第95話 謎の人
妙安寺の裏には山が連なっている。
本社のようにコンクリートに固められた世界ではなく、開放的な緑溢れる世界に、春平は以前から好感を持っていた。
山を少しだけ登ると小高い丘になっており、妙安寺の周囲が見渡せる。
「うわー、絶景」
思わず感嘆の声を漏らす春平の横で、乙名はシートと弁当をぱぱっと広げていた。
その中には缶ビールの姿がいくつかあり、春平は眉をひそめた。
「おい。ハイキングに来てまでそれか?」
「まぁまぁ固いこと言わずに。男2人なんだからさ、これくらいの華があってもいいだろ?」
くひひ、と楽しそうに缶を頬にくっつける乙名。
「不満ならお前のたーっくさんいる彼女のうち1人か2人連れてこいよ」
「それなら春平の女連れてきてよ」
「なっ」
まさかそんな切り返しをされるとは思っていなかった。
みるみるうちに顔を真っ赤にする春平を見て、乙名は揶揄するような薄笑いを浮かべていた。
「バカ。『本社のフロント様』なら俺のこと知ってんだろ。俺にはそんなやついない」
「春平の女ってさ、あの子でしょ。特衛科の得意先、袴田組のお嬢」
「違ぇよ」
「袴田美羽」
ピクリ、と。
春平の顔が強張る。
別にどうということはない。
ただ、乙名が美羽のことを呼び捨てにしたことが妙に引っ掛かったのだ。
その気持ちさえ、乙名にはお見通しのようだ。
先ほどのように揶揄するではなく、楽しそうにケラケラ笑いながらプルタブを引く。
プシュッと小気味いい音が耳に響く。
「妬くな妬くな。袴田組のお嬢さんなんて恐ろしくて手ぇ出せないから。ましてや後の若頭の前でさ。ね、若」
「ふざけんな」
春平は眉をひそめながらもうひとつの缶を乱暴にとって、一気に喉に流し込んだ。
春平が自分からそんなに飲むことは稀だ。
もしかして乙名は、そうして春平に飲ませるところまで考えていたのかもしれない。
乙名はにやにやと楽しそうに春平を見ることを肴にしてビールをぐっと飲んでいた。
しばらくして、春平が酔い乙名にも十分回ってきたところで、春平が当初の目的を思い出した。
「ちょっと待てよ、サバイバルしてねぇぞ」
もとはと言えば、春平はその言葉につられたようなものだ。
だいぶ顔が赤くなった乙名はビール片手に心底嫌そうな顔をした。
「えー、それって酔っぱらう前に言うことだよ」
「何だよそれ。……もしかしてお前、サバイバルが嫌だからとっとと酒飲ませたんじゃねぇだろうな」
「自分から豪快に飲んだくせに」
「お前は……腹の内がわからん男だな。ま、いい。陽が暮れる前に行くぞ」
「えー」
シートをばさばさ動かして乙名を無理矢理立たせ、春平はサバイバルに向けて準備を始めた。
「サバイバルっつっても道なき道を散歩するだけだからな」
「道を散歩しようよ」
「川渡ったりしたいだろ」
「濡れんの嫌だー」
ぐちぐちする乙名を後ろに連れて春平はずんずんと前に進んでいく。
木々の間を縫うように歩いていると、森の中は外より薄暗いことに気づいた。
「なぁー、ここイノシシでるって噂だけど」
「大丈夫、護身できるから。むしろ出てこいって感じだし」
「俺は嫌だ!」
頑なな乙名だが、春平が歩いていくのを見ると仕方なくついてくる。
こんなところに置いておかれるよりはましだと考えたのだろう。
踏みしめる腐葉土はふかふかと頼りなく、緑の生い茂った枝が前方を塞いでいる。
「川はないのか?」
春平が不満げに言うと、乙名も不満げに返してきた。
「まだまだ先だからたどり着けないよ」
「ちょ、待っ」
春平は左腕を伸ばして乙名を遮った。
「こえぇ、崖だよ。葉のせいで見えなかったんだ」
ふぅと安堵の息をつく春平の後ろで乙名も同様に安心していた。
「春平が特衛科の人間でよかったー。ん、でも特衛科の人間じゃなきゃサバイバルしよーなんて言わないよな。バカヤロー」
「乙名、けっこう酔っぱらってる?」
「昼間から何本空けたと思ってんだよ」
ぱたぱたと自分の顔をあおぐ乙名を見て、春平は楽しそうに笑っていた。
だいぶ陽が落ち、森の中は暗闇に侵食されかけていた。
周囲からは不気味な動物の声が聞こえ、足場は見えない。
「あれ、ここさっき通らなかったか?」
周囲の木々を見て、眉間にしわを寄せながら春平が尋ねる。
乙名はわりと落ち着いた表情で上を見上げ、ざわつく木の葉を見ていた。
「てゆーかおんなじところをぐるぐる回ってる、かもな」
「変なこと言うな」
「山の神様のいたずらかな」
「おい」
やめろ、と春平が振り返ると、乙名は余裕でにやにやと笑っていた。もはや身の心配はなく、ただ春平をからかうのを楽しんでいる風である。
「知ってるか?山の神は醜女なんだ。だから可愛い女は山には入れない。神が嫉妬してよくないことが起きるからな」
「……何が言いたいんだよ」
「君は察する能力に乏しいなー。しっかり学校でノウハウを学んだエリートじゃなかったの?」
「いいから続き!」
ムキになって言うと乙名は「もー」と息をついてから続けた。
「だからね、俺たちはもしかしたら山の神に気に入られちゃって、外界に出してもらえなくなったのかなって話」
言うと乙名は昼間に使ったシートを広げて座り込んだ。
「春平も座んな。もう辺りは真っ暗だし、下手に動くよりじっと朝を待った方がいい。崖に落っこちてスイカみたいな頭になりたくないだろ?」
確かに。
話している間にも闇は深く濃くなっている。
それにしても、と春平は乙名を見下ろした。
「お前、気持ち悪いくらい余裕なんだな」
春平の一言に乙名は驚いたように何度かまばたきした後、困ったように微笑した。
「あ、そんな風に見える?俺的にはかなり焦ってるんだけどさぁ」
「全然そうは見えない」
「だって、どうにかなるときはどうにかなるもんじゃん?」
「肝据わってんなぁ」
「そうでもないとやってらんない」
うんうん、と自分で頷いている乙名を見て、春平は深くため息をつく。
そしてやはり今は乙名の言う通りにすべきだな、と納得してシートの上に腰を下ろした。
携帯の電波は圏外になり、人の気配さえしないまま夜が更けていく。
「春平、何時?」
「11時」
「んー、やっぱそろそろ異常に思う頃だよなぁ」
「は?」
「井上さんがさ」
「あぁ」
確かにあれから連絡していない。山に行ったままこんな時間になればさすがに不審に思うだろう。
あちらから連絡しようにも電波の届かないところにいるので不可能だ。
そのとき、
向こうからガサガサと草木を分ける音と人の声が聞こえてきた。
「誰かいますかー!」
複数の声が聞こえ、ライトであちこちを照らしているのが見える。
ざぁっと春平から血の気が引いていく。
「やっば、警察じゃん」
「こうなったら公務員に頼るしかねぇか」
乙名は半眼で光の方を見つめながら言う。
「本社の誰かに頼めばよかったじゃん」
「わざわざ特衛科でも呼び出すか?」
けけ、と嘲笑う乙名はどこか憎たらしい。
「そこまでせずとも問題ないと井上さんは考えたんだろ。実際問題ないもんなぁ。それに警察なら堂々と捜せるし」
「そう、か」
「そうだよ。実際俺らは寺に飯食わせてもらってる無職のホームレスなんだから。もし身元確認されてもその程度だ」
けどなぁ、と。
乙名はここにきて初めて参ったように息を吐いた。
ゆっくりと腰を上げて、目の前の春平を見つめた。
自分よりも背が高い乙名はまるで威圧するように春平を見てから、へらっと表情を弛緩させた。
人を馬鹿にしたような笑い方は、特衛科の清住を思い起こさせるようだった。
「春平さ、悪いけど1人で帰ってよ」
「――は?」
「1人で警察のところ行けって言ったの」
「俺だけ?乙名は?」
あまりに唐突な言葉に驚くことさえできず、春平はぽかんとした表情で乙名を見上げる。
しかしそんな春平の反応さえ見透かしていたかのように乙名は嫌味ったらしくにっこりと笑った。
「そ、春平だけ。俺は後で帰るから」
「だからどうやって」
「………………上司命令だよ」
一瞬、2人の間の空気が凍てついたように感じられた。
乙名から発せられる雰囲気が変わったのだ。
それを第六感で感じとり、春平はほとんど本能的に口を閉じた。
乙名は春平が黙ったのを確認してから、凍てついた笑顔のまま口を開いた。
「……春平と警察がいなくなった後に井上さんに迎えに来てもらうから。井上さんなら警察からさりげなく発見場所を聞き出して、迎えに来てくれる」
「……そっか」
そうとしか言えなかった。
ただ相手は乙名だ。
何の考えもなく行動を起こすわけがない。
春平はシートをそのままに食糧を乙名に託した。
物分かりがいい春平を見て満足そうに笑い、さらに乙名は釘を刺す。
「春平、きっと相手も春平1人で遭難したと思ってるから、俺の存在明かしちゃ駄目だよ」
そんなことを言ってのんびり手を振る乙名を背中に、春平は光の方向へ向かって歩き出した。
一度警察署へ連れて行かれ、井上と再会した。
「井上さん……」
「ばか」
仕方がないというように微笑む井上の笑顔は寺門のようだ。
暗闇から脱出したんだという安心感と、乙名はまだあの中に1人きりなんだと言う罪悪感がむくむくと育っていく。
だから、春平もつい口を滑らしてしまったのだろう。
「井上さん。乙名がまだ森に……」
春平の言葉に心底驚いたのか、井上の表情が見たことのないものへと変動する。
井上らしからぬ、人間らしい焦り。
それを警察官も見逃さなかった。
「えっ!?まだ森に誰かいるんですか」
焦って問いただす警察官の反応で、ようやく春平も我に返った。
「違います!俺ひとりだったんで……あの、森の途中で出会いまして……今度挨拶しに行こうかと」
言いながらもう後には引けないと感じた。体から汗が噴き出す。
「乙名、さんですか。変わった名前ですね」
「は、はい」
「一応本名を教えていただけますか?こちらも少し調べたいので」
本名を言うだけでいいのか。
それなら問題ない。
乙名自身、自分たちは無職のホームレスでしかないと言っていたのだから。
「乙名雄輝さんです」
それをしっかりと聞いて警察官はメモし、納得した様子で2人を寺に帰した。
街とはかけはなれた暗い道を2人で歩きながら、春平は「そういえば」と声をもらした。
「ミミちゃんと万は?」
「もう寝てるだろう。春平と雄輝は遅くなるらしいと伝えて私は別口で出掛けたことになっている」
「俺と一緒に帰るのは矛盾してない?」
「帰り道が同じなんだから何ら矛盾してないさ。乙名はどこかに泊まりに行ったと言えば納得してくれるよ。……それよりも」
突然井上は立ち止まり、春平もそうせざるを得なくなった。
振り返ると少しだけ困った表情で井上が微笑んでいる。
「春平、だめじゃないか。乙名からは何も言うなと伝えられているんじゃないか?」
「……井上さん」
「あの子は何の考えなしに動く子じゃない。今まで付き合って、春平なら理解できているだろう?」
ずきっ、と心に棘が刺さった気がした。
もしかしたら、とんでもないことをしたのかもしれない。
春平は目を伏せながら言う。
「ごめん。気が動転してたかも」
「それはまぁ、仕方ないな。……悪いね、責めるような言い方をして」
「俺が悪いから」
間髪入れずにそう言って、春平は再び歩き出した。
本当は井上も自分を責めたいはずなのに、そんなことをすれば自分に申しわけないと思って何も言わない。
井上の気持ちが痛いほどわかるから、春平は情けない気持ちでいっぱいだった。
便利屋でありながら、下手な嘘しかつけなかった。
いかに自分が半人前なのか思い知らされた気分だった。
あれから数日経った。
春の日差しも澄んだ空気も何ら変わりない。
夕暮れに彩られ始めた空を見上げながら、春平は縁側に腰を下ろしていた。
春平以外の全員が出掛け、留守番という非常に面倒くさい仕事を仰せつかってため息をつく。
静かな空気に耳を澄ませながら、春平は呆然と空を見る。
あれ以来、乙名は妙安寺に帰ってきていない。
ミミや万も心配しているようだったが、なぜか井上は「住み込みの依頼が入っている」と言っていた。
そんなことはないはずなのに。
もしそうだとしても、一度は妙安寺に帰ってくるはず。
嫌なもやもやが胸の内に広がる。
これは、依頼の操作か?
井上は、必死に何かを隠そうとしている。
ミミや万はあくまで何も知らない側のようだが――それだって怪しいものだ。
プロの便利屋ならそれぐらいの演技はしてみせる。
妙安寺は何か秘密を隠す機関。
春平には触れさせられない秘密を隠す機関。
全員で春平を囲い、行動を制限している。
この間美浜や春貴と話していた憶測が徐々に色濃いものとなっていく気がした。
そんなとき。
パトカーが妙安寺の敷地に入ってきた。
反射的に体が硬直し、春平はすぐに息を整えた。
必要以上の過剰反応は禁物だ。
パトカーから出てきた警察官2人も、別段緊張した面持ちもなくこちらに近づいてくる。
「どうもー、あれから体調いかがですか?」
気さくに話しかけられて、春平もへらっと笑う。
「あぁ、何事もなく。ありがとうございます。今日はどういったご用件で?」
「それがですねー、この間言っていた乙名さんのことなんですけど」
帽子のつばをいじりながら、警察官2人は顔を見合わせて笑っているようだ。
なにがおかしいのかわからず、春平が不審な目をすると、1人の警察官が面白そうに両手を広げて言った。
「正田さん、あなたどうやら山の神様に遊ばれたか、山の妖怪に化かされたのですよ」
「は、はぁ」
「よく言うじゃないですか、山で女の人に出会ったら遭難したとかなんとか。きっとそういった類いのものですね。私らここらへんのものですから、そういうのはしょっちゅう」
「ま、待ってください」
楽しそうに話を広げる警察官に手を突っ張らせて制すると、春平は興奮したようにまくし立てた。
「何のことだかさっぱりですよ。はっきり言ってくれないと」
無知というのが恐ろしく、春平はついつい声を荒くしながら言う。
しかし警察官はそれに何も感じた様子はなく、そのままの調子で口を開いた。
「あのですね、率直に言いますと、
乙名雄輝という人間は死んでいるんですよ。
もう10年近くも前に。
そんな人間はこの世にはいないんですよ」
「――――――」
――――――。
「いやね、私たちもまさかとは思いましたけど、珍しい名前じゃないですか。まず間違いないですね」
「――――――え?」
瞬間、
世界が暗転した。
えぇ、謎の人、まさに乙名のことですね。
衝撃の急展開!
まさか春平は今まで幽霊と一緒にいたのか……!?
春平さらに疑心暗鬼になって大変なことにならないでしょうね;
次回も早く更新できそうです^^