蛹は羽化の時を待つ
Side
???視点
彼女はどこともしれない空間に投げ出された。そこは紫色のモヤが霧のようにかかり現実とは到底思えないうす気味の悪い世界だった。壁らしき物は見当たらず地平の彼方までただ世界が広がっており、端が見えない。足元は地を踏みしめる感触はなく浮遊しているような感覚が戸惑いを助長させる。
自分の全身にも霞のような繭で覆われ自身の姿さえも確認できない。
誰も居ないと思われた空間から漆黒の闇が吹き出し、それは人の形を形成する。まるで影人間のように──
「こんにちは。時間的には合ってると思うけど、どうしたのそんなに怯えて?」
影人間が喋り出した事に彼女は驚きを隠せない。ここには自分しか居ないと本能的に悟っていたから余計に。絶対に存在し得ないのだ。絶対に。
「貴女は誰? ここには誰も居ないはずなのに」
「貴女だって分かってるんでしょう? どうしてかなんてちょっと考えたら理解できる事なのだから」
彼女は影人間の言葉を頭を振って必死に否定する。その答えだけは頭の中から消し去りたい。
「現実逃避は為にならないと思うけど」
影人間がせせら笑う。
「貴女はもう感情を抑えられない。それにもう貴女はどうしてここに居なきゃいけないか分かってる筈」
彼女は黙ってやり過ごそうとする。これは夢なのだと目を逸らしながら──
「悪いけどこれは夢ではないわよ。悲しいけど現実でこれから起きること」
影人間は彼女の顎を掴んで顔を上げさせて無理やり世界を見せる。
「違う」
「違わない。この世界は貴女の世界。今、ここを取り巻く霧の正体はよく知っているはずでしょう。いい加減に認めたら? 自分自身の中にある物なんだから分からない訳がない」
糾弾するように影人間は言い切った。
「貴女を縛る因果の鎖は解き放たれた。自由と言う孤独に震えるか、自由を謳歌するしかない」
「孤独」
その言葉が彼女を打ちのめす。もう彼女には何も残っていないのだ。あれを除いては──
「否定しても無駄なの。時は戻せない。貴女が望まなくてもそうするしかないの。だって孤独に震えていたくなければ、奪うしかないって分かってるじゃない。いつまで真実から目を逸らすの?」
彼女にとって酷く魅力的な提案に思えた。
「本当は理解してるしそうしたいと思ってるくせに気付いてないふりはいけないな。あの人に嫌われるよ」
彼女は思わず、影人間を見た。その反応に相手がしたり顔を浮かべているような気がした。
「貴女の弱点ってそこよね。無関心なふりをして本当は誰よりも寂しいのが大嫌いなくせに無理しちゃってさ。ハッキリ吐露してまえばいいの。人の事は言えないよね。臆病者のくせに」
影人間は言いたい放題に情け容赦なく詰ってくる。
「人間じゃなくなった貴女は羽化するしかないの。人間なんてつまらない存在に常識とか物差しに拘ってるの? 貴女はもう選べないんだからさ。人間やめざるおえない。だからこそ、ただ化物として駆逐されるか、他者を魅せる存在になるか選ばないといけない」
「人間よ。化物じゃない!」
影人間は心底下らなそうな反応をする。
「いいえ、貴女は化物よ。人間には戻れない。でも一つだけ持っていけるものがある。あの人だよ。あの人なら大丈夫。私たちを理解できる存在で私たちと共に生きられる存在なの。このつまらない世界でとっても貴重なね」
「意味が分からない」
彼女の声が震えていた。
「全部理解しているわよね。この世界がどうしてこんな状態なのかも自分に何が起きてるかも。そして何がしたいかも」
影人間の言葉に声が出なかった。
「そう……ようやく認める気になったの。もう我慢しなくていいの。だって貴女にはその権利があるんだから」
「権利?」
今まで他者に振り回されてきた彼女にとっては想像もできない言葉だった。
「権利であり、資格。自由にしていいの。貴女は選ばれた存在なんだから」
「選ばれた存在?」
その言葉を聞く度に彼女の中から押さえ込んでいた感情が湧き上がってくる。嫉妬と怒りと──
「でも貴女が権利を行使しなきゃ……」
影人間は彼女を探るように笑う。
「取られてもいいの?」
止めの一言がきた。
「嫌だ。どうして私だけ…私だって! 私だって! 幸せになりたいのに! 愛されたいのに!」
彼女は反射的にその結果を拒否した。それに反応してこの世界を覆っていた霧が彼女を目指して一斉に動き出し、その全身を包む。それは蛹を覆う繭のようになっていく。
「やっと素直になった。さあ、目覚めの時は近い。認めてしまったんだからもう迷わないでね。私たちは一つの存在なんだから」
影人間は安堵するように世界に溶けていった。
「絶対に躊躇わないでね。貴女には替えの伴侶が居ないのだから……私の代わりに他の私を説得して」
言葉は虚空に消えて世界は霧散していった。




