第94話 知り得ない秘密探し
車を出るとほんのりと暖かい昼の日差しが体を流動体のように包み込んだ。
玄関に入ると、待ちきれない様子の美浜が居間から飛び出してきた。
長い髪の毛をさらりとなびかせながら今にも飛び付きそうな嬉しそうな表情だ。
「おかえり!」
春平は泣きそうな顔で笑顔をつくる。
「……ただいま」
久しぶりの再開で感極まる2人だったのだが、その中に慌てて入ってきた空気の読めない人間がいた。
そいつは車の鍵をかけてから急いでやって来て、そのまま春平を通り抜けて美浜の前に立った。
勢い余って腕を掴んでいる。
「ひ、久しぶりゆうちゃん」
「来るならなぜ事前に連絡をくれないんですか」
見たこともないような真剣な表情の乙名だ。
これにはさすがにイトコと言えど美浜の頬も赤くなってくる。
もしや女の子の前ではこんな顔ばかり見せているのだろうか。
「わざわざこんな遠くまで……迎えに行ったのに」
本当に後悔したように言う乙名を見て、美浜は参ったように微笑んでいた。
「そんなこと気にするのね」
「咲さん、茶化さないで」
なぜそんなに必死になっているのだろうか。
美浜は乙名の手を優しく包み込んで、そっと微笑んだ。
「ごめんなさい、今度はちゃんと連絡するわ。ありがとう」
面と向かって言われると恥ずかしいのか、乙名は少しだけ頬を染めた。
なんだかそんな2人の世界にいるのが居づらくなり、春平はそそくさと居間へ上がっていた。
するとミミが居間から2人をじぃっと覗き見ていた。
「ミミちゃん?」
「乙名、美浜さんのこと好きなのかな」
真剣な顔で思案するミミを見て、春平は目を丸くする。
「そんなわけ……イトコだし」
嘲笑すると、ミミが春平の腕をぐいっと掴んだ。
「だって、好きな人いるけど手に届かないとか、その人は俺のこと気にしてないんだとか言ってたんだよ?それに美浜さんに対してあの食いつき様……ね、おかしいでしょー?」
ミミの瞳はきらきら輝いている。
とっても面白い話なのだろう。
「ん、んー」
なんとも反応し難い。
いくらイトコとはいえ、人の色恋に口を出すつもりはない。
しかし、美浜はどんな気持ちなのだろうと考えてしまった。
美浜は春貴にものすごく言い寄られている。美浜自身実のところ嫌な気はまったくないというのも知っている。
だが、乙名に対してどういった感情を抱いているのかは知らない。
それか、2人とも子供としか見ていないかもしれない……。
つくづく罪な女、というやつなのだろう。
本人たちには悪いが、思わず笑ってしまった。
「私のこと考えて笑う顔だわ」
にょっと横から美浜が顔を出してきた。
どうやら2人の世界は終了したらしい。
「なにそれ」
「誤魔化さなくてもわかる。春ちゃんのその顔は、私をバカにしたりするときの顔だもの」
「……うるさいな」
美浜に見透かされていることが妙に気恥ずかしくてむくれてしまった。
「それじゃ美浜さん、後でお茶を届けに行きますから」
居間で何やら炊事をしていた井上がいつもの優しい坊主の笑みでそう言うが、美浜は困ったように笑う。
「ん、結構です。少し込み入った話をしたいので」
「それなら春平、支度をするから持っていきなさい」
「いや、いいよ」
春平はそう言って美浜の腕を掴んだ。
「外で話そうか?何ならアロエに行くし。乙名の車使えるから」
「おいおい春平、この間の味をしめたわけじゃないだろうな」
乙名があからさまに嫌そうな顔をしているが、それは無視。
「アロエはダメよ。寺門さんが許さないから……そうね、じゃあ車借りましょう」
「――送迎しますから」
乙名は納得いかなさそうなのだが、やはり美浜には逆らえないという感情なのだろうか。
口をへの字に曲げながら承諾するが、美浜は首を横に振った。
「春ちゃんの運転でいいよ」
「……男の甲斐性は受け取ってくれませんか」
うまい言い方だ。
「なんだよ男の甲斐性って。まるで美浜さんの旦那みたいな言い方しやがって」
春平がじろりと睨むと、乙名は「くそガキー」と春平を罵った。
横で「歩く18禁」「脳味噌筋肉族」「チャラ男」「小便小僧」などと低レベルの言い合いが続く中で、美浜は頬をほんのりさくら色に染めながら乙名を見ていた。
「……ゆうちゃん」
「ん、はい」
「それじゃ、駅までお願いしてもいい?」
遠慮がちに美浜がもじもじ言うと、乙名は心底嬉しそうに微笑んだ。
これはやはり本当に三角関係なのだろうかと肝を冷やす春平だった。
美浜が来たのは春平の安否を確認するためだろう。
それは春貴の話から予想できる。
ならば妙安寺内でそういう話をしたくないだろう。
いや、美浜はそこまで考えてなかったかもしれないが、仮にミミなどが盗み聞きすることを考えると妙安寺を出るのが最善の策だと考えた。
美浜が選んだのはカラオケだった。
「ここなら完全に外界と遮断できるから。カフェとかファミレスは、近くの人が気になるじゃない」
照明を明るくして音を消し、店員がドリンクを持ってくるのを待ってから話は始まった。
「一応ね、美浜さんが何を俺と話しにきたのかは見当がついてるから」
春平がそう言うと、美浜はぎょっと目を開いた。
「えっ?」
「さっき美浜さんの電話の後に、春貴からも連絡が来た」
「な、なんて……?」
「あんまり楽しくない話だよ」
注文したウーロン茶を何食わぬ顔で飲む春平を見て、美浜の顔が青くなっていく。
何食わぬ、なんて嘘だ。
春貴の話を聞いてから、もやもやとした気持ちが広がって胸焼けしそうだった。
美浜は気を落ち着かせるようにアイスティーを飲んだ。
「あのね……本社の使いの人がアロエにやって来て春ちゃんのことを聞いてきたの」
「本社の使い?誰」
「田畑って人」
「知らないな。何科の人かわからない?」
「私たちは本社の詳しい内情を知らないの、知ってるでしょう?」
本社の使い。
ならば特衛科ではない気がする。
フロントだろうか。
「正田の過去の遍歴やここでの生活態度、交友関係まで聞かれた」
「全部言ったの?」
「交友関係は詳しいところわからないし、春ちゃん最近はほとんど会社関係の人以外とは会ってないでしょ?」
「そうだな……でも、そんなこと聞いてどうするつもりなんだろう」
春平が呟くと、美浜は眉間にぎゅっと皺を寄せた。
「あのね、私思うんだけど。社長が春ちゃんのことを洗いざらい調べて、行動範囲の制限をしようとしてるんじゃないかって」
「制限?」
「うん。春ちゃんを自分の目の届く範囲に置いておきたいのよ。春ちゃんにうかつに動いてほしくないから」
「そうは言っても、制限なんてほとんどできないだろ――監視をつけるか依頼を操作するくらいで……」
自分で言って、とんでもない憶測にたどり着いてしまったことに気づき、春平は息をのんだ。
美浜もそれを理解しているから、見たこともないような真剣な表情で頷く。
「でも、もしそうなら妙安寺の助けが絶対不可欠」
――君、色々なことを知りすぎているのかも。
春貴の声が奇妙に心の中で反響する。
――だとしたら、俺は一体何を知ってしまっているんだ?
思い当たることは多々あるが、どれも些細に思える。
社長がアロエの昔の持ち主を死に至るような仕事に向かわせたこと?
そんなもの、特衛科からしたらさして重要な機密ではない。
久遠が社長の養女であることを知り、紛争介入の私情を交えた一次延期を知ったこと?
そんなもの、社長なら春平のいないところでどうとでもできたはずだ。
それとも、社長が右京を策にはめて、人材とダムを一気に得たこと?
そんなもの、春平以外にも知っている人間はいるだろう。
それでは一体……?
そして同時にその秘密とやらを保有している可能性のある妙安寺の存在にも疑問が湧く。
「妙安寺には何か俺に知られてはいけない秘密があって、社長がそんな俺の行動範囲を制限しているってことなのか?」
「それは――春貴が言っていたの?」
「奴も憶測の話しかしていないから本当のことはわからない、けど――俺の行動制限は憶測の範疇を越えるね。俺が何らかの秘密を知ってしまっている可能性も高い。あとは……」
言葉の続きが口から出てこなかった。
その代わりに、美浜がそっと口を開いた。
「あとは、妙安寺がどういう風に関わっているのかってことね。関わっているのだとしたら、誰が」
そんなこと、あってほしくはないのだが。
現実はそうも言っていられないかもしれない。
しばらく、お互いが口を閉ざしたまま時間ばかりが過ぎていった。
氷がグラスの中で溶けてカランと音を立てる。
「……俺は、どうするべきなんだ?」
結果、それが一番重要な問題だ。
美浜は静かに首を横に振った。
「何もすべきじゃない。春ちゃんがその秘密というものを自覚していない間は社長も何もしてこないと思うわ。だって春ちゃんも何もできないんだから」
「だよね……」
「今はただ、何も知らない顔で妙安寺にいることが最良の選択よ」
「……」
「別に私と春貴は春ちゃんを脅すために話したわけでも何でもないの。春ちゃんの安否を確かめてこれから何か危険なことがあるかもしれないということを覚悟してもらいたかっただけだから」
テーブル越しに美浜はそっと春平の手を握りしめた。
美浜の手は驚くほど冷たい。
でも確かな愛情を感じる。
春平は目の前の美浜を見つめた。
見た目は若く息をのむ美しさなのに、やはり10以上も離れた大人だった。
決して恥ずかしがることもせずに自分を見て微笑む美浜に心の不安をすべて吸いとられたような気がして、春平はいつの間にか自然な微笑みを浮かべていた。
「ありがとう」
満足そうに美浜が笑ったところで、時間を告げる電話が鳴った。
「ありがと、でも1人で帰れるから」
乙名がアロエまで送ると言ったのを断って、美浜は早々に駅へと向かってしまった。
時刻はまだ昼の3時だった。
春の日差しが西へ傾き始め、子供たちが楽しそうに帰宅する姿が見える。
空はどこまでも淡く青く、道に生える草木は緑に染まっている。
この風景を見ているだけで気持ちが陽気になっていく。
隣で車を運転する乙名がまさか自分に何か隠しているなんて、想像もできないほどに。
「暇だなぁ。春平、帰ったら何すんの?」
のんきに言う乙名を一瞥してから、春平はため息をついた。
「俺も暇だからさ、筋トレでもしようかと。ランニングでもいいし」
「うへー、汗臭ぇことすんのね。筋肉オタクっぽいなぁ特衛科っぽいよなぁ」
「そこまで嫌そうな顔するんじゃねぇよ。せっかくだからお前も一緒にランニング行くか?」
「走るのはいいや。それよりさ、一緒にハイキングでもしようや」
「野郎2人組で?」
春平が心底嫌な声を出すと乙名はケラケラと愉快に笑った。
「だって暇人なのは野郎2人だけなんだもんー。な、すぐそこに山なんていっぱいあるじゃん。サバイバルだと思ってさ」
サバイバル。
それだけが耳に残り、春平の目が期待で輝き始める。
サバイバルは危機的状況から脱する能力を鍛えるばかりか、基礎的な体力も鍛えられる。
「――行こうか。縄とかナイフとか持ってく?俺、折り畳み式のナイフなら護衛科から持ってきたよ」
「そんなんいらないから、水筒と弁当持っていこうよ」
「え、誰が作るのさ」
いぶかしげな表情で乙名を見つめると、なにやら得意気な顔で乙名が鼻を鳴らした。
「俺に仕事があると思って弁当を持たせてくれる女性の数を聞きたいか?」
「………………」
つまり、食べきれない弁当を抱えている、と。
ミミの言う通り、この男は正真正銘の最低な男なのかもしれないと1人ため息をつく春平だった。
妙安寺に戻ると、井上が居間の奥の和室で写経をしていた。
「んあ、仕事中ごめんなさい」
素直に謝って乙名は居間で慌ただしく準備をし始めた。
筆を持ったまま井上はにこりと微笑み、居間に向かって声をかける。
「慌ただしいね。出掛けるのかい?」
すると乙名は体をのけ反らせてひょっこりと襖から顔を覗かせた。
「暇だからさ、春平とハイキング行くんだ」
その表情は子供のように無邪気で――何より、楽しそうだった。
念願が叶ったかのような顔だったのだ。
「春平と、か」
井上はそっと顔を綻ばせ、ふたたび写経を続けた。
遠くでは、春平が子犬のようにはしゃぐ声が聞こえている。
平和でのどかな、いつも通りの光景だった。
いつも通りの光景だった。
この先何があるとも知らない平和な2人の、いつも通りの光景だった。
いつも通りです。
何度でも言いますよ。
これでしばらく平穏はかえってこないでしょうから。
いよいよ次話から物語が「劇的に」動き出します。きゃー。
それにしても最近調子よく更新できてるなー。