タイムリミット72時間と脱出
依田先生が去ってから暫くしてノックがする。
「東だ。入って構わんか?」
鈴音が嫌なのか整った眉毛を露骨に歪ませた。そんなに嫌いなのか。
どうぞと言って和泉が入れてしまった。空気読めよ。
「病院の動画の件が広まってるぞ。そこの人気者のアカウントで」
東のその視線は和泉を非難しているように見えた。
そりゃ誰だってあんな衝撃的な動画を拡散したら動揺するしこんな状況では悪化するとしか思えない。
「友達に送っただけなんですが……申し訳ありません」
今井に嫌われてる理由がなんとなく分かった気がする。和泉は人を見る目がないのかもしれない。
「僕が来た理由はそれじゃないから本題に入ろう。天津生徒会長、君は薙澤と田中グループと、いや薙澤と和解する気があるのか? いや和解と言う表現は相応しくないな。失言だった。意見の対立を、立て篭もり派に歩み寄れるか?」
東は和泉に興味をなくしたのか、鈴音の方を見据える。
「私に妥協してほしいの?」
「出来ればな。内輪揉めをされると生存率が下がる」
東は腕を組んで淡々と話す。これから鈴音が返す答えを知っていて耐える為に身構えてるような印象を受ける。
「断るわ。東、貴方も知っているでしょうけど薙澤は地元の名士なのだからこの最夜から動こうとしないでしょう。田中も家にシェルターがあるらしいから彼も同調するでしょう。でも私は勇ちゃんを危険に晒すくらいなら最夜を離れる選択肢を選ぶ」
一度決めたら梃子でも動かないタイプだと思ったがここまで頑固だとは思わなかった。
だが東は何故か海人と弟くんを交互に見ていた。海人もあたしと同じ脱出組だとは思うけどなんか不愉快だな。
「この際だからはっきり言うけど、私は免疫があるかどうかを判別が出来る72時間を超えた時点で感染していなければ脱出に向けて行動する。と言うか、本音で言ってしまうと今すぐにこの街を出て行きたい」
本当にハッキリ言い切ってしまったよ。会議での言葉は本音だった。
「それは動画が原因なのか?」
海人が頭を掻きながら質問する。その姿は悩んでいるように見えた。
「それもあるけどみんなは忘れてない? 確かに私はレウケ人間たちが現れた時に先陣を切って葬り去って一先ずはこの学園を救ったけどそれがどういう意味かちゃんと考えてる?」
その問いにその場の全員が沈黙する。弟くんは姉の行動に少なからずショックを受けているように見えた。
「カルネアデスの舟板。刑法37条1項本文にある緊急避難。だから貴女には非はない」
兎川は今まで聞いたことのない優しい声だった。あたしはこんな奴だとは思わなかったぞ。
「フォローをありがとう。でもそういう問題じゃないの。目の前で人の形をした物を殴り倒したと言う点の方が問題なのよ」
そこで鈴音が言葉を区切る。あたしも含めて再び喋り始めるのを待つ。
「普段、人は法なりなんなりを守って秩序が生まれているのだからそれを公衆の面前で破らなきゃいけない状況下はいずれ誰かの暴走を招く。つまり、私は学園を救うと同時に秩序崩壊へのカウントダウンを始めてしまった。特にそういう状況だと私たちは失うものが多いじゃない。それも私がこの街を出たい理由の一つ」
あたしを含めてその場に居た女子が凍りついた。失念していた。確かにその通りである。あたしもそこら辺の女子よりは腕っ節がある方だがさすがに1対複数で来られるとキツイ。
重い空気と沈黙を打ち破ったのは兎川だった。
「分かった。自分は生徒会長に協力する。だが一つだけ教えてほしい。最初にどうしてあんなに迅速な行動が取れたんだ?」
鈴音はその問いに唇を噛む。
「姉ちゃん、話した方がいいと思う」
鈴音は長い沈黙を続けながら東の方を睨みつけている。どう扱っていいのか思案してるようにも見える。
「先程、動画拡散を咎めた身で君の内情を言いふらすのかい? 僕はそこまでダブルスタンダードじゃない。それに今の現状で八幡君を敵に回したら本気で殺されかねないからね。ついでに那名側さんまで敵に回すだろうし、多分、人気者の二人まで敵に回るだろうね。そこまで無謀じゃない」
東は信用されてねぇなと言う感じでため息を吐く。
「あ、僕は君の情報ソースを知りたいね。だからから出て行く気はないよ。それを使えば逆に薙澤を説得できるかもしれない」
確かに正論だ。彼が信用できるかは未知数だが──
分かったわ。鈴音がタブレットを取り出して何やら弄ってこちらにディスプレイを見せた。
天津姉弟以外の全員が驚きの声を漏らした。
レウケと書かれているのとゾンビと言う単語と白衣をきた研究員の成れの果ての画像が映っていた。文章はイマイチ読めない。何故なら全部英語で書かれていたから。普通の英語ならともかく専門用語が混じっていて読むのが難しい。
「最初はハロウィン前に流失した悪戯だと思ったのだけど、校庭でレウケになった須藤を見て確信したの。嘘ではないと」
平和な時にこんなデータ送ってこられても信じないわな。あたしならデータごと消してる。
「となると物部邸で拾った身分証明証は本物だな。研究所から漏れたと見るのが妥当か」
海人が懐から取り出した顔写真付きのIDカードを見せる。アデリーナ・イリイーニシュナ・トルスタヤとか書かれている。
「それ緊急時のマニュアルとかじゃないの? 日本語版を送る暇がなかったと言う事なの?」
あたしは誰にもなく呟く。
「それって事故じゃなくて何者かが意図的にウィルスの流失を引き起こしたから日本語版を送る時間が無かったと解釈できますよね」
和泉が爆弾発言する。確かに最悪を想定しなくてはいけないが今聞くのはとてもヘヴィーな心境になる。
「ところでなんで日本語翻訳ソフトを使わなかったんですか」
また余計な事を言った。和泉の人気って物怖じしない所が受けてるのであって年上に人気がないのは当然なのか。
「自分で言うのもなんだけど英語得意だから自力で翻訳できると思ったのよ」
鈴音は少し恥じ入るように視線を逸らす。実際、時間をかけたら彼女なら翻訳出来そうだ。
「俺のにデータを転送してくれ。日本語翻訳ソフトを使ってみる」
東はタブレットを取り出した。彼の要求に鈴音はタブレットを操作している。
「鈴音は研究所で行ってた研究については知らないのか?」
「私はアルツハイマーを治す研究としか聞いてない」
鈴音は首を横に振る。海人の言葉に心なしか嬉しそうなのがちょっと面白くない。
だが内容についてはあたしも聞いたことがあるのでそっちに関しては何とも言えない。
「仮定だけどなんらかの方法で脳の電気信号を再生させてれば大脳が死んでても一応動けるのか」
兎川が一人で納得していた。
「とりあえず、僕は日本語翻訳ソフトを持ってる奴を探して内容を確かめるよ。翻訳に成功したら知らせに来る」
信用してないのか、鈴音は冷ややかな視線を送っている。
僕だってティル・ナ・ノーグの恩恵を受けてる身なんだぜ。下らんことは言わんよ。と言って東は教室を出て行った。
「じゃあ、勇ちゃん、もう一つのパンドラの箱を開けようか。……海人君と兎川さん、依田先生を呼んできてくれる。渋っても必ず連れてきて」
鈴音は覚悟を決めたように宣言した。