水路を下れ
Side
鈴音視点
鈴音はコンピュータルーム奥の階段をひたすら降りて水路へと出た。ここにドライアドたちが居ない事だけを祈るが杞憂だったと思い知る。そこは水路と言うよりは溝と言った方がいいくらいの狭い所だった。当然、人もレウケも何も居ない。
月山の説明曰く一部社員しか知らない脱出通路として用意して置いた水路らしい。
薄明かりの中、薄汚い水路の端には誰かが用意していたゴムボートがあった。早速、電源を入れて空気を入れる。電源が入らなくて服のまま水路に飛び込む羽目になる事を覚悟していたが幸いにもゴムボートはちゃんと膨らんで空気の漏れも無かった。
女として濡れるのは困るが今は逃げるのが先だ。水路の水を調べて【e】で汚染されてない事を確認してゴムボートを水上に浮かべ、乗り込んだ。ジェットコースターが生易しいくらいの揺れと水しぶきに襲われるが鈴音は口を閉じて黙って耐えた。
激流川下りみたいだとグルグルと回転しながら必死でスポーツバックを抱えつつ、縁を押さえてひっくり返らないようにバランスを取る。幾ら、【e】で身体能力が強化されたからと言ってこの揺れの気持ち悪さと絶え間なく襲ってくる水しぶきによる体温の低下は堪える。
無事最夜から出られた川下りだけは絶対しない。二度としないと堅く誓いながら鈴音は吐き気を押さえ込む。
同時に水の音に邪魔されながらも耳を澄まして敵が居ないかを確認する。一応は水路には居ない。あと何百m続くか分からないが必死に耐えた。一秒でも早く終わって欲しいがそうもいかない。
世界がグルグル回る。だが手を離してゴムボートを転覆させてしまえば水路の壁に叩きつけられてそのまま気絶してしまえば溺死する事になるかもしれない。勿論投げ出されても結果は同じだ。
ふと鈴音は止まり方を考えていなかった事を思い至った。
「考えてなかった」
口の中に水が入るのにも関わらず、鈴音は呟く。既に体中に水しぶきを浴びて体は冷え切っている。海人と分断されてしまったのが運の尽きだったのかもしれない。
水路が途切れる瞬間に水の中に飛び込むしかないか。目を凝らして水路の終着点を見ようとするが【e】の影響で視力が落ちている上に暗いので全く分からない。
仕方ないので今度は目を閉じて耳を澄まして試してみる。──鈴音の聴覚が正常なら滝と言うか、妙に音がする箇所がある。それも近くで。
鈴音は慌ててゴムボートの縁を掴んで体勢を整えて準備する。体が宙に浮く感覚と同時に重力に引っ張られて再びゴムボートごと水面に叩きつけられる。
水が思い切り顔や制服越しに肌を濡らす。ジェットコースターが得意ではない鈴音には吐き気に襲われる。元々乗り物が得意ではないせいで人よりも耐えられる気がしない。
濡れたせいで寒気と震えが襲ってくる。耳を澄ましてみるとまた滝と言うか轟音の響いている箇所が何カ所かあった。自分が耐えられる事を祈るしかない。
身体能力は向上しているがこういう場面では無力な自分の身を呪いたくなる。やはり海人や仲間達が居なければこの様なのだろうか。
鈴音が次に意識を取り戻した時は水の中だった。微かに明かりが灯っていたのか、明かりのある方へ、慌てて水面だと思しき方へと泳いでいく。先程は口惜しくなった身体能力だったが普通の人間だった頃とは比べものにならない速度で彼女は水面に辿り着いた。
「はぁ、はぁ、はぁ、死ぬかと思った。本当に……もう、絶対にやらない」
水が【e】に汚染されていない事を感謝する。立ち泳ぎをしながら顔にひっついた前髪を掻き上げながらスポーツバックを探す。水中に沈んでしまったかと思ったが幸いにもゴムボートの隣に浮いていた。
どうやら終着地点についたようだ。周りを確認すると四角い貯水池のど真ん中に投げ出されていた。
濡れて肌に引っ付いた制服に苦しめられながらも鈴音は平泳ぎでスポーツバックとゴムボートが浮いてる位置まで移動した。そしてスポーツバックを掴んでそのまま端まで泳いでいって貯水池から出る。
水も滴る女子高生の出来上がりだが見せる相手の海人が居ない以上全く嬉しくない。ただ寒いだけだ。【e】に感染してから自己増殖欲求と言うか自己保存要求が増しているのは【e】のせいだろう。
震える体に鞭を打ちながら目を凝らして出口を探す。だが視力が落ちた鈴音の目には判断できない。
仕方ないので目を閉じて耳を済ます。微かに風の音がする辺りがあるのを発見する。聴覚に従って鈴音は貯水池に落ちないようにゆっくりと歩いて行った。
その音のする正面に立つ。外から吹いてくる隙間風が冷たい。鈴音は躊躇いなくドアノブに触れて鍵を外してドアを引っ張る。何年も使っていなかったような反応ではなく鉄の扉はゆっくりと開いた。
最悪、化け物達が出てくる事も覚悟していたがそこから見えた風景はここを取り囲む申し訳程度の金網とただの森と言うか、林で遙か向こうに道路らしき痕跡が見えた。
既に最夜市から脱出したのかと思うとホッとするが体は寒さで悲鳴を上げている。
取り敢えず、真っ暗闇では暖を取る事も出来ないので鈴音は水路から出た。ここからは時間との勝負だ。急いで体を暖めなければ凍死するかもしれない。
折角、最夜市から脱出したのに凍えて死んだのでは海人に合わせる顔がない。疲労しきった体を引っ張りながら鈴音は金網を上って敷地外へ出た。




