その境界線の向こう側
山小屋の中は狭い。
だから先客がいるのは、扉を開けば一目瞭然だった。
「何者だ」
がっしりとした木の枝の先端をこちらに向けて、身なりのいい男が硬い声を出す。
ちょっと困って、へらりと笑むと、声をかけた。
「遭難でもしたのかい?」
「農民だと?」
「ああ、この山の麓の辺りで小作をやってる」
男は警戒心を解かないまま、こちらを上から下まで観察した。
「農民が、何でこんなところまで」
今は秋の終わり。山の恵みを取りに入れるのは裾野までで、農民がこんな中腹辺りに踏みこんでは、山の民の怒りを買ってしまう。
だが、自然に笑みが浮かぶ。
「そこに、山があるからだ」
「こんな……こと、趣味でするとか、気が知れん……!」
息を切らして、数メートル後ろを男がついてくる。
子供の頃から山登りが好きで、農作業の季節が終わるのを待ちかねては山に入りこむ俺のことを、もう山の民は気にもしない。
急勾配の、道とも言えない斜面に斜めに足をかけて、追いつくのを待つ。
「あれを一度見りゃ判る」
昨夜、山小屋で登山への想いを滔々と語ったところ、男は途中で突きつけた木の枝を下ろし、警戒とは別の胡散臭い視線を向けてきた。
その枝は今は杖として使われ、彼は変わらぬ視線を向けてくる。
……そこそこ裕福な商人か貴族か。
山賊にでも襲われて、街道を外れたのだろう。
山越えの街道は、馬車も通りやすいように九十九折りになっている。歩いていくには時間がかかるし、幾つもある関所で通行料を取られる。俺が登る時は利用しない。
だが、関所まで案内することはできるし、警備兵に保護して貰えるだろうと申し出たが、男は首を振った。
そして、俺の同行を願い出たのだ。
「来れそうかー?」
「ちょっと待て! すぐに、行く」
「急がなくていいから、慎重にな。大丈夫だ、崩れねぇ」
崖から突き出た岩に手足をかけ、登る。実際は絶壁というほどの角度ではないのだが、登っている当人にとってはそう見えない。彼は必死だ。
男は予想した通り、余り身体を鍛えていなかった。体力も筋力も、商人程度のものだ。
「奴ら、樽も担げねぇしなぁ」
呟くと、眼下の男が訝しげな視線を向ける。
少し広い場所に着くと、手を伸ばして、男が掴めるまで上がって来るのを待った。
「迷惑ばかりかけているな」
夜、焚火の前で男はぽつりと零した。
「迷惑?」
「食料も分けて貰っている。帰り道の分が足りないのではないか。時間もかかっているのだろう。私が、遅いから。何度も手を貸して貰って」
道なき山を一日登って、少しばかり弱気になっているようだ。
「一人なら食い物は手に入る。帰りも大丈夫だ。山ん中は、助け合うもんだって言ったろ、相棒」
山の民に分けて貰うこともできる。どうせ、もう数週間もすれば麓に下りてきて互いに恵みを交換をするのだ。その時に返せばいい。
気にするな、と、わざと背中を強く叩けば、男の身体が揺れた。
名前を名乗りたくなさそうだし、そう呼びあうことにしたのだ。
「助け合うも何も……」
視線を逸して、男は呟いた。
「……ッ!」
足を踏み外す。疲れ切った身体がよろけた先は、崖だ。
「おい……!」
慌てて、その腕を掴んだ。もう一方の手で、近くの木の幹に爪を立てる。
「踏ん張れ、相棒!」
男は何とか地面を踏みしめ、掴まれた腕と脚を支点にして落下を免れた。落ち着いたところで、引き寄せる。
「すまん」
「落ちても二、三メートルだけどな。壁の方に寄るといい。少し休んでいこう」
息を荒げながら、男は岩壁に背を預けて、座りこむ。
が、すぐにばっと立ち上がった。
「怪我を……!」
「え?」
慌てて持ち上げられた俺の手は、木を掴んでいた方だ。見ると、爪が二枚剥がれていた。
「うぉ! びっくりした!」
「びっくりですむのか……」
「いや、ちょっと痛くなってきた」
「ちょっと」
溜息をつかれた。
そして足元に生えている草から、掌ほどの大きさの葉を数枚ちぎり、俺の爪の剥がれた手に乗せてきた。
その手を支えて、小さく何かを呟く。
みるみると葉が萎れ、乾燥して小さくなる。
同時にじくじくした痛みが引いた。
葉の下から見えた指先には、傷一つない爪が見えている。
「これは……」
「助け合い、と言っただろう。……相棒」
視線を合わせない相手をまじまじと見つめた。
「商人かと思ってたが、魔法使いか」
「商人て」
「いや筋肉がないのも当然だな、と」
「山登りに使う筋肉は鍛えてない」
ちょっとふてくされた顔で文句を言われた。
夜明け前の暗い斜面を登る。
峰の付近は灌木が僅かに茂るばかりで、見晴らしはいい。
「もうすぐだ」
もうすぐ、夜が明ける。
峰の向こう側にある光景に、息を飲んだ。
なだらかに広がる裾野。草原の中に点在する都市。そして遥か遠く、地平線の近くに僅かに見える、煌めく光。
「あれが、海だ」
海、と男は小さく呟いた。
あそこまで行けば、今見える範囲全てがあの煌めく光に覆われるほど広いのだと。
果てが無いほどの水の原があるのだと。
この国で海が見える唯一の場所がこの山の峰で。
だから登るのだ、と山小屋の夜に熱く語った俺を胡散臭く見ていた男は、遠い海と俺を数回見比べて、何か得心したように、笑んだ。
空に、鳥の影が数羽見える。
「……行ってみたいか?」
ぽつりと零された。
この峰の向こうは、隣国の領土だ。例え一歩でも踏み入れられない。
そして、あんな遠くまで行くだけの金もないし、家族も置いていけない。
それは、最初の夜に交わした問答と同じ。
鳥の影が、どんどんと大きくなって。
真顔で、男がこちらを見つめてきて。
こんな、夜明けに、鳥が。
「……陛下!」
ばさ、と目前で羽ばたいたのは、馬車ほどの大きさのドラゴンと、それに乗る騎士。
竜騎兵。
「陛下、こちらへお早く! 追手が」
「へい、か?」
目を見開いて、俺は、一歩下がる。
見えない境界線を、恐れて。
それに、ふい、と顔を背け、男は一歩進む。
峰を越えて、その向こうへ。
何の、恐れも持たないように。
「さよなら、相棒」
「身分差」からの別れでした。