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夜明けのメリーゴーラウンド

作者: 佐藤教科

 少女が座っている場所は遊園地の入り口だった。少女は自分がいつからそこにいたのか覚えていない。どうやってここに来たのかも忘れてしまった。それどころか、彼女はこれまで自分が経験したすべての事柄を思い出すことができなかった。彼女は自分がどうやって生まれ、どうやって成長してきたのかわからない。自分の名前すら思い出せない白痴同然の少女は、自分がその場所にいることに違和感を覚えることはない。もしかしたら彼女の中には過去という概念すら存在しないのかもしれない。気がついたときにはすでに彼女はそこに存在していたのだ。少女の容姿は小学生の高学年から中学生の間といったところである。しかし、外見から推測できる年齢よりも実際の年齢はさらに幼く見える。その理由のひとつは、少女の落としたあどけない表情にあるのかもしれない。花模様のレースの入った真っ白なワンピースを着て、品のいいローファーを履き、よく手入れされた長い髪をたなびかせるその姿は、少女が恵まれた環境でほとんど不自由することなく生まれ育ったことを想像させる。

 前の段落で私は『少女が座っている場所は遊園地の入り口だった』と説明したが、正確にはそこが本当に遊園地の入り口なのかどうかはわからない。なぜならその遊園地には扉や門のような一般的な入り口は存在せず、周囲に係員の存在も感じることができないのだ。少女の背には、ポスターカラーを使って仕上げた絵のようにむらなく白く塗装された高さ一・五メートルほどの金属製の柵が立っている。どうやらこの柵によって長方形に切り取られた区画の中に、いくつかのアトラクションが一列に配置されているようである。現在少女がいる場所は、遊園地が存在する区画の短辺の一端の内側だった。このような場所を遊園地と断定することはできないかもしれない。だが他に適当な呼び方も思いつかないので、ここではやはり便宜的に遊園地と呼ぼうと思う。

 柵の外には見渡すかぎりの草原が広がっていた。しかし蝿や蚊、蝶、バッタやきりぎりすといった虫の気配もなく、その草原は機械的に管理された人工的な空間を感じさせた。空は鉛を溶かし込んだような鈍い銀色をしている。晴れているといえば晴れているし、曇っているといえば曇っており、小雨が降っていると言われればそう納得せざるを得ないような掴み所のない空模様だった。少女は薄着のため少し肌寒さを感じたが、風はまったく吹いていなかった。空気は澄んでいたが、少女はどことなく息苦しさを覚え、飲み込むように呼吸をしていた。


0・1


 少女は好奇心に導かれるように目の前に見えるアトラクションに向かって歩いていった。最初のアトラクションは「ビックリハウス」と書かれた小さな小屋だった。ビックリハウスは部屋全体がぐらぐらと揺れながら、窓に外の景色が回転している映像が流れるアトラクションである。いったん中に入るとドアは完全に閉められる。中にいる人は小屋の内部に設置された窓以外からは外界の情報を得ることができない。部屋の内部が不安定な上、窓から見える外の景色が回転しているので、入った人はまるで小屋全体が回転しているように錯覚するのだ。少女が小屋に入ると、部屋の両端には数人が一緒に腰掛けられる小さな長椅子があった。椅子に座って安全ベルトを装着すると、ブザーが鳴ってアトラクションが開始した。少女は小さな部屋にゆられながら回転する窓の外を眺めていた。少女ははじめ興奮に胸を躍らせたが、そのうち乗り物酔いに近い感覚に襲われた。やがて少女は苦しそうにうつむいて、目を瞑ってしまった。徐々に意識が遠くなっていった。


 ◇


 その時、少女は〇歳だった。少女は言語を介することができなかった。自分の国の言葉を話すこともできなければ、意味を理解することもできなかった。視力も聴力も未発達であり、十分にその機能を活かすことができなかった。しかし、少女はこの世の真理を全て知り尽くしていた。彼女の脳は誰も想像がつかないスピードでめまぐるしく回転していた。彼女に足りないのは独立したひとつの個体として生きていくための能力と、人間として生きていくための社会性のふたつであった。彼女にはあらゆる見地から眺めて不自然なところはひとつもない。すべてを悟った状態にあるにもかかわらず、満たされていれば誰からも愛されるような可愛らしい笑顔を見せ、苦痛を感じていれば思い切り泣き叫ぶことしかできないことが、彼女の悲劇であるかどうかはわからない。彼女の中ではすべての時間がゆっくりと流れていた。意識があって目覚めている時間の大半を狭いベッドの中で生きるのは拷問に等しい。しかし、そんな過酷な状況の中でも彼女は順調に成長していった。彼女は一歳になると自力で立ち上がることができるようになり、二歳で自国語の文法をほとんどすべて理解することができるようになった。三歳から四歳にかけて、文字とごく簡単な算数の計算を覚えた。ちょうどその頃、彼女は死の概念を知った。道端で虫を殺して遊んでいたのがきっかけだった。それをきっかけに、少女は虫だけでなく、全ての生物はいつか死ぬ運命にあるのだということを知った。それからは死が彼女の恐怖の対象となり、同時に興味の対象となった。少女は目覚めてから眠るまでの間、なぜ自分は死ななければならないのかずっと考えていた。死に疑問を抱くということは生に疑問を感じることにも繋がる。ひとつの疑問が別の疑問に繋がり、それがまた別の疑問に繋がる。次々と連鎖的に膨れあがった疑問が自らの思考を急激に支配していくのを少女は感じていた。

 

 2・3


 少女が夢から目を覚ましたとき、部屋の回転は止まっていた。彼女はあたりを見回すと小屋の入り口の反対側のドアが開いていることに気がついた。彼女はふらふらとよろめきながら出口へ向かっていく。ビックリハウスを出て少し歩くと、その先に大きなプールがあるのが確認できた。遊園地には不似合いの、競泳用のしっかりした造りのプールだった。その水面には葉や果実がプカプカと浮いている。プールサイドには少女の体のサイズにピッタリの水着がたたんで置いてあった。少女はその場で水着に着替えると、すぐさまプールに飛び込んだ。しかし泳ぎ方を知らなかった少女はずぶずぶと水の底に沈んでいった。水面にゆらめく波が、少女に新たな夢を見させた。


 ◇


 その時、少女は八歳だった。少女はある日、十三年間を自己の研鑽に費やしたニートに出会った。彼は四〇歳だった。若かりし頃、彼は地方の大学院を出て大手企業に就職し、期待の新人としてその敏腕を轟かせたが、結局仕事が肌に合わず退社してしまった。しかし彼は絶望していなかった。その証拠に、仕事をやめてから少女に会うまでの十三年間、彼はニートとしてひたすら自己の研鑽に励んでいた。辛く苦しい日々が続いたが、その甲斐あって彼は七ヶ国語をマスターし、ありとあらゆる学問についての深い造詣を獲得した。彼は中年男性ではあったが、その肉体は完璧だった。肌の血色も悪くなければ、健康状態も申し分なかった。同年代の男性が患ってしまいがちな生活習慣病などとも無縁であった。健康の秘訣は彼の日課である毎朝のジョギングだった。毎朝のジョギングの他に、彼は月に二、三度フルマラソンを走破しており、肉体作りにも惜しみない努力を注いでいた。さらに、彼はニートではあるが対人関係が苦手であるというわけではなかった。その爽やかな笑顔は初対面の人に好印象を与えたし、彼は話術や社交術にも非常に長けていた。量販店で安売りしているような平凡な服であっても、彼が着こなすと周囲がきらきらと輝いて見えた。世の女性がすべからくそうであったように、少女もすぐに彼に興味を持ち始めた。彼は小さな家にひとりで暮らしていた。少女は彼と会ってからすぐに彼の家に出入りするようになった。少女の目的は主に、彼の話を聞いたり、学校の宿題を手伝ってもらうことだった。親密さを重ねていくにつれ、彼は少女を膝の上に乗せて本を読んであげたりするようになった。ふたりで手を繋いで近所を散歩することもあった。一緒にいる時はお互いにとって幸せで満ちた時間だった。しかし幸せな時間はいつだってそう長く続くものではない。幸せが存在するからこそ不幸が生まれるのだ。ことの発端は、近隣の住民から「少女を誘惑する不審な男がいる」との通報を聞きつけた警官が事情聴取に彼の家にやってきたことだった。その時、彼と一緒に少女も彼の家にいた。少女は警察に「この男に無理やり連れ込まれた」と述べた。自分の意志で彼に関わっていたと知られれば、親や学校の先生に叱られると思ったのだ。それから彼がどうなったかはわからない。しかし、このことがきっかけで彼が不幸な目に遭ったとしたなら、努力と研鑽に励んだ彼の十三年間はいったいなんだったのだろう? 少女はちくりと心が傷んだが、その痛みは一日で忘れた。


 4・5


 半分溺れながらプールを脱出した少女は、近くにあったタオルで髪と体を拭き、最初に自分が着ていた服に着替えると、さらに先へと進んでいった。少女はその先に「太陽の塔」の小さなレプリカが立っているのに気がついた。少女がその存在に気がついた時はレプリカの高さは二十センチメートルにも満たなかったが、彼女が近づくにつれてそれはどんどん大きさを増していった。逆に、彼女が後ろへ戻ってみるとレプリカはどんどん小さくなっていき、最後には見えなくなってしまった。近づくとまた大きくなった。どういう原理かはわからないが、このレプリカは少女との距離によって指数関数的に大きくなったり小さくなったりする仕組みらしい。少女が巨大な太陽の塔の前に立つと、パラポラアンテナに目とクチバシをつけたような顔がクイッと彼女の方を向いた。そして目から光線が発射されたかと思うと、その瞬間少女が立っている辺り一帯が爆発した。


 ◇


 その時、少女は十四歳だった。彼女はその頃出会ったブラム・ストーカーの小説に夢中になり、吸血鬼に対して強い関心を抱くようになった。彼女は学校から戻ると毎日のように自宅近くのレンタルビデオショップで借りてきた吸血鬼映画をむさぼるように観た。イジー・バルタの短編映画「最後の盗み」が彼女のお気に入りだった。そのうち、彼女はもしかしたら自分が吸血鬼なのではないかと思い始めた。そして日に日にその確信は強くなっていき、もはや自分が吸血鬼でないなどありえないと考えるまでになった。些細なきっかけで起きた偶然を、確固たる運命の積み重ねによってもたらされた必然と思い込んだ。掴み所のない幻想を、厳密に定義された真実と決めつけた。ある時少女にボーイフレンドができた。中学校の同級生で、隣のクラスで授業を受けている男子だった。ある日少女は夜の公園に彼を誘った。

「こんなに満月の綺麗な夜はね」と少女は語り始めた。「決まって、あなたのような若い男の血が欲しくなるのよ」

 獣と化した少女は無防備な少年を芝生の上に押し倒した。草の青い香りが鼻をくすぐった。そして少女は、少年の首筋に口を寄せ、少しだけ舐めてから、小さな犬歯でその皮膚をぷつりと破った。少年は小さくうめき声をあげた。少女の口には生まれて初めて含んだ大量の血の味がねっとりと広がり、彼女は至上の恍惚を覚えた。ふと少年のジーンズが少し膨らんでいるのに気がついて、少女はそれに手を伸ばした。少女が首筋から流れる血を舐めながら右手で少年の股間の固さを感じると、少年はびくっと反応し、慌てて後ずさりした。そして、ガクガクと定まっていない足腰で一所懸命立ち上がり、少女に傷つけられた首筋を右手で抑えて夜の公園から逃げていった。少女はくすくすと薄笑いを浮かべながらその背中を見守った。唇に残った血をぺろりと舌で掬って、なんとも言えぬ満足感にうっとりと浸った。


 6・7


 少女は意識を取り戻した。爆風で吹き飛ばされはしたものの、幸運にも彼女の体は無傷だった。彼女は立ち上がり、服についた埃を手ではらって先へ進んだ。次のアトラクションは、天使をモチーフにしたメリーゴーラウンドだった。金色のめっきや光が乱反射するようにカットされたガラスで装飾をほどこされた夢のようなアトラクションは、一瞬で少女の心を掴んだ。少女が大慌てで天使の背中にまたがると、レトロなオルゴールが鳴ってメリーゴーラウンドが回転を始めた。回転はみるみるうちに速くなり、少女は振り落とされないように支えの棒を強く握った。メリーゴーラウンドの回転が早くなるのと同時に、オルゴールのメロディーもどんどんテンポを上げていった。そのうち、少女は目を回して意識を失ってしまった。


 ◇


 その時、少女は十七歳だった。少女は異端であることを求める傾向があり、同学年の生徒とはなかなか馴染めずにいた。いじめを受けるほどではなかったが、少女がクラスメイトの誰かに話しかけても軽く無視されたり、作り笑顔で微妙に距離を取られてしまうことがしばしばあった。しかしそれでもいいと少女は思っていた。自分の持っている崇高な精神が庶民に理解され支持されることなどないのだと信じていた。クラスメイトの女子が複数集まって恋人の話をしている時に、少女は自分の席でゲーテの文庫本に目を落としていた。家に戻ると彼女の親友がいた。ある夏の縁日で手に入れた小さなゼニガメだった。ゼニガメの名はアキレスと言った。彼女はしばしば一人二役でアキレスと会話をしていた。彼――正確な性別はわからなかったが、少女の中ではアキレスは男という設定だった――と会話をしているだけで楽しい気分に浸ることができたし、彼を眺めているだけで彼女の心は潤いを取り戻すのだった。しかし、しばらく経つと少女の唯一無二の友人は消えてしまった。どこか知らない遠い地に旅立ってしまったのだった。少しだけその時の話をしようと思う。

 ある日、ゼニガメのアキレスは少女を呼び出して言ったのだった。

「よう、お嬢ちゃん。実は前から思ってたんだけどさ、やっぱりこんな狭い水槽の中じゃおれの才能を発揮することはできないぜ。おれはそろそろこの小さな箱庭の中から抜け出すべきだと思うんだ。おれをこっから出して、外の世界に解き放ってくれ。おれに自分の可能性を試すチャンスを与えてくれ!」

 あきれ顔で少女は言う。「馬鹿みたい」そして続ける。「あなたみたいな縁日で売られていた亀になにができるっていうの? ペットショップやホームセンターで自分で餌を買うこともできないくせに」

 アキレスは言う。「おれになにができるかって? そんなことはわからない。でも、どんなこともやってみなくちゃわからない。それに、お嬢ちゃん。そんなこと言うなら、きみは自分になにができるのかわかるのかい。わからないだろうよ。だって、きみには自分が何者かもわからないだろう? 自分の名前すらわからないだろう?」

 少女は彼の言葉を無視して言う。「それにあなた、ミズガメじゃない。あなたなんか、外に出れば一日で干からびてしまうわ。知ってる? もう少し成長したら、あなた、ゼニガメからクサガメになるのよ。そうすれば今よりも清潔な水を必要としなくて済むようになるわ。ねえ、お願いよ。あなたのことが心配なの。せめてもう少し成長してからじゃダメなの?」

「今じゃなきゃだめなんだ」アキレスは言う。「今じゃなきゃだめなんだ。お嬢ちゃんはまだ若くて人生経験も少ないからわからないかもしれないが、ものごとを始めるにはそれにふさわしい時期ってもんがある。大人になってからじゃだめなんだ。大人になってからじゃ冒険なんてできやしない。年月を重ねて、積み重ねに積み重ねたものが、俺の手かせ、足かせとなって絡みついちまう。肝心な時に足がすくんで、思うように身動きが取れなくなっちまう。おれが背負うものは甲羅だけで十分だ。ロールプレイングゲームの主人公がどうして少年や少女ばかりなのか知ってるかい? ゲームを始めたばかりの頃の主人公はてんで弱くて、そこらへんにいる城の兵士にも太刀打ち出来ない。でも城の兵士には魔王は倒せないんだ。なぜなら彼らの背負っているものは大きすぎるからだよ。ゲームを進めていくうちに主人公は城の兵士の力をはるかに凌駕し、やがて魔王を倒して世界を救う英雄になる。持たざる者にはそれだけの力があるんだよ。世界を変えるだけの力があるんだよ」

「決心は堅いのね」と少女は言う。「わかったわ。あなたがそこまで言うのなら止めないわ」

「恩に着るぜ」

 少女は水槽からアキレスを取り出し、外に出た。そして、家の前のアスファルトの上に小さなゼニガメのアキレスを置いた。

 アキレスは少し歩いてから少女の方を振り返り「アバヨ」と言って夕日に染まる町の中を再び歩き始めた。アキレスは勇気と希望を胸に旅立った。少女はポケットからハンカチを取り出し、溢れる涙を拭った。少女もアキレスも孤独になってしまった。しかし、お互いにそのことを理解し合っているからこそ、ふたりは自分たちの抱える孤独に打ち勝つことができるのだった。


 8・9


 少女が気がつくと、すでにメリーゴーラウンドは回転を止めていた。ぐらぐらする頭を抱えて少女は先へと向かった。次のアトラクションはコーヒーカップだった。大きな皿をモチーフとした台の上にカップがふたつ並んでいた。ふたつのうちひとつのカップの中には自分と同じくらいの体型の女の子の人形が座っていたので、少女はもうひとつのカップに入ることを選んだ。彼女が中に入ると、辺りに錆びた機械のこすれる音が響き、少しずつカップが移動を始めた。少女と人形の目が合った。時間が止まった。人形はフェルトの生地で覆われていたが、ボロボロのみすぼらしい格好をしていた。しかし、ガラス製の黒い瞳だけがピカピカ輝いており、少女は人形の瞳に吸い込まれるような感覚を覚えた。頭をガツンとやられるような衝撃とともに、少女の意識は別世界へと旅立っていった。


 ◇


 その時、少女は二十五歳だった。少女は大学の受験に三度失敗してすっかり自信を失っていた。試験の結果があと十数点、時には数点よければ合格していたというパターンが続いたので、このような結果は不幸であるとも言えた。三度受験に失敗した少女は学問の道を諦めて、自宅近くのコンビニエンスストアでアルバイトをしながらなんとなく毎日を浪費していた。にも関わらず彼女はその非凡さを失ってはいなかった。生ぬるい泥土のような生活の中で、ある時彼女が執筆した小説が文芸誌の新人賞を受賞したのだった。その後出版された彼女の本はまたたく間にベストセラーとなった。自分の置かれた境遇があまりにも急激に変化してしまったため、彼女は嬉しさと同時に強い恐怖を覚えた。しかし、過ぎ去る月日が彼女に恐怖を克服させ、その反動を自信に転化させた。その後、彼女は暗く古風で退廃的な小説を書き続けた。彼女の作品の大半は、それまで生きてきた彼女の経験を元に書かれていた。それらの小説は作中に登場する人物が極めて少ないのが特徴だった。中にはひとりも人物が登場せず、数百枚の原稿用紙の海の中を淡々と描写が流れていくものさえあった。彼女の二作目の小説は、処女作ほどではないがそれなりの売り上げを博した。三作目は二作目よりも売上が落ちた。四作目は三作目よりも売れなかった。しかし、それは流行に流される読者が減った証拠でもあった。彼女の読者の絶対数が減少していく一方で、確実に熱心な読者は増えていった。聡明な彼女はそのことに薄々気づいており、自作の売上が落ちていることにさほど不安を感じることはなかった。というよりも、彼女にとって自分の小説の売上はそれほど重要な問題ではないようだった。彼女の一番の関心は自分が納得できるものを世に送り出すことだったのだ。プライベートでの彼女を知る者はあまりいない。彼女はほとんど隠居に近い感じで一生を送ったからだ。結果的に彼女が書き上げて出版に至った小説作品は全部で五作だった。一作目から四作目までは一年ないし二年に一度のペースで出版され続けたが、五作目を出すまでには七年の歳月を費やした。彼女の才能の枯渇を心配していた読者は、五作目の発表で安堵の溜息をついた。だが、その小説を書き上げた日に彼女は自ら命を絶った。自宅の湯船に水を張り入水したのだ。彼女は生まれてから一度も親元を離れたことがなかった。家族に発見された時、彼女は全裸だった。息絶えた彼女の体には熱いシャワーが降り注いでいた。彼女の死は単純な事故であり、自殺によるものではないと主張する者もいる。しかし熱心なファンの間では密かに『彼女は死をもって自らの芸術の完成としたのだ』という説が囁かれていた。実際彼女の死には不審な点がいくつかあった。それが後に週刊誌や個人のホームページなどで公開され話題になったことも、彼女が自ら命を断ったのだという説を有力なものとした。


 10・11


 カップの中に座っていた少女は長い夢から目を覚ました。アトラクションはすでに停止していた。今の少女には最初にあったようなあどけなさは感じられない。少女の外見は最初に遊園地の入り口に座っていた時とまるで同じだったが、その瞳には深い知性を湛えた経年の鈍い輝きが灯っていた。少女はもう少女ではなかった。

 少女はつい今しがた目が覚めたばかりなのに、なんだか眠たくて仕方がなくて、小さくあくびをして、目をこすってその瞳を閉じた。少女の精神はすでに限界を超えていたのだ。瞳を閉じてしばらくすると、少女は自分の身体が内部からボロボロと崩れていくのを感じた。だが、そこに恐怖はなかった。安らぎばかりが鮮烈だった。頭の中にかかった靄が次第に濃くなり、それがある一点を超えると、急激に少女の意識は遠くなった。心がふっと軽くなる気持ちがした。コーヒーカップの台の上に伏せた状態で、少女は死んだ。



 気がついたとき、少女はガラスの瞳で向こう側のカップの中で突っ伏している自分の姿を眺めていた。少女はもはや人間ではなかった。カップから出ようと思って身体を動かそうとすると、少女はバランスを崩してばたりと倒れてしまった。起き上がろうとしてもがいても、なかなかその願いは叶わない。使い慣れないフェルトの身体は彼女にとって限りなく不自由に思えた。それから数日分の時間が流れただろうか。色々と試行錯誤しているうちに、少女は徐々に自分の身体を上手に操ることができるようになった。そうしてすっかり自由に動けるようになると、少女は立ち上がってもうひとつのカップへと向かった。そして、人間だった頃の自分の身体に手を触れてみた。当然のように反応はなかったが、その表情は安らかで、少女はその手にほのかなぬくもりを感じることができた。寝息さえ感じられそうな死だった。少女はコーヒーカップのアトラクションを抜け出し、次のアトラクションへと向かった。もはや、ひとつのアトラクションを終えてまた次のアトラクションへと向かうのは彼女に課せられた義務のようなものだった。


 次はこの世のものとは思えないほど大きい大観覧車だった。少女はちょうど下に降りてきた観覧車のゴンドラに飛び乗った。その瞬間、見計らったようにいきなり扉が閉まったので、少女はうっかり手を挟みそうになってしまった。ゴンドラが力強く上へ上へと昇っていくにつれ、少女は上空から自分のいる遊園地をよく眺めることができるようになった。てっきり長方形型をしていると思っていた遊園地は、実際は長方形型ではなかった。いや、まだ長方形ではないと断定することはできないが……どちらかと言えば、遊園地の敷地は直線である。遊園地の敷地がまっすぐなラインとなって、地平線のはるか向こうまで続いているのだ。地平線の向こうがどうなっているのか少女にはわからない。しかし実際に上空から見る限り、限りなく広がる草原の真ん中に何者かによって引かれたラインのような区画が存在しており、しかもその内部が遊園地になっているとしか言いようがなかった。少女が最初にいた場所は、ちょうどスタートラインにあたる部分だったのだ。そしてどうやら、少女がこれから向かう先にもアトラクションは無数に続いているようである。少女はガラスの瞳でじっと外の遊園地の敷地を眺めていると、無限に続くアトラクションの並びにある規則性を見出した。どうやらこの遊園地では十のアトラクションがループしているらしい。少女が最初に入ったビックリハウスから始まり、また新たなビックリハウスで終わっている。そうしてその先には葉や果実の浮かんだ競泳用のプールがあり、(ここからでは小さすぎて確認することはできないが)おそらくその先には太陽の塔のレプリカがあり、その先には天使をモチーフとしたきらびやかなメリーゴーラウンドがある。小さくて見えない太陽の塔を含めると、全部で十一のアトラクションがループしていることになる。大観覧車は十一のアトラクションのうち第六番目に位置していた。少女にはこの観覧車が自分の運命を司る大きな輪のように思えた。

 少女を乗せたゴンドラが最上部に達する頃にはかなりの時間が経過していた。そしてゴンドラが最上部に達すると同時に、ガラスの瞳を持ったフェルトの少女は急激な眠気に誘われて意識を失った。


<了>

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