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文学という形式が答えだという事

掲載日:2018/05/02


 自分は文学というものの本質、真の文学、本当の文学というものを、現在の文学(主によしもとばなな以降)を批判的に見ながら考えてきたが、ウィトゲンシュタインをくぐり抜けてみると、この言語ゲームには「底」がない事がわかった。「本当の」という言葉に取り憑かれた者は泥沼をどこまでも沈んでいく地獄を味わう。人はこの地獄の表面に立って、生活をしている。


 自分も考えを変える必要が出てきた。ウィトゲンシュタインはーー極めてわかりにくい形でーーある転回をしている。コペルニクス的転回とも言うべきその転回というのは、理解するのが難しいのだが、そのように相対的に見なければ、僕は泥沼の中でもがいて死ぬであろう。もちろん、それでいいわけだが、ここで一歩足を出す必要がある。「ここがロドスだ、ここで飛べ」


 僕はこんな風に思う。文学とは一つの視野である。認識である。文学それ自体が、その形式性そのものが答えである。そしてそれが答えだという事は、その内部には答えはないという事だ。文学は人生を描く。人間を描く。だが、人間は答えを求める。しかし、答えは答えではないのである。


 例えば、アインシュタインの生涯を考えみよう。アインシュタインは特殊相対性理論から一般相対性理論にかけて、学問的創造性を発揮したが、その後は有名人的な立ち位置になった。ニュートンもそうだが、ある時期を越えると、物理学者としての創造性は消えたように見える。


 アインシュタインという人物を人は天才と見る。しかし、仮にアインシュタインが失望や悲嘆の中に死んでいったとしても、人はそれを見ない。チャーチルは政治家としてほとんどの事を成し遂げたのにも関わらず、晩年には鬱病に喰われて悲嘆しつつ死んでいったらしい。この時も人はチャーチルを偉大なチャーチルと見る。あるいは、批判するにしても政治的、イデオロギー的に批判したり肯定したりする。


 文学とは徹底した人間視点である。徹底して、対象を見るという行為であり、文学ーーここでは小説ーーという形式性それ自体が、その答えである。こんな風に言うぐらいではおそらく反論は起きないだろう。問題はここからだ。


 問題はこれが「徹底した」視点だという事だ。ニーチェは「善悪の彼岸」という思想を打ち出したが、文学もまた、善悪の彼岸に位置している。人は、一応は文学を認めつつも、それを社会的価値観と分けて考える。そして結局は、社会的価値観に容認されるものを「文学」であるとする。ここに、権威と大衆性、商業主義と多数者の欲望が接合される事となる。


 僕がそれは徹底した視点であると言うさい、そのような価値観によって動いている人々をも、冷徹な(温かい)視点で見るという事だ。例えば、作家が「悪を描こうと思います」なんて言っているのを聞くと阿呆らしく思えるが、「悪」という観点自体が市民社会的価値観に従った見方である。「あえて悪を描く」「あえて残虐な描写を取り込む」というのは、社会に逆らう行為ではなく、従う行為である。むしろ、摩耗した人々の神経に適度な刺激を与える事になるだろう。ある価値観を越えるとは、その価値観の逆を行く事ではない。越えるとは、その価値観では語り得ないものに到達する事だ。(これがいかに難しいかを、仏教の歴史は示しているように思われる。彼らは「悟り」というものを何度も何度も再構築する必要に迫られた。「悟り」はすぐに通俗的観念に堕してしまったから)


 僕はこんな風に思う。悪人というのは存在「しない」、善人も存在しない。倫理や道徳も存在しない…というより、倫理や道徳を要請し、それを護持している「私達」がいる。全てを生の様態と見る時、全てを人々の生きざまと見る時、病める者も貧しき者も、富んだ者も傲れる者も、「そういう風に生きている」にすぎない。犯罪者がいて、それに対する弾劾が行われた時、そこに正義や悪があるのではない(そのように見るのではない)。そこにはそんな風に生きている人間達の姿がある。


 この見方は、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を一部借りている。ウィトゲンシュタインは、倫理を世界から追放した。独我論は縮退し、実在論と合致する。私とは一つの視野であり、目の前には事実=世界がある。倫理は外部に、意志は外部に存在する。人はその中を「ただ」生きる。


 倫理や道徳は、そういうものを掲げている人々の生き方に解消される。悪の行為、殺人はそういう行為を行っている個人の生き方に解消される。それぞれの人間が生きており、倫理は、人々が自らに貸したあるラインのようなものになる。倫理や正義、悪が正しいのかと問う視点は文学の中にはない。しかし、文学という視野から見られた人々は、そういうものについて議論しながら生きているのだ。


 僕はこの事についての反論や批判と議論する気はさらさらない。仮にこの視点に対する反論ーー倫理はありうるーーというような反論があれば、「そういう人もまた一つの人生を送っており、その中に倫理は入る」と答える。我々は「とにかく」生きているのである。そして文学は「とにかく」そのような位置に立つのである。


 これは文学一元論とも言うべき答えである。これは文学が世界の中で正しいという主張ではない。世界が、文学の中で一つの様相を呈している、そう見たいという事である。文学は、ある一つの視野であり、一つの答えである。そしてその答えの中で、人は生き、問いを提出し、答えを出したり出せなかったり、挫折したと感じたり、成功したと自惚れたりしながら生きていくのだ。


 そのような視点に(ヤマダヒフミ)は立ちたいと思う。何故、そんな視点に立たねばならないのかというと、自分がそこまで追い込まれたからだ。僕は、ただ市民社会の倫理や価値に沿って生きる事はできない。そんなものに安易に居座る事もできないし、これに反逆的である事もその倫理や価値を認める事になる。もちろん、これらの価値観は人々が生きる上では正当なものとして機能していくだろうが、僕が危機に立った時には、まるで機能しなかった。だから、それ以上の視点を僕は必要とした。この視点をも世界の中の一つの出来事と見る視点というものがあれば、それは僕の手に負えない誰かの視点であろう。そのような神の視点の中で、僕もまた一人の人間として生き、死ぬのだろう。ただ、僕はその内部で一つの視野となって、世界を見たいと願う。



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― 新着の感想 ―
[良い点]  おっしゃられる事は分かる気がします。  私も一応、哲学探究まで読みました。  つまり沈黙の内に生きる事。  イエス・キリストは殺された。  神よ神よ私をお見捨てになったのですか。  …
2018/05/07 19:22 退会済み
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