覚悟を決めて
あたしは東の話を聞き終わると同時に椅子から立ち上がった。お前が原因じゃないかと言い放とうとしたらハンカチを手に持っていたこけしちゃんと弟くんが戻ってくる。それに一瞬気を取られた隙に東の奴の姿は空き教室から消えていた。
追いかけても良かったのだがガソリンスタンドへ行く時間が迫っているのでそれどころではなかった。直後に携帯電話で依田先生からワクチンの入ったアタッシュケースを保健室に持って来いと言われてしまった。
ワクチンの話がバレたのだろうか。元から14本しか上に兎川とこけしちゃんの分を使って残り12本しかないのに──
あたしはこけしちゃんと弟くんにここをお願いして保健室へと向かった。
依田先生と灯油調達のメンバーである海人、鈴音、兎川が保健室に集まっていた。
「言われたとおり持ってきましたよ」
「すまないね。紀伊先生に投与して見ることにしたんだよ。結構酷い怪我でね。彼で試してみれば安全性がより正しく判明するかもしれない。あと貴方たちも外へ行くなら投与すべきだ。だから持ってきてもらったんだよ。使わずに居るのは勿体無いだろ」
あたしたちに投与したら残り9本、依田先生と紀伊先生を含めたら残り7本。どう考えても学園内に居る人数分には足りない。
「あたしたちも摂取すべきなんですかね」
リスクを考えるとなかなかすんなり受けようとは思えない。
「当たり前だろうと言いたいんだけどねぇ。兎川、あんたは大丈夫かい?」
「自分ですか? 平気です。むしろ気分が良いくらいですから。これはプラシーボ効果ですか? とにかく大丈夫です」
座ってる依田先生は聴診器を着けて兎川を自分の目の前にある椅子に座るように促す。そして座った兎川に体温計を渡し、体温を計らせる。
その間に開いた首元から聴診器を差し入れる。
キャッと兎川が小さく叫ぶ。黙ってみていた海人と鈴音もちょっと身じろぎする。
「聴診器が冷たかっただけです」
依田先生はいつもの事なのかそれに構わないで心肺の様子を確かめていた。そして、聴診器を出して胸のポケットにしまって今度は首に触れている。リンパ腺の腫れでも調べてるのだろうか。
「今調べられる範囲では異常はないわねぇ。むしろ健康そのもので羨ましいわ」
依田先生は疲れた表情で笑う。さすがに目の隈は隠し切れない。ほぼ一人野戦病院状態なのだから、あたしたちよりもはるかに大きい負担を背負っているだろうに──
椅子から立ち上がり、首元のボタンを右手で留めながら兎川は左手で∨サインをしてみせた。
「さてどうするか──」
海人がため息を吐いてあたしが持っているアタッシュケースに見ていた。
正直、摂取したくないけど使わずに無駄にするのは論外だ。
「任せるよ。あんたたちがウィルスに感染しても発症しない10%である可能性もあるんだからさ」
依田先生の顔は一日経っただけで10歳くらい年をとったように老けてる。
「可能性に賭けるよ。だから俺は摂取する」
海人は覚悟を消えたように宣言した。
「海人!」
あたしの声ではない。非難するような鈴音の声だった。
「いきなり死んだりしないさ」
いつものノリで大袈裟におどけてみせるが鈴音は引き下がらなかった。
「物凄く無理してるじゃないの! あんな奴が持ってきたものを信じる必要なんて……海人が──」
あたしの視線に気が付いたのか鈴音はそこで後ろを向いて黙りこんでしまった。目に涙をためていた気がする。その涙が何を意味していたのかは分からない。母親に対する感情なのか、それとも海人に対する感情なのか──判断がつかなかった。
兎川も依田先生も何も言わずに見送る。
「廊下に出てる。終わったら言って」
肩を震わせて鈴音は保健室を出た。
「大袈裟だな。な、大地」
海人は軽い口調だったけどあたしは反応する気になれなかった。だって鈴音と同意見だったし──
「あたしも受けるわ。海人から先にどうぞ」
アタッシュケースを依田先生に手渡した。
彼女は受け取ったアタッシュケースを机の上に置く。
「右利きだろう。ほら左肩を出しな」
海人は兎川が座っていた椅子に座り、上着とシャツを脱いで左肩を露出させた。依田先生はその部分を消毒してワクチンの入ったアンプルを取り出す。そして使い捨て注射器の針を突き刺して中身の紫色の液体を吸い上げる。
海人の意思を確認してから空気を抜いてから注射器を左肩の三角筋に突き刺す。そして中の液体は彼の体の中に消えていった。
「それでも貼っておきな」
アタッシュケースに入っていた特殊な絆創膏を海人に渡す。だが一人で肩になど貼れないのであたしが手伝って代わりに貼る。
「すまないねぇ。どうやら疲れてるみたいだ。頭が回ってないよ」
「気にしないでください。海人、廊下に出て生徒会長を見てて」
ああ、分かったと言って海人は服を着直して廊下へ移動していった。
「塩送っていいのか? 絶対後悔すると思うが」
兎川が余計な事を言う。あたしだって分かってるわ。下着姿を見られたいわけじゃないだろう。
あたしは黙って上着を脱いでシャツから左腕を抜いて左肩を出す。注射針が怖いので見ないように顔を背けると消毒エタノールが肌を冷やす。依田先生の指が強いすぎるくらいの勢いで三角筋を叩く。痛みを感じないように叩いてるのは知ってるけど痛いよ。
充分にケアされてるから大丈夫だと思っていたら思い切り痛かった。
なんか楽しそうな兎川を睨みつけるが絆創膏を貼られて誤魔化される。仕方ないのでサッサと服を着直して口を開く。
「依田先生はどうしますか」
「頼んでいいかい」
あたしは兎川とともに依田先生の摂取を手伝うことになった。




