第82話 ほんの少しの矛盾
「有彦、私のこと嫌いなの?」
昼休み、春平が机の上で睡眠をとろうとしたときに、美保が恐ろしい形相で言い寄ってきた。
「な、なんで?」
「だっていっつも春子ちゃんのことばっかり見てる」
むぅっと拗ねている表情は可愛らしい女子高生なのに、その奥に潜む陰は怖ろしく、拘束性のあるものだった。
「だからって美保のことが嫌いなわけじゃないよ」
「そりゃあ春子ちゃんは可愛いもんね」
「何が言いたいの」
「奥さんにちくっちゃうよ」
「うっ」
春平が言葉を詰まらせると、美保は楽しそうに歯を見せて笑っていた。
組織に加入して以来、サークルの活動内容を新人に教える役目として桜春子が春平の傍につくことになった。
それはもちろんサークル活動時間内の話なので別段問題はないのだが
――彼女、俺のこと知ってるな。
『便利屋さん。元特殊護衛科、の?』
2人きりで自己紹介をしたときに、彼女が強気な目を半月にゆがめてそう言ったのだ。
便利屋、ということだけなら組織のボスを音楽室に連れて来た春子のことだ、幹部としてその存在を知っている可能性も考えられる。
だけどどうして元特殊護衛科なんて情報が流れる?
どうして「元」ということが分かる?
そもそも、なぜ特殊護衛科というものが存在していることを春子は知っていたのか。
あまりの衝撃に動揺を隠せなかった春平を見て春子は笑い、
『ボスに他言するつもりはないから』
と言ってのけたのだ。
「同じ便利屋の人?」
妙安寺に無事辿り着いて夕食を終え、万と一緒にゲームをしているときだった。
春平が10戦2勝8敗を記したときに万がコントローラーを置いて呟いた。
ゲームに集中している時はめったに口を開かない万が話題を持ちかけたので、春平も万に習ってコントローラーから手を放し、向き合う。
「それは……学園長が俺たち以外にも頼んでたってこと?」
有り得なくはない。世の中に便利屋という仕事はごまんとあるのだから。
春平の言葉を聞いて万は顔をしかめ、口を尖らせた。
「でもそれじゃあ特殊護衛科なんて分かるわけないよね」
確かに。
そもそも便利屋という職業を持つ人々は「便利屋本社」の存在、そしてその店舗の存在を知らない。
便利屋という仕事がこれほどまでに大規模なことは漏えいしていないのだ。
ならば当然、特殊護衛科なんてものは知るわけがない。
「つまり――便利屋本社の子?」
「それは違うぞー」
「はっ!?」
突然背後から間延びした声が聞こえて2人同時に振り返ると、そこには無遠慮に襖に手をかけてこちらを見ている乙名がいた。
目が合うとにんまりと笑みを浮かべて、ずかずかと部屋に足を踏み入れた。
「護衛科の人間がこんなにあっさり背後とられてんじゃねぇーよーって。なー、万」
乙名は春平と万の間に座り込むと、満面の笑顔で万の頭をわしゃわしゃ撫でていた。万はまんざらでもなさそうだ。
「うるせぇな」
「で、乙名さん。それは本当ですか?」
「ん?うん、そうだよ。本社フロントナンバー2の俺が言うんだ、間違いない。俺は一度見た奴の顔と名前は絶対に忘れないから」
「へーぇ。人間って見た目じゃないんだね」
「春平は何が言いたいのかなー?」
「桜春子さんについては少し探りを入れる必要がありますね。それよりも……春平さん、ちょっと疲れてる?」
こてんとその場に横になって、万が心配そうな瞳を向けてくる。
「……何で?」
「疲れてる顔してるから」
「……っそ」
ふいと視線を逸らして、春平はテレビ画面の中でいっこうに動く気配のないキャラクターを見つめた。
この子の凄いところは、人の動きを観察できることだ。
きっと細やかな神経の持ち主なのだろう。ちょっとした変化を、万は決して見過ごさない。
春平はコントローラーを手にして、無意味に十字キーを動かしてみた。
「少しだけ」
「やっぱり。組織、大変ですか」
「そうだね……。内容が過激かな」
「学園を手玉にとろうとするような組織ですから、それ相応のことをさせて洗脳してるんでしょうね」
「春平、洗脳されんなよー」
ぺしぺし、と頭を叩いて乙名はのそのそと立ち上がると、「おやすみ」とだけ言って部屋を出て行ってしまった。
何となく気まずくなって、春平も「続きは明日にしよう」とうっすらと微笑を貼り付けて部屋を出ることにした。
放課後になると、春平は美保と一緒に第四音楽室へと向かった。
すると赤焼けが斜めに差し込む教室内に、綺麗に足を揃えて座った学生がずらりと並んでボスの到着を待っているのだった。
その中で、やはり春子の瞳だけが組織色に染まらずに光り輝いて見えた。
ここでは春平も同じ様に着席してボスの到着を待たなければならない。
かつ、かつ、かつ。
やがて甲高い足音が響き、第四教室の前で止まった。
重い沈黙が春平の体の周りにまとわりついて呼吸が苦しくなってくるほどの時間を置いて、扉がゆっくりと軋む音を立てながら開かれた。
扉に絡みつく指はなめらかで、細く、白い。
さらりと長い黒髪が頬にかかり、ボスの体が第四教室に入り込んだ。
女性のように長く美しい黒髪、細長く切れた目、そして優雅な物腰、細い体。
全体的にひ弱で陰湿なイメージのまとわり着くこの教師は紛れもなく男性であり――学園では有名かつ人気の音楽教師だった。
しかしこの場には人気とは程遠い雰囲気をかもし出し、生徒たちを物でも見るかのような目で一瞥する。
教卓に上ると、誰とも目を合わせずに虚空を睨みつけて、ボスは口を開く。
「机番号1から10はかつあげに行きましょうか。11から20は売春、適当に女か男を拾ってきなさい。報酬はあげるわ。21から30は……そうね、痴漢でも」
言われた瞬間、生徒たちは一様に立ち上がり、第四教室を出て行く。
一歩踏み出したときから、それまでの陰湿なイメージは吹っ飛び、いつものはつらつとした高校生の姿となる生徒は、いつ見ても見慣れることができなかった。
春平の座っていた机は右から数えて24番目なので、痴漢に向かうということなのだろう。とりあえず立ち上がって教室を出ようとしたとき、
「有彦」
ボスが妙に艶かしい声が春平を呼び止めた。その他複数の生徒を呼び寄せて、教室には5名が残ることとなった。
「有彦、おいで。私の可愛いボウヤ」
内心舌打ちしながらも、他の生徒の目が痛いので従うしかない。ボスに近付くと彼は細い目をさらに細めて、春平の頭を優しく撫でる。
「サークルには慣れた?」
「ほどほどに……」
「慣れていないようね。そう思って、今日は呼び止めたのよ」
ボスは春平に顔を近づけると、首筋にキスをした。体中の毛穴が粟立ち、背中に嫌な汗が滑り落ちた。
春平を大事に抱えたままボスは指をパチンとならすと、5人のうち2人の女子生徒がおもむろに制服を脱ぎ出した。
「なっ……!」
驚愕の声を春平があげることも気にせずに、残り3人の男子生徒は女子生徒に近付き始める。
唐突に訪れる、吐き気。
春平がほとんど無意識に口を押さえて目を逸らすと、その首をボスが固定した。
「目を逸らしちゃ駄目よ。ちゃんと見て」
「は、はい……っ」
「あの5人が何をしているのか、見て」
凄みのある声で命令されて、春平は目の前を見つめる。
奇妙に混ざり合う5人を見ていると、全身から汗が吹き出した。なのに寒気が収まらない。
そんな春平の態度を見てボスが楽しそうに顔をゆがめているのを見ると、その顔に吐しゃ物をぶちまけたくなる。
こんな汚い手を使って、生徒たちを拘束し洗脳していたのかと思うと、怒りがこみ上げる。
この学園はエスカレーター式で中学生も存在している。
まだ精神が発達していない中学生のときにこの光景を見せ付けられてみろ。それも、生徒に人気で信頼も置ける音楽教師に強制されて、だ。
すぐに精神が崩壊して彼に従わずにはいられなくなる。
洗脳が開始される。
――本当に、こんな組織を解体できるのか?
拘束されている生徒を解放するどころの話じゃない。
絶対の存在だったボスがいなくなり散り散りになった生徒たちは、その先どのようにして闇を抱えていくのだろうか。
この子たち全員の目を覚ますことができるのだろうか。
染み付いてしまったこの洗脳を。
――解体、するべきなのか?
便利屋として雇われている身で、決して考えてはいけない考えが脳裏に浮かんだ。
自分はただ、言われたままに組織を解体すればいいだけの話なのだ。
一介の便利屋風情がそんな大それたことを考える必要はないのだ。いや、考えてはいけないのだ。
だけど、あまりにも――不憫だった。
電車に乗ること数十分。
背後から美保が追跡してこないのを確認して重い足取りで妙安寺へと帰った。
ミミは学園の友人と遊びに行っているらしい。
万は帰ってきたきり部屋にこもりっぱなしで一度も顔を見せていない。扉には「開けるな声をかけるな」と書きなぐられた紙が貼られていた。
部屋に戻って一人になると気が参ってしまいそうになるので、春平は今に向かった。
「おかえり春平」
「よぉーす、春平」
「ただいま」
一仕事終えたであろう井上がいつも通りの優しく柔らかな表情で春平を迎え入れた。
夕食の準備をしている井上の横で乙名は冷蔵庫をあさり、ペットボトルのジュースを取り出すとテーブルの上においてあったポテトチップスももって、落とさないように慌ててテレビの前を陣取った。
その様子を呆然と見つめていると、ふいに乙名が振り返り「座ればー」と隣に座ることをうながしてきた。
言われた通り座り、しばらくはテレビを見つめていた。
男女がたわいないことで喧嘩を初め、お互い泣きながら別れを告げる。
ちらりと乙名の横顔を窺うと、乙名は春平に目もくれずにテレビ画面に食らい着いている。
背後では井上が忙しそうに夕食の準備をしている音が聞こえる。ほんのりと香ばしい香りが漂ってくる。
世界は何ひとつ変わっていない。
春平がめげようが、学園の生徒が傷付きようが人々を気付けようが、何ひとつ影響しない。
乙名はテレビを見つめ、井上は夕食を作る。
ミミはおしゃれに勤しみ、万はひきこもってゲームをする。
――世界に置いていかれたような気分になった。
自分の周りには何もなく、薄い膜の向こう側で世界は回っているような錯覚が起こった。
「春平っ!」
突然乙名に声をかけれて我に返る。
乙名が自分の肩に手をかけて、必死の形相で自分を見ていた。
「あ……」
どうやら気付かないうちに髪の毛をかきむしっていたようだ。
一度深呼吸してから手を膝の上に置き、「ごめん」とだけ呟いた。
すると乙名は困ったように眉をへの字に曲げてしまった。
「俺に謝んなくてもいいんだよ」
「うん……」
「あんまり気分がよくないみたいだな。嫌なこと思い出した?」
「大丈夫、まだ、大丈夫」
そう自分に言い聞かせた。逃げずに乗り越えるって決めたじゃないか。
心臓は走り続けている。鼓動が胸を上下させ、思考を鈍らせる。
そんな中でも乙名は決して春平から目を離さずに、必死に言い聞かせていた。
「いいか?ここには俺もいるし、井上さんもいるからな?不安だったら、咲ちゃんを呼んでもいい。寺門さんにだって連絡が取れる。もう、離れ離れでも何でもないんだよ。一緒に生活していないだけで、今はいつだって会えるんだよ」
「分かった、分かったから。大丈夫。忙しいのに、そんなこと頼めない。それに俺はもう大人だ……」
「かっこつけんなよ、青い顔しちゃって」
「うるさい」
乱暴に乙名の手を振り払うと、唐突に眩暈が起きた。
悔しいが、その体を乙名が支える。
異変に気付いた井上も春平のもとに駆けつけて、ゆっくりとその場に寝かしつけた。
井上が毛布を取りに向かっている間、乙名は何度も春平に深呼吸するように促した。
眠りにつく直前まで「大丈夫」と語りかけ続ける。
「俺もいる。井上さんもいる。誰も、春平のところからいなくならないから。安心して眠れ。ちょっと疲れただけだ、一眠りしたから、またいつもの春平に戻れるさ。それまで、ゆっくりと寝るんだよ――春平くん」
いつもは呼び捨てにする乙名が優しい声で「春平くん」と呟いた途端に心のどこかにあったもやもやが消え去り、安心が春平を包み込んだ。
同時に呼吸が深くなり、次第に眠気が襲ってくる。
部屋の外が騒々しいので何か事件でも起きたかと思っていたのだが、万は決して部屋から出ない。
それどころではなかった。
大枚はたいて買ったパソコンに向き直って、万は目にも留まらぬ速さでキーボードを叩き続けていた。
画面には目を覆いたくなるようなほどの数字の羅列。
幾重にも連なる美しい長方形の箱の中に並ぶ均整のとれた数字を見て、万は自身の目を疑った。
「――有り得ない」
本社にいたころは2階――金融金利科に所属していた。
だから見たくもない数字を見るのには慣れていたし、計算の狂った数字を手作業でなおさなければならない苦痛も知っていた。
だけど、これはあまりにも綿密。
「金の行き先が、分からない」
学園の決算報告を見せてほしいと万が学園長に頼み込んでも決して見せてくれなかったので、裏ルートを辿って手に入れた報告。その確認をしていたのだが、
そこには行き先の分からない莫大な金が存在していた。
しかも、行き先不明の金の存在すら存在していないように見せる綿密な工作が施されている。
つまり表面上は何の矛盾も存在しないということだ。
なぜそんなことが起きている?
便利屋としての直感が脳裏に浮かび上がり、同時に額に嫌な汗がにじみ出た。
学園長は、自分たちを裏切っているのかもしれない――
昨日は慌ただしく更新ができませんでしたので、携帯から失礼します\(__)
さて。
ほんの少し、色々ところに矛盾が生じてきています。
果たして解体すべきなのかという春平の気持ち。
妙に優しい乙名。
そして最大の矛盾は――決算報告で綿密に隠された謎の金。
万の脳裏をよぎる疑問。
次回、学園の本当の望みは何なのか、徐々に明らかに!