第92話 優しい人ずるい人
ミミが泣きながら横になったのを確認してから、春平はようやく妙安寺に帰宅した。
すでに辺りは静寂に包まれ、人々は寝静まってしまっている。
「お帰り」
玄関で自分を出迎えてくれたのは、壁にもたれ掛かった緩んだスーツ姿の乙名だった。
居間には自分を待っていたと思われる井上の姿もあり、春平はどうしていいか分からなくなったのだが、乙名が「まぁ座れ」と着席を促した。
井上が暖かい緑茶をテーブルに置き、柔らかい笑顔を春平に向けた。
「大変だったね」
途端にその場の空気が和んだ気がした。
「ミミちゃんは無事に寝かせたか?」
「え?あ、うん一応……」
「一応って何だよ」
「ベッドに入っても泣いてたから、無事とは言えないかな」
春平が俯いてそう告げると、井上と乙名は目を合わせていた。
「やっぱり、俺の言うとおりだっただろ」
「確かにその気は2人にあったからね。乙名には頭が上がらない」
「何だよその言い方」
心底おかしそうに乙名が笑うと、井上も嬉しそうににっこりと笑った。
「先方には話はつけてあるから、後は乙名に任せるよ」
「ま、待って待って」
なぜか自分の知らないところでどんどん話が広がって収束していく。
春平が慌てて説明を要求すると、乙名は緩んだネクタイをしっかりと結びながら口を開いた。
「ミミちゃんの暗示がきれることは承知済み。さらに最近は万も調子よくなかったし……そんな2人が一緒になったら、何か起こるような気はしてた」
「あ……知ってたんだ」
ミミのことも万のことも極めて個人的なことなので、特に万のことは知っているかどうかわからなかったが、当然のように知っていたらしい。
春平の発言を聞いて、乙名は「んー」と言いながら少し参ったような、バカにしたような顔でネクタイをいじっていた。
「君ね、俺は本社のフロントの人間だよ」
まるで知らないことなど何もないと言うような台詞だ。
では何も知らなかったのはミミだけなのだろう。
「もしものことを考えてミミちゃんが派遣されてるホテルに連絡をしておいた。そしたら案の定ミミちゃんは壊れたから、いくらプロとは言っても明日の仕事は無理だろうな」
「そこでミミの代わりに乙名が明日からホテルに配属になったんだよ。もう先方と話はついてるから、乙名はこれから業務を覚えに行くんだ」
なるほど、それで一応スーツなのだろう。
ようやくネクタイをしっかりと結んで明るい茶色の髪の毛をしっかりと整えてから、乙名は時間を確認していた。
「一夜漬けってやつだね」
「でもそんなことできるのか?」
「ミミちゃんの最近の仕事はさ、フロントスタッフというよりはドアマンみたいな感じだったんだよね」
「ドアマン?」
「客の顔覚える仕事。玄関先で車の準備したり、VIPがきたら車種とかナンバーで誰が来たか把握しておもてなしをするんだよ。ホテルで一番最初に客に接する仕事」
そうか、本社のフロントならそういうのは本業だ。
「一晩あれば全部のリスト覚えられるし」
「…………」
今更ながら、乙名は実は大物だったんではないかと思ってしまう。
フロントについては細かく知らないが、もしかしたら同僚の沖田と張るくらいの力量の持ち主かもしれない。
それが妙安寺に配属になるなんて、さぞ口惜しがられただろう。
――ま、女にさんざん手を出しまくったんなら仕方ないか。久遠にもちょっかいかけてたって言ってたし……。
「んじゃ、無事俺の愛車も帰ってきたわけだし、行ってくるわ」
「気を付けるんだよ」
車の鍵をちゃりちゃり鳴らしながらそれに応えて、乙名はとっとと背中を向けて出ていってしまった。
「春平ももう寝なさい。今日は疲れただろう?」
「……うん」
春平が素直に頷くと、井上は子供を見守るような優しい微笑みを見せた。
ミミ……
誰かが優しく自分の耳元で囁いていたのを思い出した。
力強い腕に抱き止められ、そっとベッドに寝かせられた。
ミミ……
浮かんでくるのは、兄の顔だった。
「――――――」
ゆっくり目を開けると、まぶしい朝日が目に焼き付いた。
冬にしては温かく、母のお腹の中にいるような安心感がある。
着替えもせず化粧も落とさないまま眠っていたようだ。
ふと、万の顔を思い出して胸が締め付けられた。
しかし涙は出ない。
昨日さんざん泣いたので身体中の水分がなくなってしまったのかもしれない。
この恐怖をまぎらわせるために仕方なく頭をがりがり掻こうとして――誰かの囁く声が脳裏から聞こえた。
ミミ……
それが妙に安心できる声だったので、自然と手から力が抜けていった。
脱け殻のようにぽたりと布団の上に手を置いて、しばらくは呆然と天井を見つめていたが、目のわきで携帯がチカチカしているのが気になって手を伸ばした。
送信者は井上だ。
「あ、そっか。仕事……」
内容は「ホテルの仕事は問題ないのでゆっくり休め」といったものだった。
それでようやく仕事の存在を思い出した。
きっと何らかの手配をしてくれたのだろう。
それでは、妙安寺の全員が自分のことを知っているわけだ。羞恥心が沸き上がってきた。
とりあえずシャワーを浴びてから居間に行くと、お婆さんがいない。
普段なら居間でのんびりしているはずなのだが……。
心配になってきょろきょろとあたりを見回していると、縁側から猫の声が聞こえてきた。
「お婆ちゃん……こんなとこにいたんだね」
縁側で猫と一緒にのんびりしていたお婆さんが、振り返ってにっこりと笑った。
「寒くない?膝掛け持ってこようか」
「かの子は気が利くねぇー」
ほくほくとした笑いを見て、ミミもにっこりと笑った。
あの笑い方には見覚えがある。
だいぶ痴呆が進むと、あんな風に無邪気に笑う人が多いのだ。
「持ってきたよー」
膝掛けを手渡して一緒に縁側に座り込む。
ほのかに冷たい風がさわさわと吹いているが嫌な気持ちにはならない。
ミミが猫を撫でながらまったりとしているとき、唐突に声がかかった。
「かの子は優しいねぇ」
きっと、とくに何かを意識した言葉ではなかったのだろう。
ただ単に、ミミが膝掛けを持ってきたことに対して言っているだけなのかもしれない。
だが今のミミにそれほど突き刺さる言葉はなかった。
「優しくなんかないよ、私なんてっっ!!」
ミミは立ち上がって憤る。一緒にのんびりしていた猫が驚いて外へと逃げていく。
しかし急に怒鳴り声を上げたミミに驚くこともなく、お婆さんは外を見ていた。
「優しいなんてっっ……まったく関係のない春平ちゃんをあんな扱いにして……ぐっちゃぐちゃで汚くて、うるさいミミをいやがることもなく抱いてくれた春平ちゃんに謝りもしないで……いつも自分ばっかり優先して」
万が自分を裏切っていたことが辛すぎて――春平のことなど気にしていなかった。
「榊マンが私に嘘をついていたことで急に怖くなった。大好きだった榊マンを簡単に拒絶した。好きな春平ちゃんまで拒絶した。2人を……傷つけた」
気づけば頬を涙が伝っていた。
お婆さんはゆっくりとミミを見上げ、そんなミミを見ても慌てることなく優しく微笑んで見せた。
「そうかい、あの男の子は春平くんっていうのかい」
「っ!」
驚くミミは歯牙にもかけず、お婆さんはすべてわかりきった顔をしている。
「昨日、よっぽどわしに会いたくなかったんだろうねぇ、こそこそかの子を部屋まで抱いていったよ」
その光景が面白かったのか、お婆さんはケラケラと笑だした。
「お婆さん、気づいてたの……?」
対照的に真っ青な顔で冷や汗をかくミミを見て、お婆さんは目を細めた。
「そりゃあ最初は信じていたさ。だけど、一緒に暮らしていくうちに、かの子じゃないことくらい気づける」
「でも……」
「家族じゃない人間がいてよく暴れなかったなと思っているのかい?驚いたさ。追い出してやろうとも思った。けどね、あなたの笑顔を見て気が変わった」
「え……?」
まったく何を言っているのか理解できていないミミ。
お婆さんはミミから視線をそらした。
「あなたは自分を嫌いながら人を好きになって人に好かれたい子だね。その笑顔は人のために振り撒くものじゃなく、自分が満足を得るために振り撒くものだよ。自分のことが嫌いなくせにいつも保身をする子だよ。それでいて自分と似た人間は徹底的に嫌う子さ」
「――――――」
言い当てられ絶望的な顔をするミミを気配で感じたのか、お婆さんはため息をついた。
「あなたは心に闇を隠している子。そんなあなたを放っておけなくなった、おせっかい婆さんよ」
ミミは何も言うことができず立ち尽くすばかり。
お婆さんはそんなミミを愛しい目で見上げた。
「かの子。人間はね、色々な面を持つ生き物なんだよ。大好きなその子だって、ときに酷いことをするかもしれない。でもそれは紛れもなくかの子の大好きなその子なんだよ。もしかしたら酷いことも、かの子のことを考えてたのかもしれない」
「榊マンが……?」
「そうさ」
「さ、榊マンはすごく優しい子なの。いつも自分のことは後回しにして人を気にかける子なの。ずるいことは知らないような子で、私とは……正反対の子なの。だけど昨日……榊マンが私の家族を殺した殺人鬼の息子だって知って――本当は自分が殺人鬼の息子だなんて認めたくなくて、優しい子のふりをしていたって聞いて……」
途端、恐怖が襲いかかってきた。
裏切られたという現実が心に鋭い棘となって突き刺さる。
体がぶるぶると震えだす。
明らかに異常なミミ。
彼女の手をそっと握って、お婆さんは諭し始める。
「優しい子じゃないか」
「でも裏切られたの」
「もう二度と他の人を不幸にしたくない、そんな思いがあったからこそそんな態度ができたんじゃないか」
「………………」
「偽善というものは、あなたが考えているほど深い優しさかい?」
「………………」
違った。
万の気持ちは本物だろう。
だけどミミの知っている万も間違いなく本物だ。
「人間は色んな顔を持ってるさ。どんな人でも優しい心を持っている」
目が合う。
お婆さんの顔は優しく、こちらの心を動揺させる。
ミミは先ほどの憤る涙とは別の、静かな涙を流した。
「あなたが思っている嫌な人だって、本当は優しい子なんだよ」
それは
自分を嫌うなというメッセージを隠したものだった。
それが理解できてしまったから、もう涙は止まらない。
満足したのか、お婆さんはミミの手を掴んだまま嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「本当は何て名前なんだい?」
その言葉が母のような優しさを秘めていて、心の奥をじんわりと温めていく。
「ミミ……」
震える声でそれだけを必死に伝えた。
「そうか……」
お婆さんは遠い目をして空を見上げた。
「ミミちゃんは優しいねぇ」
その声は冬の高い空に響き渡って霧散した。
夜になってから、春平はミミからの連絡を受けて橋本宅へ向かった。
そうして出迎えてくれたお婆さんは自分のことを見て一発、
「遅かったねぇ春平くん」
と、のらりくらりとした様子で言ってのけたのだ。
事情を知らない春平は度肝を抜かれたが、とりあえず頭を下げてミミの部屋へ上がった。
扉を開けると、すっきりとした表情で窓辺に座り本を読むミミの姿があった。
春平が来たことに気づくと、嬉しそうだがそれを押さえて恥ずかしそうにするミミ。
「春平ちゃん遅い」
「ごめん……」
唖然としたまま謝る春平を見て、ミミは頬を染めた。
パタンと本を閉じて、その背表紙を指でなぞる。
「春平ちゃんは、自分の思ったことを実行する頑固な人だよね」
「――うん」
突然だったが、とりあえず頷いてみる。
「でもそれが空回りしちゃって大変なことになる子。……あは、年上の男の人に『子』なんておかしいね」
こっちが見惚れてしまうような柔らかな微笑み方をするミミを、春平は初めて見た。
だからこそ、なんとも言えずに硬直してしまった。
「でも、とっても優しい人だね。人を思って動ける人。同時に、自分の信念を貫く強い人。――正田春平は1人の人間なのに、たくさんの顔を持ってるんだね」
その表情がすでに悟った顔だったので、春平はほっと胸を撫で下ろした。
彼女は乗り越えたのだろう。
ならば自分の言う言葉も必然的に決まってくる。
「ミミちゃんも、たくさんの顔を持ってるよ」
そして、あの人も。
言おうとしたのだが、ミミはすでにわかってる。
妙安寺に帰ると、そこには井上の姿があった。
「ただいま!」
威勢よくミミが挨拶をすると、井上はいつものように柔らかな微笑みで「はい、お帰り」と言うのだった。
ミミがそのまま万の部屋へ直行するのを見て、井上は春平に言葉をかけた。
「いつもの元気を取り戻したね。……いいや、いつもの、は間違いだ。乗り越えたね」
「……うん。きっとあの子はもう大丈夫」
きっと、誰よりも強く生きていける。
残る問題は僅か。
それなら、本人たちに任せるのが筋ってものだ。
春平と井上はそのまま寝る挨拶をして別れた。
万はベッドに横たわっていた。
でも寝ていない。
自分が帰ってきたのに気づいて慌てて寝たふりをしたのだ。
「起きろ、榊マン!」
ぐいっと乱暴に上半身を起こし――そのまま強く抱き締めた。
「ミミさん――っ」
離れようとする万にしがみついて、ミミは口を開いた。
「万。万は優しい子だよ」
「――――――」
その言葉で万がショックを受けたのが肩越しに伝わってくる。
でも、諦めない。
「家族を嫌がって善人のふりをしていたのかもしれないけど……ミミを思ってくれた万は紛れもなく優しい子なの」
「違いますよ……」
「うん、違うかもしれない。でも、万は同情からミミに優しくしてたの?優しい子だって思われたいから、妙安寺であんな風に振る舞っていたの?」
「それは……」
「本当に好きだから、自分の思うように接していただけでしょ?」
「………………」
ぎゅっと、万が自分の服の裾を握りしめていた。
本当は自分のことを乱暴に抱き締めて安心したいだろうに、そんなことをしたらミミが怖がるかもしれない、痛いかもしれない――そう思っているのだろう。
そんな万を愛しく思いながら、ミミは優しく万の頭を撫でた。
「あのね、人間は色んな顔を持っていてね――」
誉められることが苦手な万のために、ミミは自分の話をすることにした。
すっかり万を寝かしつけてから部屋を出たのはもう夜中の12時を過ぎたころだった。
しかし居間に明かりがついている。
話し声はしてこない。
居間へいくと、ソファーに眠る乙名がいるだけだった。
「なんだ、つまんないの」
ぽつりと呟いて乙名の寝顔を盗み見る。
しっかり着込んだスーツをだらしなく緩めた乙名は、少しだけ気難しい顔で眠っていた。
そんな表情がこの能天気男には珍しく、ミミは少しだけ頬を上気させた。
この男が自分の仕事を引き受けてくれたのだ。
顧客の名簿を覚えて一夜を明かしたに違いない。そうして部屋に戻るのも億劫になるほどくたびれたのでここに眠っているのだろう。
接客業ならまず間違いなく怒られる明るい茶髪はそのまま。
この人も春平同様かなり頑固なのかもしれない。
ミミは乙名の傍らに座り込んで、しばらくはその寝顔を黙って見つめていた。
自分は自分が嫌い。
自分と似たこの男が嫌い。
自分以上に素行が悪く、それを理解した上で続ける図太さが大っ嫌い。
――違う、よね。
本当は最初からわかっていたのかもしれない。
だけど認めるのが怖かったからその気持ちに蓋をしていたのだろう。
あの殺人犯と性格が似てるから、
あの殺人犯と性格が似てる自分と似てるから、
そんなのこじつけだ。
そんな人間、何十人と見てきた。
だけどもその人たち以上に乙名を嫌うだなんて、矛盾も甚だしい。
それは、直接的に乙名が特別な存在だって誇示しているようなもの。
今では――いいや、最初から、ミミは乙名雄輝という人間に心から惹かれていたのだ。
敵わないと思うほどに、乙名の人間性に惹かれていた。
だけどそんなことは決してあってはならない。
自分と似たこのずるい男に惹かれるなんてあってはならない。
この男は悪人なんだ。
そうして心に蓋をしていた。
春平の言う通り、ミミは乙名を嫌わなければならないと自分に言い聞かせていたのだ。
乙名は自分にとっての必要悪だった。
でも――もういい。
たとえあの殺人犯のようなずるい男でも、この人は乙名雄輝だ。
ずるい面も、頑固な面も、強い面も、女好きな面も持った魅力的な面も持った人間なのだ。
惹かれてもいい。
何より自分の兄のあのまろやかな声……それと同じ雰囲気を持つ彼を好かないわけがない。
兄のように自分の良い面も悪い面も指摘しながら包んでくれるこの人を好きになってもいいだろう。
そう思うと、長年の呪縛から解放された気分だった。
重かった枷がぼろぼろと剥がれ落ちていく。
「乙名、乙名……」
そっと目を閉じて、愛しい兄へ、愛しい声をかける。
「何?」
突然返事が帰ってきたのに驚き目を開くと、眠たそうに茫然とする乙名がいた。
そんな表情のまま、乙名はそっとミミの頬を撫でた。
「泣きそうな顔してる」
「うるさい……」
ミミが小さくさえずると、乙名は優しく微笑んだ。
「そんな可愛い顔されるとキスしたくなる」
「それはどれだけ使い古した言葉なの?」
「んー、家族にしか言ったことないよ」
「家族……乙名、家族なんていたの?」
心底驚いた表情のミミを見て、さすがの乙名も苦笑した。
「そりゃあさすがの俺だって人の子ですから」
「うわぁ、似合わないー」
「こら、失礼」
あはは、とミミが素直に笑うと、乙名は愛しそうに目を細めた。
「ミミちゃんは素直に育てられたんだね」
「……素直?」
それは今まで言われたことのない台詞だった。
「うん。良くも悪くも正直な心を持った子なんだなぁ、と」
きっとそれは誉め言葉なのだろう。
ミミの良い面も悪い面も引っくるめて良く見ているということなのだ。
それがわかってしまったから、ミミは乙名から顔を反らした。
そらさなければ自分が照れているのがばれてしまう。
「……乙名に上から目線で言われたくない」
「そーっだったねー」
「ほっぺ擦る手もいい加減引っ込めてよ。妊娠するから」
「みんなそう言うんだよねー」
あはは、と言いながらも乙名は手を引っ込めた。
それはいつも通りの乙名だ。
どんなときでも乙名は乙名だった。
良くも悪くも乙名なのだ。
それが前は鼻について嫌だった。
だけど、それこそが乙名のすごいところなのかもしれない。
今ならそう思える。
「……ねぇ、乙名には、本当に好きだって言える特定の人は、いない、の?」
それはミミからの初めての歩みよりだった。
乙名もそれがわかっているからこそ、真摯に答えようと思う。
ただ、やはりそういった類いの質問なのだなと苦笑せざるを得ない。
乙名は視線をミミから天井に移した。
「いる、のかな」
「曖昧だね」
「うん。でもその人は、どう願ったって手に入らない人だから」
「言い寄ってる最中なの?」
「そんなものかな」
とても悲しそうに笑うのだった。
こんなにも負の感情をあらわにした乙名は初めてで、ミミの胸は強く締め付けられていた。
本当は叶わぬ恋をしているのか。
「ねぇ、その人に言い寄ってるのに他の人にもちょっかい出すのって、どうなの?もしかして、気をひこうとしてるの?」
色恋には真剣に向き合うミミを見て、乙名も真剣に向き合う。
もとから、そういう2人のはずだ。
なんだか面白くなって、乙名は小さく笑った。
「残念ながら、相手方は俺にはまったく興味を示してくれないから」
相手方にとっては、俺はいないことになってるから。
遠い目をしながら、寝ぼけ眼の乙名は言った。
自分の運命を受け入れながら生きていこうと決めた人の目だ。
それを見て、なんだか無性に悔しくなった。
「……ミミは」
震える声を絞り出すと、乙名がこちらを向いた。
気の抜けた表情だ。
その顔に向かって、ミミは力強く宣言する。
「ミミはっ、ここに乙名がいるってちゃんとわかってるから」
かなり驚いたのだろう。
目をぱちくりと開いて固まってしまった。
「ミミは乙名に興味あるから!」
「ミミちゃん……」
こんな言い方だと下心があるようにとられてしまうかもしれない。
顔を真っ赤にして、ミミは乙名の頬をペチンと叩いた。
「嫌いだけど!」
それが精一杯の照れ隠し。
どすどすと足音を立てながら部屋に戻っていくミミを茫然と見つめながら、乙名は試行錯誤していた。
――今のは、好意を示されたんだよな……人間的に。
下心はないんだと、ミミは示していた。
「――そんなの、いつぶりだろ……」
遊べる男としてではなく、人間として人に好意を持たれたのは。
もとから異端扱いされていた自分だから、たくさんの人に好かれるのよりはたくさんの人に疎まれる方が多かった。
井上、アロエの店主である寺門などは少し毛色の違う人種であるから、同じく毛色の違う自分を仏か何かのように受け入れてくれた。
それは勘定にいれるつもりはない。
本社フロントの沖田も、俺の実力は認めてくれてはいるが、俺の人間性までは認めていない。
沖田に限らず。
恐らく自分の想う人も、俺の人間性は否定するだろう。
でも、もしかしたら。
ミミのように自分に好意を示してくれているだろうか。
かの人の気持ちは今もわからない。
わかることはないのかもしれない。
人ではない自分は、人を想う資格さえないのかもしれない。
でも、もしかしたら。
そんなこと、願ってはいけないのに。
俺は生きているんだと認識してくれるだろうか。
俺と真摯に向き合ってくれるだろうか。
乙名は胸の奥からじわじわと広がる、希望と恐怖の入り交じった感情の波に堪えるように自分の拳を握りしめた。
「ずいぶんと毒気を抜かれたものだな、俺も」
願いや希望なんてそもそも、自分にはもつことさえ許されないものなのに。
部屋に戻ることもすっかり億劫になり、乙名は徐々に凍える部屋の中で胎児のように体を丸めた。
乙名宇宙人説は全力で否定します。
ともあれ、年内に人恋し編を終わらせることができて安心しました。
さて。
次からはいよいよ妙安寺編大団円が待っています。
それでは一区切りついたところで。
みなさま、よいお年を。