第96話 向き合おうとしない秘密
「ちょっとぉ!起きてよー!」
なんて、緊張感の欠片もない怒鳴り声で目が覚めた。
目に飛び込んできたのは、至近距離で自分を見つめるミミだった。
鼻と鼻がくっつくのではないかという距離にも「……うん」と答えるだけで別段気にはしない。
「びっくりしたよー!帰ってきたら春平ちゃんが倒れてるんだもん!」
言われて耳を疑う。
辺りを見るとすでに陽が落ちかけている。ミミも会社帰りの格好をしていた。
そうか、警察と話をしたあとぶっ倒れたのだ。
放置されていたところを見ると、おそらくは警察が帰った後の話なのだろう。
ゆっくりと上体を起こし、しばらく呆然とする。
「井上さんと万は?」
「2人ともまだ帰ってきてないよー。私が第一発見者なんだもーん。乙名は住み込みだしね」
「――――――」
そうだ、乙名だ。
あれは夢だったのか?
いや違う。夢にしては現実味を帯びすぎている。
「……ねぇミミちゃん」
真っ青な顔で声を漏らす。
春平の様子を察してか、彼女は微笑を浮かべて優しく「ん?」と話の続きを待っている。
自分が見張られ、なおかつ妙安寺が協力している可能性が高いと知った今、うかつな真似はできない。
目の前で何食わぬ顔をしているミミだって、プロ中のプロの便利屋だ。
どれだけ自分を騙しているかわからないし、もしかしたら何も知らないかもしれない。
彼女の言葉をうかつに信じることは危険だと理解しながら、やはり聞かずにはいられなかった。
「乙名雄輝って、本名?」
春平が言った瞬間、ミミの表情が固まった。
「――どういう意味?」
「警察が、乙名のことを調べた」
「!」
「そうしたら、乙名雄輝って人間は10年近く前に死んでるって言われたんだ」
ミミが息をのむ音が聞こえた。
「……なにそれ」
第一声がそれだった。
ぐるぐると目を動かし、色々な可能性を探しているようで、ミミの額から汗が流れた。
「そんなことありえないよ。社長に偽名が通じるわけがない……何かの間違いとしか思えないよ」
「……」
「仮に偽名だとして、そんな珍しい名前を採用する意味がわからない。リスクがあまりにも高すぎる」
ミミの反応は完璧だった。
演技なのか本心なのか、まったく判断ができない。
「……だよな」
としか言い様がなかった。
それきり、春平が乙名のことを妙安寺の誰かに聞くことはなかった。
ミミもその話を持ち出す様子はなく、いつも通り生活していた。
誰も乙名に何ら疑問を持たないまま時間は立つ。
春平だけが不思議な感覚に包まれてもやもやした気持ちを抱えていた。
何もない自室の畳の上、布団を敷くのも億劫でごろんと仰向けになりながら淡い照明を見つめていた。
時刻は夜中の3時を回り、田舎はすっかり暗黒だった。
山の方から獣の咆哮が聞こえるくらいで、後は無音だ。
平常通り仕事のある井上、ミミ、万は朝に備えてぐっすり眠っているだろう。
そんなとき、静かに車の音が聞こえた。
砂利の音が聞こえないので妙安寺に誰か来たわけではないようだ。
同時に、携帯のバイブが振動した。
非通知着信だ。
このまま出ないこともできる。
だが、何だか妙な胸騒ぎがしたのでつい通話ボタンを押した。
「もしもし……?」
『俺、乙名』
「おとっ……!お前」
『静かにして』
小さな声で言う乙名に少し不満を感じながら、春平も声をひそめる。
「なんで非通知なんだよ」
『こっちにももろもろの事情があるんだっての。それよりさ、妙安寺の外に出てきて。今』
「今?」
『誰にも気付かれないようにそぉっとね』
それで通話が切れた。
しっくりいかないが、なぜか乙名が無事『生きていた』ことにほっと胸を撫で下ろす自分がいた。
部屋を出てそろそろと足跡を立てず、ゆっくり玄関を出る。
寺の前の駐車場兼用の砂利の庭には乙名の姿はない。ただ、置いていかれた愛車だけが寂しそうに佇んでいる。
敷地を出た車道の端に見たことのない黒塗りの車が止まっていた。
その横には、こちらに向かって手を振る人影がある。
「いやぁ敷地に入ると砂利の音がうるさくて皆起きるかなぁと思ってさ」
へらへらといつものようにのんきな様子の乙名を見て、半ば拍子抜けになった春平は、肩の力を抜いて話をすることができた。
「お前なぁ……こんな真夜中に何だよ」
「うん。俺、本社に戻ることになりました。今までありがとう」
ぺこっ、と腰を折って挨拶をする乙名に薄気味悪いものを見るような視線を送る。
「ずいぶん急じゃないのか?」
「まぁね。事情ってのがあるだろ」
「他の皆には言ったのか?」
春平が尋ねると乙名は少しだけ居心地が悪そうに顔をしかめながら笑った。
「いやぁ、春平だけかな」
「どうして俺だけ」
「………………」
乙名は何も答えない。
肌にピリッとした緊張感が伝わってきた。
あのとき――乙名が春平に上司命令として自分を置いていけと言ったときと同じだ。
でも、もう引くつもりなんてない。
「お前、何隠してんだよ」
有る限りの侮蔑と迫力を込めて乙名に問う。
「あのときの言動も今の言動も、井上さんの庇いようもおかしいんだよ。お前、一体俺に何を隠してる」
乙名は目を伏せて黙っている。
「――別に、隠してるつもりなんてないんだけどな」
ぽつりと
乙名が声を漏らした。
どこか憂いを帯びた声音だ。
寂しそうでもある。
しかしすぐにそれが聞き間違いだとでも言うように顔を上げて開き直ってしまった。
「何だそれ。たとえ俺が春平に隠し事してたとして、それはお前には関係ないだろ?」
いつもの薄ら笑いは健在だ。
だからそれが余計に腹立たしい。
「ふざけてんなよ。俺に関係ねぇなら無理には聞かない。けど、関係あるから聞いてんだろ」
その言葉に乙名は激しく反応した。
驚いたように目を見開き、口は何か言いたそうにぱくぱくと動いている。
まさかあの乙名がここまであからさまに表情を変えると思っていなかったので春平も言葉を渋ってしまったが、言うなら今しかないと思い、躊躇いながら口を開く。
「乙名雄輝って誰だよ」
「…………」
「……乙名雄輝はもう10年前に死んでるだろ」
「…………」
「お前は一体誰なんだよ」
凄みを利かせるために、春平はあえて低い声で冷静に問いただした。
返答次第ではどうなるかわかってるんだろうな、という脅しの意味合いを込めて。
しかし乙名は、困ったように微笑むだけだった。
「俺は、乙名雄輝だ」
「――てめっ!」
あまりにも人をバカにした態度に我慢できず、春平は乙名の胸ぐらを掴み上げて拳を振り上げた。
それでも乙名の表情はまったく変わらない。
早くやれと言わんばかりの顔で、反対に春平を睨み付けていた。
「ふざけんな。お前、俺が仲間に対してこんな態度とるやつだと思ってんのかよ。頼むからキレさせないでくれ」
「そうは言うけど、春平は本当に俺のことを仲間だと認識してるか?俺のことなんて1ミリも信用しないで、都合のいいときだけ仲間扱いしてんじゃねぇのか?」
徐々に語気を荒げる乙名に、ついに春平がキレた。
「――歯ぁ食いしばれっ!」
振り上げた拳をそのまま乙名の整った顔にめり込ませた。
タッパのない乙名は春平の力に負けて吹っ飛んでいく。
そのままピクリとも動こうとしない乙名の胸ぐらを再び持ち上げて無理矢理立たせる。
乙名はその間一切の抵抗を見せなかった。
精力がなくなったような乙名を揺さぶって、自分と向かい合わせる。
口の端が切れて頬が腫れているが、目だけは死んでいなかった。
「俺がお前のことを仲間だと思ってないだぁ?ふざけてんなよ。人を信用しないのもいい加減にしろ。自分から壁作っておいて何言ってんだよ。お前は、お前は――」
言いかけて、春平は突然我に返ったかのように力を緩めた。
――お前は、清住そっくりなんだよ。
腹の内を見せず、悪気はなくとも人との間には壁をつくっている。
悪いこととは言わない。
言えない。
ただ乙名の場合は清住よりも何十倍も人を疑い、信用していないような雰囲気がある。
――だからって、責められるか?
唐突に開放された乙名は服を直し、袖口で血を拭いた。
そこでこめかみも切っていることに気付いたが、それよりも春平の異変の方が気になるようだった。
春平は地面をぼうっと見つめて、それから乙名と手で距離を図った。
「悪い。そこまですることなかったな」
「…………」
「お前に秘密があるならそれでいい。たとえ俺が関係していようが、言えないんだったらいい。人との間に壁をつくろうが、お前が何者だろうが、いい。ただ――」
震え出す声を必死に整えて、春平は乙名から顔を背けたまま言った。
「お前にとって、俺はその程度だったってわけだ。俺に危険が迫ろうが関係ない。そりゃそうだな。だって俺たちはきっと、何一つわかり合ってない」
息を吸って、言う。
「俺にとっても、お前は命綱を託せるほど信用できるやつじゃないんだ。……やっぱお前は一枚上手だ。何もかも、お前の言う通りだったのかもしれない」
顔を上げると、見たこともないような悔しそうな乙名が目の前にいた。
自然と春平の表情は渇いた笑みを形作る。
「でもさ、一応他の奴らにも挨拶して出ていけよ。まぁ、俺だけ最初から除け者で、皆お前が本社に行くことは知ってるのかもしれないがな」
そう、信用できない。
自分が危機に陥るかもしれないときに、敵の可能性がある妙安寺の人間は信用できない。
しかし、乙名は唇を噛み締めて憤りを抑えるように冷静な声を漏らした。もはや冷静でも何でもない声を。
「皆は、何も知らない。俺が本社に戻ることも、何で戻るのかも。本当は、春平にも言っちゃいけない」
キッと春平を睨み付け、乙名は感情を露にする。
「でもお前には、俺が無事だって伝えたかった!だから覚悟して夜中にここまで来たんだよ!本当は皆にも挨拶したかったけど、もう会うこともないかもしれないから最後くらい挨拶したかったけどよ、世の中自分のしたいようには動けないんだよ!そんくらい察しろよこの馬鹿っ!」
まくし立てる乙名を見て、春平は言葉を失っていた。
これほどまで乙名が感情を露にすることなんて滅多にないことだったからだ。
だから、それほどまでに乙名は真剣なんだと伝わってきた。
「それに、隠し事は何だ何だって、本当は知ってるくせに向き合おうともしない春平には言わねぇよ!俺のことだって、何にも知らないくせに……知ろうともしなかったくせに。俺は乙名雄輝だって言ったって信じようともしないくせに」
はらり、と。
乙名の頬に透明な滴が一筋流れていった。
「おと、な――」
それに気付いた乙名はようやく我に返って、泣いたことをなかったことにしようと何度も何度も目が赤くなるまで擦った。
それから冷静にため息をついて、再び人を馬鹿にするような微笑を浮かべる。
まるで今までのこと、春平と言い合い殴られ、自分が取り乱したことがなかったかのような振る舞いだ。
つまり、今のことはなかったことにしろ、ということを暗示している。
「1つだけ言っとく。目の前にあるものだけが真実とは限らないからな。本社然り」
切り換えの早さについていけていない春平は変な汗をかいたまま乙名の言葉を繰り返すことしかできない。
「真実……」
そんなこと、乙名にはわかっていたのだろう。
だからこそ春平が混乱しているうちにずらかろうとしたのかもしれない。
「それじゃ、これ以上かっこいい顔を殴られても困るから、とっとと逃げようかな」
虫も殺さないような爽やかな笑みを見せて、乙名ははっきりと言った。
「ばいばい、春平くん」
乙名……思わず本音が出てしまいました。
今までこんなに感情を露呈することなんてなかったのに……
次回、いよいよ春平が動き出します。
保身のため、秘密を探るため、そして――
次の更新は来週末になりそうです。