第70話 漫画のヒーロー
ドアを開けると、壁一面のガラス張り窓があり、それを背にするように1人の老人が座っていた。
そしてその老人と対峙するように、入り口に背中を向けて立っている久遠の姿があった。
二人とも、入ってきた春平には見向きもしない。
「――久遠っ!」
「……春平?」
唖然とした表情で振り返る久遠を見て、春平は安心して中に入る。
堂々と入ってくる春平とは対照的に、久遠はポカンと口を開けているだけだった。
「ちょっ――あんた一体どういうつもり!?SPも、どうしてこんな一社員を社長室になんか通すのよ!」
「お前と同じ用だとでも思ったのだろうな」
社長が呆れたようなため息まじりに呟いた。
この会社に勤めてから4年。
春平は初めて社長の顔を見た。
春平をまるで自分の子供のように育ててくれた寺門さんが、かつて少年時代に世話になった店長。その人が尊敬してやまなかったのが、今春平の目の前にいる社長だそうだ。
禿げてしまった髪の毛。おそらく、中途半端に残すくらいなら、と坊主にしたのだろう。
なのに髭はしっかりと蓄えている、細くて弱々しい老人。
この人間が会社の頂点に君臨し、自分たち社員の命を弄んでいる。
ふいに、社長と目が合った。
普段ならすぐに目を逸らしてしまうだろうが、今は違う。
むしろ社長を睨み付けるように強い視線を送っていた。
「で、君は一体何の用だね正田春平くん」
その春平の視線を受けても嫌な顔ひとつせずに、むしろ面倒くさそうに社長が言う。
それを見た春平のほうがムッとして、大きく息を吸い、ピタリと止めた。
「――便利屋本社社長に物申す!」
――瞬間、ピリッとした空気を肌で感じた。まるで春平が初めて3階にやって来た時に感じたような、威圧感のある空気だ。
それを感じて久遠は押し黙る。
春平はなんとか堪えて言葉を紡いだ。
「3階の――特殊護衛科の紛争地介入を、今回をもって廃止していただきたい」
今回。つまりそれは久遠を中東には連れていくな、ということ。
「この仕事で厄介な社員を消そうとしている魂胆は分かっています。我々が退職して、法に触れることを口外されるのを恐れているというのも知っています。だけどその社長の行動を、私は間違っていると思います。即刻廃止してください」
社長は肘を机につき、両手を組みながら、終始春平を食い入るように見つめていた。
そして、おもむろに口を開いた。
「――それで、君はそれのために活動でもしたのかな」
「いいえ」
春平がきっぱり言うと、社長は
「無駄な時間をくった」とでも言うように壮大なため息をついて春平から視線を逸らした。
「話にならん。署名活動などの何らかの結果を提示されると思っていたが、全くもってくだらん。だから何だと言うんだ。子供がだだをこねているレベルの会話だ」
怒るわけではなく、本当に呆れてしまったように社長は天を仰ぐと、机の上の資料に目を遠し始めた。まるで春平には興味がない、といったように。
そんな態度をとられてはさすがに腹が立つのか、春平は久遠の横を通り抜けてツカツカと社長の前に歩み出て、机を両手で思いっきり叩きつけた。
「自分の娘なのに何とも思わないんですか」
「娘だからという私情を仕事に挟むつもりはない」
「だけど私情で先生を紛争地に行かせたのもあんただ」
この言葉に、書類を見つめていた視線を上げて、春平を睨み付けた。
もともと社長は久遠を特殊護衛科に配属するつもりで養女にし、久遠が依存していた先生の存在が邪魔になっただけで先生を紛争地に向かわせた。
「あんたにだけは私情がどうこうなんて言われたくないね」
「――これがお前の育てている新人なのか、久遠」
「えっ!?……はい、そうです。あ――新人が大変失礼を致しました」
最初こそ名前を呼ばれて戸惑った久遠だったが、すぐに姿勢を正して深々と頭を下げた。
「久遠が謝ることなんかねぇよ」
春平が半ば苛立たしげに言うと、久遠は頭を下げたまま強い視線だけを向けてきた。
「あんた、社会というものの構造をまるで分かってないんだね」
「その通りだ。やはり能力があっても所詮はハタチの若造か、何一つ分かってなどいないようだな」
「――あんたは何か分かってるって言うのかよ」
「春平!」
「権力に物言わせて自分の都合のいいように社員の命を駒みたいに使うのが社会のルールなのか?俺はただ紛争地に行くことを中止してくれって頼んでるだけなんだよ!そんなの、お互いに何のメリットもないだろ!?紛争地な行くのだってタダじゃないだろうし、その仕事のせいでさらにこの会社の隠し事が増えるだけだ!いい加減、馬鹿らしいとは思いませんか!」
久遠が止めるのも聞かずに春平が弾丸のように吐露している様子を、社長は呆れ顔でため息をつきながら見ていた。
「――人にものを頼む態度ではないな」
「お金で解決するなら、全財産かけます」
「足りん」
そう断ってから、社長は何かを思い付いたかのようにニヤニヤと笑いだした。
「正田、久遠が好きなのか?」
「――好きです」
それは仲間としてだが、そこまであえて言う必要はないだろう。どちらにしろ、久遠のことが好きなのにはかわりない。
「ふむ。……それでは正田は久遠を助けるために紛争地介入を廃止しろ、と頼み込んでいるのだな」
何を今さら、と心の中でイラつきながらも、なるべく平静を装って春平は頷いた。
すると社長はさらに悪戯っぽく顔を歪め、続けた。
「それでは、久遠ひとりを助けることができたら、他の人間がどうなろうといい、ということか?」
「そんなことは言ってません。特殊護衛科への扱いについて言っているんです」
「――馬鹿だな、お前は」
こんな真面目なシーンで正面きって本当のことを言われてカチンときながら、春平は拳をぷるぷる震わせて耐えた。
「ここが何の会社か分かっているんだろうな。便利屋だ、便利屋。誰かが私たちに仕事を求めるからこそ、この職があるんだ――紛争地介入とて決して例外ではない。求められているから社員を派遣するまでだ。私の独断だけの仕事だと思ったら大間違いだ」
「でも確かにあなたの意思もある」
「もちろんだとも。アロエで習わなかったのか?まさか正田は言われた仕事全てを引き受けるのがポリシーだったとでも?もしそうならとんでもない。我々便利屋だって、仕事を断る権利がある。正田も、少なからず断ったことはあるだろう。例えば庭の清掃を頼まれたが、犬の散歩と時間が重なってるから断る。これだってお前の意思だろう?犬の散歩ひとつにしてもこうだ。立派なご都合主義だ。――だから私もご都合主義をしている。紛争地介入が私にとっても都合がいい。だからほとんど無料でこの仕事を引き受けている。求めている人のために働く、これの何が悪いとお前は言う?」
「…………」
何も言えなかった。
社長の言っていることはまさに極論だ。若干20年しか生きていない春平が抗えるわけがない。
「分かるか?護衛科の仕事を変更などできない。気に食わないなら初日からアロエ支社に戻るべきだったんだよ、お前は。久遠たちとて馬鹿ではない。詳しくは言わなくとも、覚悟をしておけとしつこく言っただろう?」
これで3回目だった。気に食わないなら本社にこなければいいと言われたのは。
そのどれもが正論だった。
確かに久遠や清住、右京は自分たちにおいての社長、命綱など、真剣に教えてくれた。
だけどそこでアロエに戻ろうなんてのは一切考えなかった。
――それはつまり、この会社のルールに乗っ取って働くという暗黙の意思。
なのに身近な人間が死ぬというのを知った瞬間に頭の中で何かが弾け飛んだ。
こんないち社員が今までの制度を変えられるわけなんてないのに。
自分は、ワガママなだけなのか?
言葉を失い呆然と突っ立っているだけの春平を見て、社長は嬉しそうに微笑んだ。
「しかし私も鬼じゃない。正田がどうしてもと言うなら、不可能なわけじゃない」
突然の発言にパッと顔を上げて目を輝かせている春平に、社長は続ける。
その微笑みは、悪魔の微笑みそのものだった。
「久遠の代わりに正田が紛争地介入。これで久遠の仕事は免除してやる。どうだ、悪い話じゃないだろう?」
全身の血が凍った。
久遠の代わりに春平が死ねと社長は言った。
久遠はまさかの発言に口を押さえて硬直している。
――しかし、迷うことなどひとつもない。
「――――――」
春平は何も言わない。
それが、春平の答え。
社長はその穏和な表情を憤怒に歪めて、目の前の資料を乱暴に払い落とした。
「仲間の命ひとつも助けられない我が身恋しい若造の頼みなど誰が聞くと思うか!去れ、目障りだ!」
資料を投げつけられても春平は微動だにしない。そんな春平を久遠が無理矢理引っ張って社長室を後にした。
答えは簡単だった。
自分の命は捨てられない。
結局、我が身が一番だった。
エレベーターの中で久遠は棒立ちしている春平を強く抱き締めた。
「偉いよ。よく社長の口車に乗って了承しなかったね」
抱き締めながら、久遠は何度も春平の頭を撫でる。
「――違うんだ、久遠」
俺はただ自分が大切なだけだったんだ。
久遠を助けるなんて偉そうに言っておきながら、結局俺にそんな資格がないだけだったんだ。
答えは一瞬で決まったんだ。
本当はあそこで断言すべきだった。久遠の代わりに命を捨てると。
出来すぎた漫画のヒーローみたいに、かっこよく決められたらよかったんだ。
春平は静かに涙を流した。
「――ごめん」
ヒーローになれなくて、ごめん。
人間、そう簡単に自分の命をかけることなんてできませんよね。
そういう意味でも、春平をリアリティのある人間として描きたいと思いました。
さて、次回は新たな依頼が舞い込んできます。
すっかり気落ちしてしまった春平。どうなりますかねぇ……