第98話 会いたい
コンクリートに固められた部屋の中に、小さな裸電球だけがぼんやりと光っている。
窓がないためそれ以上の光はささず、換気口も驚くほど狭いためにじめじめとした空気が漂っている。
さらに湿気が増しているように思えるのはおそらく部屋の真ん中に水をはった大きな桶があるからだろう。
その桶の前には、四つんばいになって頭を水の中に押し付けられている人物がいる。
「――っはっ……」
後頭部の髪の毛を引っ張られて水の中から引きずり出され、ようやく呼吸ができたようだ。
スーツ姿のいかつい男は間髪いれずに再びその人物の顔を水の中へとつける。
そんな行為を何度も何度も繰り返しているうちに、人物の様子が危険な状態になってきた。
男はそれを察知して、ようやく拷問をやめた。
「こんなもんか」
「まぁ、十分だろう」
横で腕を組んで仁王立ちしていた男がゆっくりと人物に歩み寄り、しゃがみ込むと人物の顎を持ち上げて目線を合わせた。
「どうだよ、久しぶりのいたーい仕打ちは。え?」
「………………」
しかし人物は何も言わずに、空洞のような瞳を向けている。
「苦しかったかな?いいねぇお前のそういう表情、俺は好きだよ。いじめたくなる」
「……言ってろ、ハゲ」
「――ずいぶんと生意気な口をきくね、乙名」
にっこりと男は笑いながら、水責めを受けていた人物――乙名の頬を撫でる。
「変態野郎」
それだけ言うと、乙名はぺっ、と彼の頬につばを吐いた。
するとそれまで笑顔だった男の表情が一変して、突然乙名の左耳につけられている十字架を力強く引っ張った。
ピアスが引っ張られて耳が千切れそうな痛みに今まで冷静な表情を保っていた乙名が顔を歪めた。
男は猛禽類のようにぎらぎらとした瞳で乙名を至近距離で睨み付ける。
「おいお前。ちょっと仕事ができるからって調子に乗るのもいい加減にしておけよ?なぁ……この耳、引き千切ってやっても構わないんだぜ?上司はお前が仕事熱心なので大目に見てくれているけどな、全員が全員、お前のナリに不満を持ってるんだよ」
十字架から手を離すと、今度は乙名の髪の毛を引っ張る。拍子に何本か抜けたようだ。
「このナリがどれだけマイナス要素なのか、お前にだってわかるはずだ。なぁ……これ変えるだけで何もかも変わるぜ?そして俺が変えたら俺の給料もきっと上がる」
ぐいぐいとなおも引っ張りながら、男が下品な笑みを形作る。
「なぁ乙名。今この場で俺がこの髪の毛染め直してやろうか?」
にやにやといやらしい言葉に、乙名の眼光が鋭くなる。
その眼力だけで男は怯み、思わず髪の毛から手を離してしまった。
乙名は一瞬も瞳を揺るがすことなく男を睨み付け、普段からは想像もできないほど怒りに満ちた低い声を出した。
「何があってもこの髪の色とロザリオを変えるつもりはない」
「――――――っっ!」
その発言に怒りを覚えた、というよりは乙名に自分が怯んでしまったということが悔しいように、男は声にならない怒号を上げた。
右腕を振り上げて、乱暴に乙名の頬を引っぱたく。
「おいっ!全然足りないじゃねぇか!やっぱり水に顔つける程度じゃこいつは反省なんてしねぇんだよ!あれ持って来い!」
「あれって……まさか『あいつ』にも使ったやつか?」
「そうだよ、あれだよあれ。あれが一番身に染みる」
「でも、死なないだろうな……」
「馬鹿野郎っ!それを見極めるのがてめぇの仕事だろっ!」
だんっ、と床を踏みつけて声を荒げる男を見て、もう1人の男は怯んだかのように扉の向こう側から器具を持ってくる。
「ほらっ、黙って従えよ?『見誤って』殺されたくなかったらな」
けけ、と言いながら男は乙名をがんじがらめにする。
五体を鉄の器具で身動き取れなくさせられながら、乙名は抵抗ひとつしなかった。
見誤って、ということは、従わなければ殺すということだ。
奇妙な器具を持って戻ってきた男はその様子を見て目をぎょっと見開いた。
「おいおいおいおい、どこにやるつもりなんだよ仰向けになんかさせて」
「額にやってやれ」
「殺す気か!?」
「だからお前が見誤らなければいいって話なんだよ。ほら、準備しろ」
大きなバケツの中に水をたっぷりと張って、背の高い器具の上に乗せた。
すると一定の速度で水が1滴ずつ落ちてくる。
その水が落ちてくる場所が乙名の額になるように器具を寄せる。
「っ」
ぴちゃん、と乙名の2メートル上から水が落ち、それだけで額がひゅうっと凍った。
1人の男は真剣に乙名の顔色を伺い、もう1人はにやにやと楽しそうに見物している。
ぴちゃん。ぴちゃん。ぴちゃん。
頭さえ動かすこともできず、乙名は黙ってその感覚を味わっていた。
すると、扉が開いて誰かが下りてくる音がする。
「あららぁー。ずいぶんとまぁひどいことをされてるわね」
この場にそぐわずのんびりとした声を出しながら、1人の女性が下りてくる。
肩口で切りそろえられた髪の毛が一歩階段を下りるごとにふわふわと揺れていた。
「何の用だ、春子」
乙名が顔を向けずに言うと、桜春子はにやりと妖艶な笑みを作って男を見た。
「私が見張る。あなたたちは仕事に戻りなさい」
「――わかった」
「まぁ、仕方ないか」
男たちはあっさりと部屋を出て行き、この場には乙名と春子の二人きりになった。
「言っておくけど、拷問を止めてあげるなんて優しいことはしないわよ?」
「わかってる」
「私だっておんなじことされたんだから」
言いながら春子は自分の左腕をさすった。
その間も、水は規則的に乙名の額へと落ちていく。
これが長時間続くとその一点だけが冷え血が通わなくなる。
同時に1滴落ちるごとに意識が遠のくような激しい頭痛が襲ってくる。
最悪の場合死ぬこともある、昔海外で実際に行われていた拷問方法だ。
「にしてもさすがに額にやるなんて……大丈夫かしら、私、ちゃんと見極められるかな。ねぇ、何か挑発するようなことでも言ったの?」
「……髪の毛とロザリオのこと」
言い辛そうに乙名が口を開いたのを見て、春子は目をぱちぱちとさせていた。
春子が驚いている間にも水滴が乙名の顔をしかめさせる。
「まだそんなことにこだわってたの?」
「悪いかよ」
「いいえ全然。悪くはないわよ?変だけどね。ふーん、死んだ人間風情が」
春子はすぐそこにおいてあった椅子に腰掛け、足を組むとその上に肘をついて顎を支えた。
まるで品定めするように乙名をなめまわすような瞳で見つめて、彼が再び苦痛に顔を歪めるのを見て嬉しそうににっこりと笑った。
純粋無垢な少女の笑顔だ。
「んふ。乙名」
その形のいい唇から、色っぽい声が漏れ出す。
「死んじゃえ」
「春平さんっ」
待ち合わせ場所であるいつもの待機室にたどり着いた瞬間、待ちわびたように右京が春平に抱きついてきた。
「会いたかった……」
ぎゅうっと首の後ろに手を回している右京の背中をぽんぽんと叩いてなだめながら、感激の様子が一切なく椅子に座って茶を飲んでいる二人に目を向けた。
「よっす、元気そうだな」
「相変わらず馬鹿みたいな顔ね」
清住と久遠はまるで春平がいつも一緒にいるかのように淡白な挨拶をする。
それはそれで嬉しいものがある。
春平は右京をくっつけたまま2人に近づき、「黙っとけ」と笑いながら言う。
「春平さん……」
綺麗な薄茶色の瞳に涙をためながら自分を見上げてくる右京は天使のように可愛らしく、思わず頭をぐりぐりと撫でた。
「気がおかしくなりそうだ」
右京を引き剥がして椅子に座ると、清住がにやにやとしながらこちらを見ていた。
「美羽さんをやめて右京に鞍替えするか?」
「この変態野郎。そんな趣味はないしそもそも美羽ちゃんは俺にとってそういう子じゃない」
「はいはい、そういうことにしておきますか」
「おい」
「で?俺たちにわざわざ時間を設けて会いに来たんだ、それ相応の何かがあるんだろうな。それとも遊びたかったか?」
けらけらと笑ってはいるが、ただからかって言っているだけだ。
清住も春平のことは知っているのだろう、彼の言葉は少しだけ硬く妙な落ち着きがある。
「会って早々その話になるか」
春平が呆れたように言うと、久遠はにっこりとした表情で時計を指した。
「私たち忙しいの、わかってるでしょ?」
「春平さん、また来ればいいよ」
ね?と上目遣いで言ってくる右京は少女のように可愛らしい。
「そうだな、また来るのも悪くない」
右京の頭を再び撫でて、うんうんとうなずく春平。
何が問題なのか、春平の周りにはしとやかな女の子はいなく、だいたいがパワフルで肉食系な子ばっかりだ。
だからこんな美少年にこんな態度をされると、いくらその気がなくとも悪い気はしない。
「でー、まぁ用件はわかってるからはっきり言うわね」
久遠は湯のみを置くと一息つき、まっすぐ春平を見据えた。
その瞳はすべてを吸い込むように黒く、真剣なまなざしに春平の息が止まった。
「目ぇつけられてるね。社長に」
「何か聞かされてんのか?」
横にいた清住が身を乗り出して久遠に尋ねるが、彼女は「まさか」と目を閉じた。
「そんなことをいち社員に言うわけがない。それがたとえ家族でもね」
「だよな。俺もフロントのやつらから『何か春平から連絡はきているか』なんてよく聞かれるよ。お前何も連絡よこさないからそのまま答えるけど」
ぽりぽりと頭をかきながら清住は何かを考えている。
「まぁみんなお前に関して色々聞かれてるけど、素直に知ってることだけは言ってるよ。それがまずいこととは思わないしフロント――特にあいつ、沖田と乙名にかかればすぐに嘘なんてばれる」
清住の口から乙名の名前が出ると何とも不思議な気分だった。
「乙名のこと知ってるんだ」
「そりゃあお前、相当の切れ者だろ。俺が何年ここに勤めてると思ってるんだよ」
「乙名は今どこにいる?」
「知らない。本社に逆戻りしたというのは噂で聞いてるけど、今のところフロントに顔を出している気配はないからな」
そこまで言って、清住は目を見張った。
「お前――何しに来たんだ?」
心底不思議そうに、清住は尋ねた。
久遠と右京も清住と同じような表情をしていた。
「俺たちの思い違いか?お前はてっきり自分がどうして社長に目をつけられているのか調べるためにやってきたと思ったんだが……」
「それもあるよ、もちろん。そもそもそれが事の発端だから」
「それ『も』って……」
「俺は、乙名に会いにきたんだ」
「!」
清住が息を呑んだのがわかる。
しかし春平は気にせずに言葉を続けた。
「あいつは十中八九俺が目をつけられていることと関係してると思う。何か……俺の知らない秘密というものに関わっているんだ」
「秘密?」
「ハルと美浜さんが気を使って連絡してくれたんだよ。もしかしたら俺は何か知ってはいけない秘密に関わっているから目をつけられているんじゃないかって。それが――どうも憶測の範囲を超えるみたいで」
「秘密、ねぇ……。ってぇことは、妙安寺も関わっている可能性が高いな」
清住の眼光が鋭くなった。おそらくは自分のことを心配して妙安寺と敵対するかもしれないと覚悟を決めているのだろう。
「関わってる。でも、間違っても俺をはめようとは思っていないみたい。みんな俺のことを信用してくれているし、隠しているのは俺のためだ、とも言ってくれた」
「信じるか」
「信じるさ」
ぴりっとした沈黙が続いた。
清住と春平はお互い真剣な目で見つめあいながら、その覚悟を確認しあう。
先に折れたのは清住だった。
「お前が信用しているならいい。それで、その秘密の鍵を握っているであろう乙名に会いたい、と」
「そうだけど……」
「なんだ、はっきりしないやつだな」
「………………」
何と言っていいか迷い視線をそらすが、清住は何も言わずに黙って待っている。
他の2人が何も言わずに黙って清住に話の全容を託しているのは、清住をこの班のリーダーと認めた上で、彼にすべてを任せているということからだ。
ここにいる3人には何も隠さず胸のうちを話すべき。
春平は一度深呼吸をすると、清住の目を見た。
「あいつに会いたい、ただそれだけなんだよ」
乙名が本社に戻されたのは、おそらくあのとき――山に行ったときに警察沙汰になったことと関係がある。もしくは、春平が乙名が亡くなった人の名前だと知ったからかもしれない。
乙名は今、勝手に行動することができない。
だからこっそり夜中に自分に別れを告げに来た。
「あいつは苦しんでいる。俺を庇うためか、秘密を守るためか、何でかはわからないが、とにかく苦しんでいるんだよ」
「………………」
「俺は前からいざっていうときにはあいつに助けられていた。だから、今度は俺が助けたい」
助ける、なんて笑ってしまう。
本当はそんな立派な考えじゃない。
自分が乙名に望んでいるのはそんなものではない。
春平が望んでいるのは――
「やめておけ」
空気が、変わった。
その一言で全身に悪寒が走り、鳥肌が立った。
たった五字の言葉に反応して瞳孔が大きく開き、急激に頭に血が上っていく。
横にいた右京も、清住の隣に座る久遠も四肢をびくりと震わせる。
仲間にそんな威圧感を与えるほど、清住の言葉が本気だということだ。
「妙安寺で何があったのか、お前たちの関係がどれほどのものなのかは知らないし、聞き出すなんて野暮な真似をするつもりもない。ただ、あいつが表に出てこないのにはそれ相応の理由があるからだよ」
「……でも、乙名は仕事で遅れてるからその情報を覚えるのに必死だって……」
掠れた声で対抗するが、そんなもの屁でもない。
清住は空いた湯飲みの底に沈む緑茶の粉を見つめながら遠い目をしていた。
「それは違うな」
「どうして」
「俺の第六感がそう確信してる。あいつはやばい。ただ会いたいだの助けたいだのっていう理由なら、やつに近づくべきじゃない」
「……清住」
「こういう言葉があるだろ。『触らぬ神に祟りなし』」
きっぱりと言い放ち、湯のみを置いた。
「どうして自分は目をつけられているのか、気になるだろう。なら調べればいいし、それで危険に巻き込まれるようなことがあってもそれはお前の覚悟が決まっているなら問題ではない。ただ、乙名だけはやめておけよ」
我が子に言い聞かせるように、清住は断言する。
彼が自分を心配して言ってくれているのは肌からさえ感じられるほどだ。
だけど、春平はそんな彼の心配を跳ね除けることを選んだ。
「いやだ」
「春平!」
聞き分けのない春平に苛立ち、清住が怒鳴る。横で右京がびくりと肩を震わせていた。
しかし退くつもりはない。
「忘れられないんだよ、あいつの顔が」
あふれ出しそうな感情を押し殺して、春平は歯を食いしばった。
「あんな人を信じられないタヌキみたいなやつが、初めて泣きながら感情を爆発させたんだ」
『でもお前には、俺が無事だって伝えたかった!だから覚悟して夜中にここまで来たんだよ!本当は皆にも挨拶したかったけど、もう会うこともないかもしれないから最後くらい挨拶したかったけどよ、世の中自分のしたいようには動けないんだよ!そんくらい察しろよこの馬鹿っ!』
「乙名があんな表情であんなことを言うのなんて初めてだったんだ。あいつが、それほどまで我慢できないことだったんだよ」
目を閉じると、まぶたの裏では乙名が頬を晴らして悔しそうに泣いていた。
それをなかったことにできるほど、春平は利口ではない。
膝の上で拳を握り締めて、春平はうつむいた。いや、この場にいる全員に頭を下げたのだ。
「俺のこと心配して言ってくれているのは痛いほどにわかる。感謝している。こんな仲間を持てて、俺は幸せ者だって思ってる。だけど、今回だけはその忠告を受け取るつもりはない。どんな危険があろうと、死にはしない。俺には、命綱があるから」
「……春平」
「突っぱねるくせに都合のいいときだけは頼るなんて本当幼稚だとは思うけど、今の俺にはそんな幼稚なことしかできないんだ」
気を緩めると、涙腺が緩んできてしまう。
必死にそれを抑えて、春平は顔を上げた。
「今日もう一度、沖田のところに行こうと思う。俺を心配してくれたあいつさえ裏切ることになるけど、俺は俺のしたいことをする」
目の前にある三つの顔はすべてがすべて困惑しているようだった。
だが、そこに呆れこそあるものの怒りがないことを春平は感じ取っていた。
真っ先に口を開いたのは、紅一点の久遠だ。
「本当に馬鹿ね」
苦笑しながら、テーブルに肘をついて顎を支える。
「でもそれがいいんだよね」
「はい。春平さんなら大丈夫です。ちゃんと、乗り越えていける」
久遠を見て、右京も目を細めて微笑んだ。
そんな2人を交互に見て、清住は「はぁ」と大きなため息をついた。
「ほんっっとに馬鹿な子供を3人も持った気分だよ!」
両手で天井を仰いで、清住は「あーあ」と声を漏らした。
「行け。勝手に行け。もう知らん――と言いたいところだがそうも言えない。お前は大事な仲間だからな」
「頼られてるみたいだしね」
「ならその期待にこたえるまでですよ」
晴れ晴れとした表情で笑ってくれる仲間を見て、思わず春平は「ぐっ」と息を呑んだ。これ以上何かを言われると泣いてしまいそうだった。
それを察知したのか、清住はあしらうように手をひらひらとさせた。
「行け。ほらとっと行けよ。沖田は忙しいからな、話がしたいなら予約しとかなきゃ無理だろ」
言葉とは裏腹に、表情は優しいものだった。
清住と、井上と、寺門と。
3人のこの優しい微笑みだけは、いつまで経っても苦手だった。
エレベーターで1階に下りると、フロントで苛立ちながら机を人差し指で叩いている沖田がいた。
彼がそんな表情をするのも珍しい。
そう思いながら見つめていると、その気持ちが伝わったかのように沖田がこちらを見た。
途端にガタンッと椅子を鳴らして立ち上がり、他のフロントスタッフをかきわけてずんずんと歩み寄ってくる。
――こえぇ。
相当頭にきているようなことがあるようだ。
「よ、よぉ沖田」
春平が顔をひきつらせながら手を挙げて挨拶をすると、沖田は「こっちっ!」と春平の腕を乱暴に引っ張った。
連れて行かれたのは先日春子が春平を招いたフロントの休憩所だ。
沖田は春平を招き入れると扉を閉めて、じろりと春平を睨み付けた。
「どういうつもりだよ」
彼にしては珍しく尖った口調だ。
「嗅ぎ回りすぎだ。何を考えている」
「おいおい怒りすぎだろ。そんな言い方するお前見たことないぞ?」
「そんな僕をこれだけ怒らせてるのはどこのどいつだよ!」
声を張り上げて、沖田は春平の胸倉を掴み挙げた。
しかし春平の方が背が高いため、あまり脅しには使えていない。
「井上さんにまで口を割らせようとして……僕が君を心配して決定的なことに近づけないようにしているっていうのはわかっているだろ!何をしようとしているんだっ!」
少女のように大きな瞳にありったけの苛立ちをこめて、下から沖田が睨み上げてくる。
そんな彼の行動が似合わず面白おかしくて、春平はくくっと含み笑いをした。
「お前でも、わからないことってあるんだな」
「ふざけるな!」
「ふざけてないさ。俺は真面目だよ」
「じゃあ真面目に聞いてくれよ」
「真面目に聞いてる。お前が何を言いたいのかも、何で怒っているのかもちゃんと理解してる。それでも俺はお前の気持ちを受け取ることはできないって言ってんだよ」
「なっ」
驚きで沖田が目を見開いた。
今回は、意外な沖田の一面を見るばかりだ。
彼も人懐こい性格であるとはいえ、乙名同様腹の内を見せないたちの人間だ。
そんな彼も驚かせてしまっている。
だから、自分がどれだけ異常なことをしようとしているのかもわかってる。
「なぁ沖田」
言って、春平は自分の胸倉を掴む沖田の手を優しく振り払った。と同時に、沖田を壁に追いやる。
壁に手をついて、上から沖田を威圧するように見つめた。
「乙名に会わせてくれないかな。仕事に追われてるくらいなら、1分でも30秒でもいい。乙名くらいつかまるだろ?本社一忙しいお前でさえ俺のためにここにとどまってくれているんだからな」
「……できない」
「それはおかしいだろ?社長でもあるまいし、会えないってことはないだろ」
「………………逆に聞くけど、どうして乙名くんに会いたいの?」
沖田にもう逃げ場はない。だから、そう言い逃れするしかないのだ。
春平はそれを理解した上で、沖田に有無を言わせぬためにきっぱりと言い放つ。
「乙名を助けたいんだよ」
「助けるって……春子ちゃんにどこまで聞いてるの?」
顔面蒼白で尋ねてきた沖田に不信感を抱き、春平は眉をひそめた。
「企業秘密のない会社はないんだよってことまでだよ」
そこまで言うと、沖田の顔がさらに青くなった。完全に墓穴を掘ってしまったと気づいたようだ。
「乙名、そんな危ない目にあってるのか?」
「春平くんには関係ない」
「あるさ。同じ支店で働く仲間だからな」
「………………」
「どのみち、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて、精神面で助けたいってことだよ」
「……そう。でも、やっぱり、君は乙名くんには会えない」
「沖田」
「無理だよ」
「本気なんだ」
沖田は顔を合わせてくれなくなった。これ以上話すことなどないというように。
しばらく見つめていたが、沖田の気持ちが揺らがないことに、春平はひどく落胆した。
壁についた手を放し、小さくため息をつく。
こんな不毛な言い争いをしていても仕方ないかもしれない。
結局、自分ができるのはここまでなのか。
会社の秘密だなんて、そう簡単に近づけるものじゃないのか。
春平が諦めて背中を向けたのを見てようやく苛立ちや戸惑いが収まったのか、沖田は何度か口を開いたり閉じたりしてから、覚悟を決めたように声を出した。
「そんなに、乙名くんに会いたいの?」
「!」
沖田の言葉に、春平は慌てて振り返った。まさかそんな返答が来るとは思ってもいなかったのだ。
もしかしたら長い付き合いからどれだけ春平が真剣なのかを読みよったのかもしれない。そういうところには長けているやつだ。
春平は神妙にうなずく。
すると沖田は瞳を揺るがすことなく再び尋ねてきた。
「どうしても?」
「どうしても」
「何をしても?」
「あぁ」
「………………その言葉が、どれだけの重みを持っているのか理解して言っているかい?」
執拗に問いただす沖田に対しても、春平は真摯にうなずく。
すると沖田はしばらく悩んだ様子で視線を逸らし、微動だにしなくなった。
おそらく沖田の様子から、春平と乙名が接触することは大きく問題になるようだ。それが、秘密に大きく近づくという意味なのかはわからない。
ただ、できることなら近づけたくないという沖田の意思だけは伝わってくる。
「……春平くん」
ようやく答えを決めたようで、沖田は恐ろしく表情のない顔で春平を見上げてきた。
「きっと、ひと目彼に会うためだけに、君は大きく大切なものを失うことになるよ」
「――覚悟の上だ」
「じゃあ」
一度間をおいて、沖田は冷静にその言葉を紡ぐ。
「春平くん、死ぬ覚悟はできているかい?」
うわー!98話!
あと2話で100話なのに区切りがすごく悪いよ!
とりあえず無事にUPしました。
会いたい。助けたい。
乙名を助ける、その言葉の真意が、春平の本当の目的が次回明かされます。
衝撃!
次回、春平の決断が世界を変える、はず←
次は今週の半ばあたりにでもUPしたいですが、どうでしょう……