第86話 便利屋の仕事
やれ。
ミミの目が、春平に命令していた。
首の後ろから、汗が流れる。
どうしようもなく立ち尽くす春平は、ミミから目が離せないままだ。
「有彦? できないの?」
びくりと春平の肩が震える。
「怖いの? たったそれだけのことが、怖いの?」
ボスは楽しんでいる。
誰かの大切なものが失われるときが見れるのを楽しみにしている。
そうして、自分の悲しみを打ち消そうとしているのが分かった。
ミミの眼光は鋭さを増していく。
「ミミちゃん……」
呟いて、春平はゆっくりとミミに近づいた。
それでもミミは震えることさえしない。
春平はその場に両膝をついて、彼女のむき出しの太ももに手を触れた。
「うっ……っ」
その瞬間、こらえきれない感情があふれ出した。
心の奥で恐怖の扉が開くような音が聞こえた。
「そんなもの、わざわざ思い出すな」
突然。
背後から声が響いた。
少しだけバカにするように笑うような、声。
その場にいた全員がざわめき、開け放したままの扉を振り返った。
そこにいたのは、
強気な笑みを浮かべる精悍な顔立ちの青年だ。
乙名雄輝。
彼が学園長を横に連れて、扉にもたれかかりながらこちらを見ていた。
その姿を見て、急に息苦しさがなくなった。
春平は安心していたのだ。
反対にボスは何が起こったのか理解しきれず、目を大きく見開いていた。
「あなたは……確か、この女の彼氏だったかしら……」
そこまで調べ上げてはいるようだ。
しかし実際にはそうではない。
乙名はもうまったく隠し切るつもりはないらしい。
「残念ながらそうじゃないんだけどさー。ま、訳有りなんだよね」
それを、ボスは隣にいる学園長から悟った。
気まずそうに体を縮こめている学園長は、ちらちらと春平の顔を見ている。
「……わかった、お前たち、今日はもう終わりよ。早く帰りなさい」
震える声でそう言って、ボスは学園長をにらみつけた。
男子生徒たちは青い顔をしながら各々うろたえ、そそくさと教室を出て行った。
乙名は生徒たちが完全に見えなくなって足音が遠ざかるのを確認している。
その間に春平はミミを開放して、自分の上着をかけてやった。
外の風が徐々に強まり、音楽室の窓をがたがたと震わせていた。
周囲には完全にこの5人しかいないのを確信してから、乙名は学園長の腕を引いて音楽室の中に入り込み、完全に扉を閉めた。そうなればここは防音室となり、声が漏れることはない。
「さて、と。ご苦労だったな。お前が傷つけた男の子は俺が無事に病院に運んだよ」
乙名に言われても、ボスはただ学園長を睨み付けていた。
自分から天使を奪った天敵を、睨み付けていた。
乙名はそんなことをかまわずに、ミミちゃんの所へと近づいた。
「大丈夫?」
座り込んでいるミミに近づいてそっと髪を撫でる。いつものようにちゃらちゃらした雰囲気は見受けられず、珍しく紳士的な様子だ。
しかしミミはそれの手を乱暴に振り払い、春平にしがみついた。
「ミミちゃん……」
春平が言っても、ミミはその態度を改めない。
乙名とは目線さえ合わせずに、ミミはポツリと呟いた。
「そういうときだけ優しくしようとするの、計算だよ。汚い。乙名、嫌いだもん」
頑なに言い張るミミちゃんを見て、春平は言葉を失ったが、乙名本人はまったく気にした様子もなく「だよねー」といつもの調子でおどけて見せた。
「ま、それはともかく」
よっこらしょと膝に手を当てて立ち上がり、腕を組んでボスの背中を見つめた。
「正直ね、俺はいろんなことを知ってるよ? ここですべて暴露してもいい。でも種明かしする必要なんてないと思ってる。俺は探偵でもなんでもないし、そんなことする義務もない」
「……彼女がこうなることを知ってて、こうさせていたの?」
ボスが肩越しに尋ねてくる。しかし乙名は「ははっ」と小さく笑って見せた。
「ナミちゃんがこうなることまでは予想できなかったよ。だけど、有彦がこうなることはある程度分かった。お前はきっと有彦を洗脳する過程で、有彦がこういうのを毛嫌いすることを見抜いたんだろうなぁと思ってさ、きっと何らかの形で有彦の恐怖心を仰ぐはずだってのは分かってた」
「そう」
「ちょいと学園長と長話をしててな、亮が倒れているのに気づくのが遅くなった。んで、亮の口から事実を聞いて、お前がきっと亮のことで弱っている有彦の心につけこもうとするのは読めた」
こんな場でも、乙名は上手に仮の名前を使用している。
「それで学園長を引き連れて音楽室に急行したってわけね」
乙名が「あぁ」と短く答えると、ボスは少しだけ嬉しそうにくくくと笑った。
「すごいわね。あなた何物?」
「斉藤タケシ。ただのしがない高校生だよ」
余裕の笑みで乙名が言うと、ボスも強気な笑みで応えた。
それにしても、と春平は学園長に目を向けた。
なぜあんなに肩身が狭そうなんだろうか。
目の前に敵がいるのだから、もっと感情をむき出しにしてもいいはずなのに――
これではまるで、立場が逆転したみたいだ。
「天使の話もだいたいは聞いたよ。それで学園長がお前に口止め両を払ってることも。それも、自腹じゃなく学園の経費でな」
「なっ!」
まさかの事態に春平が声をあげると、乙名は口を片方だけつり上げて笑った。
「亮が秘密裏に調べててな。それはそれは上手にごまかしてたそうだ。亮じゃなかったら見抜けないほどに。おそらくは金に物言わせてプロを使ってあの報告書を作ったんだろうな」
ボスは何も言わずに乙名を見つめた。この話で乙名は普通の学生でないことには気づいたのだろう。だからといってまさか便利屋が雇われたとまでは分からないはずだ。
乙名の言葉に、さらに学園長が体を小さくした。図星なのだろう。
春平もあの食事会のとき、学園長が裏切っているのではないかということを考えていたが、直感は当たっていたようだ。
しかし
「じゃあどうして組織の解体なんて望んだ…?」
そうだ。
組織を解体するためには、どうしたってボスとの接触が不可欠となる。
しかしそれでは、学園長が裏で手を回していたことも、過去の犯罪もすべて暴露されることになる。
解体したからといってこの音楽教師を警察に突き出して世間にさらすことさえできない。そんなことをしては自分の立場も発覚して危うくなるからだ。
春平が不審な顔をしているのを見て、ボスは嘲り笑った。
「ははははっ、バカだね有彦。そんなの決まってる。自分で私に接触するのが恐ろしいから、人の手を借りたまでだよ。そいつはそういうやつだからな!」
学園長はボスと目も合わせられない。その様子がさらにボスを激情させていくのが分かる。
「天使を死においやった罪悪感で私には逆らえないからな! 再び現れた天使を我が物にするために、手っ取り早く人の手を借りて私を排除しようとしたのだろう?」
「……」
「じゃなければ、先に私があなたを排除するからね!」
ぐぐぐ、と学園長の喉がなった。
これは、修羅場というものなのかもしれない。
それなのに乙名はまったく動じることなくボスを見つめながら不敵な笑みを浮かべ、制服のポケットに手を突っ込んでいた。
「言いたいことを言ってすっきりしたか?」
その言葉の意味を、おそらくボスは理解しているのだろう。乙名の言葉に動じることもない。
「そうはいうものの、結局負けなのはお前だよ」
乙名がポケットから取り出したのはボイスレコーダーだった。
それについて、ボスは何にも思っていないのだろう。
すでに分かりきったことだったのかもしれない。
「亮くん……あなたたちの仲間なのだものね。それを聞いた瞬間から潮時だとは思ってたわよ」
ボスの発言で、合点がいった。
亮はただ暴行を受けていたわけではなく、しっかりと証拠を手にしようとしていたのだ。
「同時に俺がさっきまでの会話を録音させてもらった。これが証拠だな」
春平はじっとボスの同行を見ていた。
ここで逆上して乙名に襲いかからないかと思ったのだが、その様子はなさそうだ。
乙名は両手を広げて肩をすくめる。
「これを警察に突き出すようなまねはしないよ。俺たちもちょっとした理由で警察沙汰はご免なんだ。だからこれは、こうして……」
言いながら、乙名はレコーダーを学園長の手に握らせた。
学園長本人はまさかのできごとに唖然としているだけだ。
「学園長が持っている。彼の行動ひとつでお前の人生は一転する」
「えぇ、理解してるわ」
「俺が提示するのは、組織の解体だ」
「……」
「俺たちは別の道を使ってこのレコーダーを警察に突き出すこともできる。だけどそれはしない。その代わり、お前は組織を解体する」
「……でも、私は組織を解体するだけでいいのよね?」
「もちろん。そのほかのことは俺の関与するところじゃない」
乙名が冷静に答えると、学園長の顔が一気に青ざめた。
「ちょちょちょっと待ってくれ!」
突然乙名の腕を掴んで抵抗し始めた。
その行動に春平は反射的に体を動かしたが、乙名が「平気だ」と言ったので警戒を解く。
「おかしいじゃないかっ! それなら私はどうすることもできないっ!」
確かに。
学園長がレコーダーを警察に渡してボスを排除しようとしたら、自分の過去が明かされる。
逆にもしボスが出頭するようなことがあれば、学園長も道連れとなるだろう。
「話が違うぞっ! もっと確実にっ、私に被害が出ないようにあいつを排除することができるんじゃないのか! 頭を使えっ! この××っ!」
下品な言葉でののしられても、乙名の表情は変わることが無い。
いや、変わった。
能面のような凍てついた表情が、冷静に学園長を見つめていた。
その迫力に学園長の手が緩んだ。
「話は違いません。これが俺たちの仕事ですから」
「なんて屁理屈を……!」
「屁理屈を並べてるのはあなたの方です。あなたは俺と約束したじゃないですか」
ハッ、と春平は最初の光景を思い出していた。
――さて、君らも知っているとおり、我が学園で何者かが謎の組織を作り、生徒を洗脳しているらしい。妙安寺の方々にはそれを発見、即解体してほしい。
――……それは、洗脳された生徒を解放し、組織を解体してほしいってことでよろしいんですよね?それが、私どもの仕事だと。
乙名の指摘に、学園長は頷いたのだ。
それが便利屋の仕事だと。
それだけが便利屋の仕事だと。
学園も以前の会話を思い出しているのか、目を見開いて口をわなわなと震わせていた。
「洗脳された生徒の解放はこれで成り立ちます。ケアについては、我々の知り得たるところじゃないけど、まぁ、裏で手を回しておきましょう」
そして、じろりと眼光を鋭くした。
「だけどあなたのことなど知ったことではない」
「……っ」
「あなたとこの音楽教師は言わば運命共同体。それから逃れられることはできないですよ、何十年も前から、これからもずっと」
きっと乙名は最初からこうなることをにらんでいたのだろう。
学園長には何らかの裏があるというのを見透かした上で、あのような契約をしたのだ。
――さすが、頭の回転は俺なんかとは違うってわけか。
いつも適当な乙名がこうして真剣に仕事にとりくんでいる姿を見ると、妙な汗が流れてくる。
こいつが仲間で本当によかった、と思う。
もしこれが標的だとしたなら、自分は上手に任務を遂行することができたのだろうか、とあらぬ想像をしてしまう。
学園長はあまりの衝撃に耐え切れず、その場に膝を追って愕然としていた。
放心状態の学園長を尻目に、乙名はボスを見つめる。彼も乙名を見つめていた。
「……行こうか、2人とも。亮の様子を見に行こう」
「えっ」
唖然とする春平を見て、乙名は困ったように笑ってみせた。
「仕事はこれで終わりだよー」
いつもの乙名を見て、なぜか安心してしまった。
ミミが後ろで「ちっ」と舌打ちするのが聞こえた。
それを気にせず、乙名は微笑を浮かべたままボスを見た。
「こいつは約束通り組織を解体するよ。そういう点では、学園長よりよっぽど信頼できる」
その言葉を聴いて、ボスも笑って見せた。是、ということなのだろう。
春平はミミの手を握って乙名に近寄る。
「春平、ミミちゃんと一緒にもう片方のニーハイ探しにいきなよ。こんな格好じゃミミちゃん嫌でしょー?」
「言われなくても行くもんっ」
頬を膨らませてミミは春平の手を引いて音楽室を出て行った。
これで大丈夫なのだろうか。
春平が乙名に視線を向けると、彼は目を細めて応えた。
大丈夫なのだろう。
2人が音楽室を出てから、乙名も「さぁて帰るかー」と背中をぐぐっと逸らしていた。
「そうだ、学園長。明日辺り学園に坊主が来ると思うから、追い出したりしないでくれよ? そいつの指示通りちゃぁんと報告書にサインしてくれよな」
言って、乙名も音楽室を出た。
中には2人残っているが、この後どんな展開が待ち受けているのか、彼にとってはどうでもいいことだった。
自分はただ、自分の仕事をまっとうするだけだ。
そうして廊下を曲がって階段を下り、玄関へ行ったところで、見知った少女が自分を待っていることに気づいた。
肩口で切りそろえた髪の毛は暗闇の中でよりいっそう濃さを増している。
双眸は猫のようにぎらぎらと光り輝いている。
「お疲れ様」
桜春子はそう言うと、腕を胸の前で組んで妖艶な笑みを浮かべていた。
「あぁ」
それだけ応えて乙名は春子の横を通り過ぎると、靴を履き替えた。上履きはもう必要ないだろうからもって帰る。
ほとんど無視しているようなものだが、春子はそれでも乙名に話しかける。
「私に何か言うことがあるんじゃないの?」
「……お見通しってわけだね」
「あなた、私のことを誰だと思ってるの?」
自信たっぷりの言葉に、乙名は苦笑しながら振り返った。
「桜春子」
「正解よ」
満足そうに春子が頷くと、乙名は「はっ」と声をもらした。
「組織に関係していた生徒たちのケアを任せる」
「それは私の仕事じゃないってことくらい分かってるわよね? そもそもそんなこと私がしてはいけないのも理解しているんじゃないの?」
「いち依頼主として頼む」
「……なるほどね」
納得して、春子は少しの間押し黙った。頭の中で構成を組み立てているのだろう。
「それじゃあもろもろの契約は後で」
「頼む」
乙名が小さく礼をしたのを見て、春子は乙名の横をわざとすり抜けて校門へと向かっていた。
その背中を見つめて、乙名は「はぁーーーーー」と長いため息を漏らした。
春子と自分が接触しているところを春平たちに見られるわけにはいかない。だから春子も最低限の会話でとっととこの場を去ったのだろう。
「乙名ー」
廊下の向こう側から春平がこちらに声を上げているのが聞こえた。
「おー、早く来いっ! 寒いから帰ろー」
玄関にたどり着いた春平の腕には、しっかりとニーハイソックスをはいているミミがくっついている。
「まぁたそうやってミミちゃんは俺をいじめるのが好きなんだからー。絶対俺にはそんなことしてくれないじゃーん」
「ここにいるときはしてあげたでしょー」
「演技でねー」
「もううるさいっ」
ぷいっと顔を逸らしてローファーを履くと、ミミは「春平ちゃん早くー」と言いながらとっとと校門の方へ歩いていった。それほど乙名の近くにいたくないのだろう。
――ミミちゃん。
春平は少し複雑な思いでいた。
少し、乙名への対応がひどすぎる気がする。少し前までここまでひどくはなかったのに。
やっぱり自分が言ったことがミミに何かしらの影響を与えてしまったのだろうと後悔したが、もうどうにもならない。
ため息まじりで靴を履き替えると「春平さぁ」と乙名が横から声をかけてきた。
顔を向けると、いつものようにちょっぴり困ったような笑みを浮かべていた。
「明日、ちょいと俺に付き合ってくれよ」
「え?」
「行かなきゃならないところがあるからさ」
「う、うん……。いいけどさ、俺だけなの?」
春平が不思議そうに首を傾げると、乙名は当然のように頷いた。
「ここから先のことは仕事でもなんでもないからな。ただ、この事件の核心が判明していないだろう? すべての鍵を握っている人物に会いに行こうと思って」
「すべての鍵を握る人物? 音楽教師じゃないのか?」
まるでその言葉を待っていたかのように、乙名は嬉しそうに笑って見せた。
「違うんだな。もっともっと深いところで、実はすべてを手玉にとっているやつがいるってわけさ。それでそいつと接触してすべてを解決する。俺のエゴでね」
「で、俺か」
合点がいかない。
しかし乙名は「だって」と言葉を続けた。
「これを一番知りたがってるのって、本当は春平だと思うけどなぁ」
ほんのちょっとバカにするように言われたその言葉の意味を理解することは、まだ春平にはできなかった。
もう春子ちゃんが謎ですね。
大丈夫、ちゃんと彼女の正体が判明するときはきます。
それにしても、春平が一番知りたがっていることとは何でしょうね?
次回、学園組織編終了!
今日はあともう1話更新できますよー^^
何ヶ月も更新しなかったり、と思えば一日に何話も更新したり……極端で本当にすみません。
今度こそは定期更新を目指してがんばります!