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アロエ  作者: 小日向雛
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第85話 奪い、奪われ

すでに暗黒につつまれた教室の中、春平は一歩も動けずにいた。


落ちる涙は尽きてしまい、ただ空虚な目で自らの手を見つめていた。


上司である万の命令を聞いて彼を痛め付けたこと、さらに組織の結束を高め青少年を悪い方向へ導いてしまったこと。そのすべてが春平の心にどっしりと居座って動こうとしない。


ふとしたときに瞼の奥にちらちらと映る小学生のときの光景。


吐き気を抑えながら唾を飲み込んだ。


そのとき。


「お、本当に残ってた」

「まじだ。先生、有彦と会ってたんだな」


そんなことを言いながら二人の少年が教室に入ってきた。


とっさに姿勢を正して立ち上がり「よっ」と何気ない挨拶をしたのだが、どうやら顔色まではごまかせなかったしい、少年は明らかに眉を潜めて心配そうに春平を見つめていた。


「お前…顔が土色なんだけど」


「ん、俺ってあんまり血ぃ苦手なんだ」


「あぁ、さっきあいつめっちゃ血ぃ流してたもんな」


そんなことを笑いながらしれっと言う少年に恐怖さえも感じながら春平は「うん」とだけ答えた。


するとそれまで妙な微笑を浮かべていた少年が、とくになんでもない風に「そうだ、」と声を発した。


「先生がさぁ、有彦連れてこいって騒いでたんだよ」


「…俺? もしかして全員召集?」


少年は目をつむって首をふるふると振った。


「俺たちはお呼びじゃないよ」


「……」


嫌な予感がした。

便利屋独特の勘が働き、妙な胸騒ぎがする。


二人はそれだけ伝えに来たので、何やら話ながら楽しそうに廊下に出ていった。


そして完全に姿を消す前に振り返って、にやにや顔で春平に声をかけた。


「いいよなぁお前。今回は羨ましいぐらい美味しそうな仕事だぜ」


まだ内容も知らないが、胸がぎゅっと締め付けられた。


そういえば――妙安寺の他のメンバーは今何をしているのだろう、と急に気になり出していた。














音楽室は怖いくらいにシンと静まり返っていた。それはいつもの通りなのだが、今日はまとう雰囲気が陰湿で硬質なもののように感じられた。


扉の小窓から中を覗くことに恐怖を覚え、春平は勢いをつけて扉を開けた。


予想以上に大きな音が響いてしまったのだが、中にいる人物は体を震わせることさえせずに、凛とした瞳を扉の春平に向けていた。


中にいるのはボスひとり。

仁王立ちする姿は女性のように美しく、口元に浮かべられた笑みは妖艶な危なさを孕んでいる。


人の気配は――隣の教室から感じられる。


――新手のショーでもやろうってのか?


春平の額から一筋の水の玉が流れ落ちた。


「どうも」


春平が軽く会釈をして扉を閉めると、ボスはいやらしく春平を手招きする。


逆らうことはせず、ただボスの意のままに春平はボスに近づき、髪を触れられることを許した。


「有彦はきっと、恵まれて育った子なのでしょうね」


突拍子もないボスの言葉にほんの少しだが春平の表情がピクリと動く。気づかれない程度の小さな変化には、自分のことをわかりきったように言うボスへの嫌悪感が示されている。


そんなことに気づかないボスはそのまま言葉を続けていた。


「楽しい仲間。きっと暖かい家族もいるのね」


「…………」


「あなたには、優しい婚約者もいるのね」


やはり美保は美羽のことを言っていたのだろう。しかしやはり袴田組を恐れて、それ以上の追従はしないようだ。


ボスは優しく撫でていた手をそっと離して窓の方へと歩み寄っていく。

窓の外は暗黒が広がり、遠くで電灯がちかちかと点滅しているだけだ。すでに生徒の姿はなく、学園の中にいるのは今この2人だけなのではないだろうかという錯覚さえ起こるほどだ。


窓にそっと手を添えると、ボスは振り返ることもせずに春平に語りかける。


「……その昔、この学園には天使がいたの」


「天、使……」


それは学園長が呟いていたことと同じだった。


春平が思わず呟くと、ボスは口元だけを笑みの形にして顔をこちらに向けている。


しかしすぐに窓の外に視線を向けた。


「天使は天使。誰のものでもないんだよ。ただ天に見初められ使わされ、自由に空を飛ぶことができる。そう、自由に……。ただのその天使は、私のもとに降り立っただけだったのに……」


――おかしい。


春平はきゅっと口を引き締めた。


ボスの言っていることは学園長とまったく違う。

学園長は、まるで天使は自分のものだったというように言っていた。

そして再び、自分の天使がボスに奪われる、というような発言をしていた。


「彼は、天使をそそのかして自分のものにしようとした。私利私欲のためだけに天使を利用して、彼女の心と体をすり減らして、最後には最大の禁忌さえ起こしてしまった」


「……」


徐々に語気の荒くなるボスに一抹の恐怖心を抱きながら、春平はそれを表情に表そうとはしなかった。


だがボスがゆっくりとこちらを振り返ったとき、心臓が跳ね上がるのを感じた。


ボスの顔は、悔しそうに、自嘲するように、にやりと笑っていたのだ。


「分かるか、有彦? あいつは、天使を欲望のままにもてあそんだんだよ。それで子供ができたらあいつは天使を突き放した」


堕ちた天使は、羽をもぎ取られてごみのように捨てられた。


「けど私は知っていた。天使の悲しみも、苦しみも。……だから私が天使の心の安らぎになることはできないだろうかと思ったのだ。そして結ばれた私と天使を見たあいつは、嫉妬心から私を天使から引き離し、天使をぼろぼろになるまで利用した」


どんっ、とボスが近くの机を叩きつけ、静寂が割れた。


「そんな天使はどうなる? なんの希望を見出せない天使は一体どうなる!」


そうしてボスは悔しそうに拳を握り締めたままうつむき加減に唸っていた。


先の言葉は、言わずとも分かる。


天使は、この世に耐え切れず羽ばたいたのだろう。


天使は、ボスは、一体どんな気持ちだったのだろうか。考えて、春平は押し黙る。


目を閉じてふとまぶたの裏に浮かんだのは美羽の笑顔だった。


彼女が誰かに利用されて壊れていく姿を見て、自分は耐え切れるだろうか。

否。

目の前の男のように、壊れてしまうだろう。


しばらくは沈黙だけが続いていた。

ボスの握り締めた拳が机をがたがたと振るわせる音だけが響いている。


――そして、その音さえも消え去った。


彼はゆっくりと上体を持ち上げて、春平を見つめた。その瞳の奥には冷たい炎が燃え盛っている。


「お前に、奪われるものの気持ちが分かるかな」


奪われるものの、気持ち。


言われても、春平には分からなかった。

自分は何も奪われたことがない。

凄烈な過去だって、自分から何かを奪ったわけではない。

……違う。あの事件のせいで、自分は大切な友達を失った。

しかしはっきりと悲しみを認識できないのは、しばらくの間その記憶を心の奥深くに閉じ込めていたからだろう。


奪われるという絶対的な恐怖は、春平の心の中のどこかにある。


だけど今は、それをしっかりと閉じ込めている。


もう二度と、自分が壊れないように。


何も答えない春平を見て、徐々にボスの顔が険しくなる。

眉間にしわが寄り、美しい顔は醜く歪んでいた。


同時に、教室の外が騒がしくなってきた。


「お前にっ! 奪われる者の気持ちが分かるものか!」


叫び声は学校の外にまで響き渡るほど凄絶だった。


そして、音楽室の扉が乱暴に開け放たれた。


「!」


驚いて背後を振り返ると、春平の頬に重たい拳が飛んできた。


鍛え上げた反射神経はそれを理解し、すぐに顔を腕で保護したのだが、足を踏ん張るほどの余裕はなく、そのまま体を吹っ飛ばされてしまった。


「――――――っ」


背中を机に撃ちつけ、神経がぴりぴりと刺激された。


すぐに次の攻撃に耐えられるようにと、痛みに絶えて立ち上がり目の前の敵と対峙する。


現れたのは下衆なにやけ面の男子生徒複数名。そして、


彼らに両腕を拘束された――


「ミミちゃん……」


あまりの驚愕に春平は仮の名前さえ忘れて彼女を呼んだ。


両腕を拘束されたミミは両脇を男子生徒に固められ、上体を折り曲げながら悔しそうな顔をしていた。


髪の毛は乱れ、口元にはガムテープを張られている。


制服は着ているものの下着が見えるほどに着崩れていて、ニーハイソックスは片方しか履いていない。よく見ると上靴がなかった。


驚きで体が硬直してしまった春平の腕を、男子生徒が捕らえる。


そして春平が転んで机が移動したスペースにミミを乱暴に放り投げた。


がつん、と音がしてミミの側頭部が机の足にぶち当たる。


「ミミちゃん!」


慌てて駆け寄ろうとしたが、男子生徒の拘束があって動けない。


「ちっ」


しかしその程度のことに怖気づくわけもない。

春平は両腕を力の限り広げると、耐え切れずに手を離した男子生徒の腕を無理やり掴みあげて、背負い投げをすると腕をまったく逆の方向に引き伸ばして拘束する。


「ぎゃあああああああああああ」


「動くなっ!」


春平が怒号を上げると、男子生徒たちもたじろいだようだ。


所詮はただの高校生。数が勝っていても、春平の迫力に圧倒されてしまったようだ。

それならば今の状況、抜け出せないわけではない。


このまま男子生徒を放り投げて、その隙にミミちゃんを抱きかかえて学校から脱出する――


「有彦は、強いのね」


そんな、いつもの冷静さを帯びた声でささやかれて、春平の心臓が凍りついた。


――違う。

 俺は、何を考えているんだ……。


このままミミちゃんと逃げて、一体何になる?


自分たちの目的は、組織を解体することだ。


逃げても、解体することはできない。


たとえばここで決定的な証拠を掴んでいたとしたら、何か違ったのかもしれない。


しかしここで自分が抵抗することで、組織解体が遠のくのではないか……?


冷や汗と共に乙名の顔が思い浮かぶ。


――組織、解体。


まるで何かの呪文のように春平の体を縛り付ける言葉。


急に力が弱まった春平の異常を察知して、男子生徒は春平の腕からするりと抜け出した。


それでも春平は動けない。


囲まれた子羊のように頼りなくなってしまった春平を見て、ボスは嬉しそうに微笑んだ。


「ねぇ有彦。実は、私、あなたのことを本当に信用しているわけではないの」


「っ」


「だってあなたは不思議な子なんですもの。どこか何かに裏があるようなニオイを持つ子だわ」


言って、ボスは平然と春平の髪の毛に触れ、匂いをかいでいた。


「でもねぇ、それって私が悪いわよね? 愛する有彦のことを信用できないなんて、最低じゃない。……だから、あなたを信用したいの。わかって?」


ボスの瞳は、それだけで人を殺せる強い力を持っている。


「この子を犯したら、信用してあげる」


「――――――」


犯す?


「犯しなさい」


言葉は鋭利さを増していく。


「お前の大切なものを奪ってやる」


狂気の言葉は、絶えず春平の心臓を抉り取る。


「――ッハ、っハッ、……っ」


正しい息の仕方さえ忘れてしまった春平は、かろうじて動く右手で自分の胸をぎゅっと握り締めた。


ミミちゃんを犯す。


そんなこと、できるわけがない。


ただでさえ春平は、そういう行為に絶対的な恐怖感を抱いている。


でも――これは、仕事。


組織の内部破壊をもくろむ春平は、ボスに怪しまれてはいけない。


――だからって、そんなことは……


助けを求めるように、倒れるミミに視線を向けて――春平の表情が凍りついた。




ミミは、真剣なまなざしで自分をにらみつけていた。




躊躇するな、と。


自分を犯せ、と。


それがだめなら、ミミは泣きながら首を振るだろう。しかし彼女はそれをしなかった。


彼女よりも仕事を優先しろ、と先輩の立場から目で訴えているのだ。




やれ。




無言の命令ほど強い訴えかけはない。


春平は窮地に立たされていた。



組織解体をもくろむ春平、絶体絶命!

無事にこの窮地から脱することはできるのか!?



前回の更新からだいぶ開いてしまったことを本当に申し訳なく思っております。


本日中にあと1話、可能なら2話更新する予定です。


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