第8話 奇妙な来客2
暗闇はしだいに淡い海の青に変わってきていた。
美雨は美浜に送られ帰宅したが、アロエには未だ酔って目を覚ましていない春平が横たわっていた。
全員が深い眠りについていた早朝、一人だけ眠れずに夜を明かした人物がいた。
「咲。もう寝ないと体が持たないよ」
優しく気遣う寺門の言葉を有り難迷惑に受け取り、薄ら笑いを浮かべる。
「どうせあと4時間もしたら仕事に行かなきゃなんないんだし。それに、この子が目を覚ました時、誰が傍に居てあげるっていうの?」
その言葉に一瞬眉を潜めるが、すぐにいつもの穏やかな顔に戻る。
「春平はもう大人だ。いつまでもそういう扱いではあの子を駄目にしてしまうぞ」
むっとした表情で寺門を見返すが、すぐに観念して布団に向かう。
「じゃあ『あの子』にはすぐにお引き取り願いましょう」
「それが出来たら苦労しない。彼は彼で仕事でアロエを訪問しているんだ。私らの独断で彼を引き帰らせるわけにはいかないんだよ」
「でも、私あの子が居たらろくな仕事ができないわ!」
ドン! と強くテーブルを叩いた。
その様子に少々戸惑う寺門。
「彼のことが嫌いかい?」
「苦手!」
そう言い切って眠りにつく美浜を見てから、寺門は依頼先へと向かった。
春平が目を覚ましたとき、アロエに居たのは、疲れきってアロエで一夜を明かした河越だけだった。
「まだ寝てる……」
寝顔を覗くと、とてつもないイビキをかいていた。
時計は朝の10時を指していた。
いつものテーブルの上には、今日の仕事内容が書かれた紙が一枚あった。
明らかに飲みかけのコーヒーカップを見て、春平は違和感を感じる。
「普段は皆自分の後始末はしていくのに」
そしてそのカップは普段使わないような、来客用だった。
「依頼主?」
ますます訳がわからなくなるが、とりあえず依頼先へと向かう春平。
今日の依頼は中学校の野球部指導だ。
高校生の時は名のある名門校のキャッチャーをこなしていた元高校球児正田春平は、どかから情報が漏れたのか、そういう依頼が多い。
「う〜ん。球筋は良いんだけど、体幹が安定してないんだよなぁ。ちょっと投球のフォーム見せてよ」
と、偉そうに指導する様子を、監督は満足そうに眺めている。
「あの〜、森田先輩。携帯のメアド聞いてもいいですか?」
グラウンドの外で女生徒の甲高い声が轟く。
「いいよ」
森田と呼ばれる男子はそれを快く許可した。
「安達さん、森田のこと気になるんスか?」
ピッチャーに安達と呼ばれて振り返る。
「いや、随分声がデカイなぁと」
「あいつ最近転校してきたんスけど、ムカつくんですよ」
ミットに拳を強く叩き入れ、パンという爽快な音を鳴り響かせる。
「ふ〜ん」
森田の顔を一目見ようと目を凝らすが、こかからでは遠すぎてよく見えない。
周りの女子との身長差を比べても大差ない。
身長が低めな春平と比べても、5センチは差がありそうだった。
放課後も野球部の練習は続いた。
「げっ」
すでに時刻は6時をはるかに上回っていた。
やべぇな。依頼内容は朝練6時からと放課後練6時までだもんなぁ。
アロエで時間制限は絶対だ。
もし破ろうもんならアロエをクビにされてどっか別の所に人事異動される!
「監督! もう約束の時間が過ぎているので、帰らせていただきます」
と叫んで許可もなしにアロエへと戻る。
アロエに帰ると、玄関の前に小柄な学ランが立っていた。
「あの〜、どちら様ですか?」
少年はその声に反応してゆっくりと優雅に振り返った。
「ここのお店の方ですか? 本社の派遣で調査に来た者ですが」
しかし、その直後春平は背中に冷ややかなものが滑り落ちたのを感じた。
「んふ。やっぱりしゅんだったね」
少年は天使のような笑みを浮かべてこちらを見つめた。
春平は何をするでもなく、ただその場に立ち尽くす事しかできずにいた。
その様子を見た少年がこの家の居住者に許可もとらずに中へ上がり込む。
「最近は徐々に暑くなってるよね。いくら太陽の熱が地球に伝わってくるのに2ヶ月ぐらいかかるとは言っても、軌道が高くなった直射日光を頭から受けるのはさすがに苦しいものを感じるね」
長々と今の季節の特徴を自慢気に説明した少年を見て、春平は何か嫌悪感を感じた。
「何が言いたいんだ」
その問いをまってましたと言わんばかりに少年は満面の笑みを見せつけた。
「とったんだ。教師免許」
ただ見せつけるわけでもなく、嬉しそうに話す少年。
「早く一人前になって、咲ちゃんを貰うために」
その言葉に引っ掛かりつつも、春平は玄関に入り靴を脱ぐ。
「そんな焦んなくてもいいんじゃない? 別に誰かが嫁にもらうわけでもなさそうだし」
「いや、咲ちゃん可愛いから」
続いて靴を脱ぎながら言う少年の言葉に、意味を含めてため息をつく。
その様子を見た少年は、一瞬眉をひそめたが、すぐに強気な態度を示した。
「まぁ、しゅんにしたら唯一のおもり役の咲ちゃんが居なくなると不都合が生じるだろうけどね」
それを聞いた春平は、眉間に深い皺を刻んで少年の目の前に立ちはだかる。
勢いあまった左手は、そのまま横の壁を強く打撃した。
「知ってるか? ヨメヨメ騒いでるけど、実際美浜さんの気持ちがお前の方を向かなきゃ只の独り善がりなんだよ。まぁ、そんな日が来るとは思わないけど。それに、俺がもし美浜さんならお前と結婚なんて考えたくもないね!」
その態度が気にくわなかったのか、少年は体を乗り出した。
体重を支えるための細い右腕は、春平の左手の前に力強く叩きつけられた。
「僕が女でもしゅんと結婚しようなんて考えないよ! 付き合うのだって御免だ。で、どうせそんな態度で結局彼女なんてできたことないもんね」
少年の挑発に乗ってしまった春平はさらに皺を深くする。
「はい、ここまで」
奥からむっさい、がっしりとした体格の中年が顔を出した。
「ご近所迷惑だよ」
河越は怒るも怒鳴るもせずに2人を中へ招き入れた。
「まぁ、アロエの調査として派遣されたわけで、一ヶ月近くアロエに出勤するけど、気にしないで」
はい、と2人に麦茶を渡すと、それを一気に飲み干す春平。
「なるほど。んで、昨日は俺とこいつを会わせないようにって仕事詰め込んだわけだ!」
ギロリと、少年の方を向くと、少年はそっぽを向いて居間においてあるアロエを見つめる。
「昔と全然変わってないんだね。『俺の物だ』発言してたわりに面倒みてないんだろ、しゅん」
その言葉に引っ掛かりつつも、半分は当たっているので言い返せずに居る。
「只今戻りました〜」
玄関から女性の声が聞こえると、さっきの冷たい空気が一変して、和やかになった。
「咲ちゃんだ!」
喜んで出迎えようと立ち上がった少年を春平はしっかりと掴む。
「あ、しゅんちゃん大丈夫? って、げ!」
美浜は一歩後退りするが、当の本人は美浜に向かっていく。
「お帰りー! お仕事疲れたでしょ? 今晩は僕がごはん作るからね〜。調理師免許も取ったしさ」
意味ありげにちらりと春平の顔を覗くが、春平自身はそんなことは全然気にしていなかった、ように見えた。
「いや。あたし今日は自分ん家帰るから」
そう言って早速報告書を書いて帰ろうとしている美浜を、少年は急いで追いかける。
「おいしいよ〜。調理学校トップで卒業したんだし〜。そうだ! 咲ちゃんの好きなラザニア作ってあげるよ! 絶対高卒の体育会系が作ったのよりおいしいし」と、春平を横目で得意気に見つめる。
「いいの。あたしは今日お茶漬けが食べたい気分だから」そう言って少年をはね除ける。
「ほら、もう調査の時間すぎてるだろ。もう帰った方が」3人の様子が見ていられなかったのか、河越が仲裁に入る。
「春平。ハルを送っていきなさい」
「いらない」
冗談ではなさそうな表情で断るが、河越はいつになく強気に追い出した。
「ハルを1人で帰らせて、ずっと咲ちゃんのストーカーしてたら困るんだよ」
強引に外へ春平と少年を外へ捨てる。
「! 僕はそういうヤツから人を守るのが仕事なんだよっ!? そんなことするわけ……」
言っている途中で玄関を閉められてしまった。
「あのさ、後ろ歩くの止めてくんない?」少年はまったくもって不快な表情で黙々と後ろを歩く春平を睨み付ける。
美浜が居るときとは全然違う冷ややかな目だ。
「俺が前歩いたらお前逃げるかもしんないし」
「逃げないよ。そもそも春が後ろを歩いてたら何か変わることがあるわけ? もっと頭使って考えて見ろよ。何の為にわざわざ高い学費払って本部の専門学校行かせてもらったんだよ」
ため息をつく少年を見て春平は少年の目の前に立ちはだかる。
「ハルは女みたいだからな〜、誰かに襲われても大丈夫なように体育会系な俺がわざわざ送ってやってんの」
「調子に乗んなよ」
今までのように優しさなんてない声で春平の顔をきつく睨み付ける。
春平はそれきり黙ってしまった。
「僕が春みたいに仲直りがしたいなんて考えで中傷しあって会話してやってんだと思ってるのか?」
春平の頬に一筋の汗が流れる。
「春はいやに成る程変わってないな。そんなんだから誰も相手にしてくれないんだ」ふざけてるような笑顔なんてなかった。
ただわき目もふらずに春平を睨み付けていた。
「そんなお前を対等に扱ってくれたのはバットとグローブ。それだけだろ」
春平の目の焦点が定まらなくなってきた。
もはや顔全体が水を被ったような状態になっていた。
「寺門さんもたいした人だ」
この後のセリフが何となく予測できたが、春平はそのセリフは何回も聞かされていた。
「本部を追い出された腹いせにお前の父さん母さん殺して強制的にお前の親父になってさ」
春平は目を開いて目を吊り上げている少年を見つめる。
「お前を商売道具にするんだからな」
春平は出来る限り目を開いた。
こんなセリフ、初めて聞いた。
そんな春平の顔を見て、少年は満足そうに笑った。
「ははは。もしかして寺門さんがアロエを建てたのは昇進して独立したからだと思ってた?」
少年は春平の頬を伝う水を人差し指ですくい上げる。
「寺門さんは本部を追い出されたんだよ。何でだと思う?」
口元は微笑んでいるのに、目は未だ鋭い光を放っている。
「お前が居たからだよ」
春平は鼓動が早まるのを聞いた。
「春が寺門さんのトレーラーの前に飛び出さなければ良かったのに」
息ができなくなって、自分の胸元を強く握りしめる。
忘れていたつもりなのに。
知らなかったはずなのに。
急に、蓋を開けてしまったんだ。
二度と開けてはならないはずの、
「蓋」を。