知らん!
たとえそうであったとしても私たちには関係ない!
お前がお前のためにやったことの責を何故私たちが取らねばならん!!」
突き放された私は、体の不調と精神の乱れから再び嘔吐した。
「だ、そうだ。
始めようか、ジーク。
聖剣と聖躬に見初められし者同士。
魔王のいない今、世界最強を決める最後の決闘だ」
振るえる指で鎧を身に着け剣を取った私はレオンハルトに挑みかかる。
だが、彼の身体に触れることすら出来ず、彼の放つ矢が次々と私の身体に突き刺さっていく。
「しぶとい女だ……
オーガですら一射で射殺す我が弓をそれだけ食らって生きているなんて」
感心されているようだが、必死で急所を避け続けているだけだ。
体の動きはどんどん鈍くなっている。
食らった毒も一向に消えない。
こんなものを呑気に食べていた私はどれだけ両親に気を許しきってしまっていたのか。
いや、両親だけではない。
村の人達はみんな、私をこの状況に追い込むために芝居をし続けていた。
私が幸せだと思っていたこの夜は台本どおりに演者が駆け回る舞台劇だったのだ。
とんだ悪辣な喜劇だ。
観客であったレオンハルトは舞台の上で満悦の笑みを浮かべている。
そのことが私の中のかすかに残った闘志に火をつける。
私の尊敬も信頼も踏みにじって自らのプライドを満足させようとする男。
その気になればこんな回りくどい真似をしなくても私を討てただろうに、用心深く力を削ぎ落とし、心を摩耗させたところを狙ってきた。
許せない……
こんなことにならなければ両親に裏切られる瞬間を目にしなくて済んだのに……
聖剣を膝前に構え、よろつくように身体を崩し、床を蹴ってレオンハルトに飛びかかる。
レオンハルトの放つ矢が一射、私の肩を貫く。
もう一射、私の膝を貫く。
それでも私は止まらない。
刺し違えてでも、この男の首は取ってやる。
距離を詰めてくる私に焦ること無く放たれる一射は私の額を正確に狙っていた。
「ガアアアアアアッ!!」
私は顎を開けて、その矢を歯で噛むようにして受け止める。
距離は詰まった。
渾身の力で聖剣をレオンハルトの肩口に向けて振り下ろした。
ガキィィィィィン!
……刃はレオンハルトの肩当てに止められた。
赤く錆びついた剣はもはや数打ちの剣にも劣るなまくらぶりで、その重さは鉛のようだった。
「そんな……グランカリバー……」
私は戦いの日々を共に過ごしてきた愛剣に向かって叫ぶ。
「お前まで私を裏切るのか!?」
私のその表情がお気に召したようでレオンハルトは哄笑しながら私の胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「ハーッハハハハハハハハ!!
聖剣の勇者は今死んだ!!
死んだぞ!!
ここにいるのは哀れなただの小娘だ!!」
突如、レオンハルトは私の唇を奪い、舌で口内を弄った。
「……っっ!? ンっっ!?」
予想外の攻撃に対して咄嗟に彼の唇を噛むと、突き倒すように私を投げ捨てた。
「殺すくらいに憎かった。
だけど、お前に慕われるのは悪いものではなかった」
口端から血を垂らしながらも満足げな表情でレオンハルトは私に向かって弓を構える。
「さらばだ。ジーク。
輪廻の先では普通の女として生きられることを願っている」
普通の女……か。
私には想像もつかないものだ。
それが幸せなものなのか不幸なものなのかすら想像もつかない。
だけど、今の私に比べれば遥かに幸福であろう。
選ばれし勇者として運命に従い、使命を全うした。
そこに私の選択も自由も存在しなかった。
そうやって手に入れたものに何の価値があるだろうか。
いや、無かったからこそこうやって全てを手放して冥府に向かうのか。
世の中というものは残酷ながらも公平にできているのだな。
矢が彼の手を離れる、その瞬間だった
真夜中の闇を映す窓から太陽の光が差し込んだかに見えた。
ブワッと広がる光に部屋中が包まれ、私以外の誰もが目を抑えてのたうち回りだす。
「うわっ!! なんだ!?」
狼狽するレオンハルトと配下たち。
そのスキを見て私は聖剣を拾い上げて宿から飛び出し、裏手の森に向かった。