第64話 答えはすぐ横に
春平は右京が何者なのか思い出していた。
仲間であること、同じ依頼をこなしていたこと。
右京が、自分に何を言ったのかも。
だけど話を聞くことに真剣になっていて、この時はすっかり自分のことを忘れていた。
右京はダムから視線をはなすと、春平を見つめた。
憂いをこめた瞳で。
「僕は結局、残されたアクリルのことなんて少しも考えていなかった。ただ自分だけが可哀想だって、勘違いしていたんだ」
パステルを失い、そばにいてくれると信じていた右京さえも離れ、村人たちが兄を非難し、さらに右京の笑顔を向けられなくなって、どんなに辛い思いをしていたのだろうか。
自分は部外者だと、どんなに自分を追い詰めただろうか。
右京の頬に、ゆっくりと涙が伝い落ちる。
「アクリルのことを、愛してるのに」
大切なのに。
なのに、自分は何一つアクリルを思ってなどいなかった。
それが悔しくて、情けなくて――
涙が止まらなかった。
そんな右京の様子を見て、春平は子供をあやすように優しく頭を撫でた。
ただ何も言わずに、右京の答えを待った。
だからこれから、右京はどうするべきなのか。
それは右京が考えて出すべきだ。
「う、右京……?」
突然茂みから声が聞こえた。
そこには遠慮がちに立ち尽くすアクリルの姿があった。
右京は乱暴に涙を拭いてアクリルを手招きする。
近づくなと言われていたのに、簡単に近づいても大丈夫なのだろうか、とアクリルがオロオロしながら歩みよる。
すると右京はアクリルの手を引っ張った。
「えっ」
アクリルが瞠目している間に、彼女は右京に引き寄せられて、気付けば右京の両手の中に体をおさめていた。
かたく抱きしめる右京の両手が緩められることはない。
吐き気を催している様子もない。
「……右京」
「もう怖がらない」
かたく決心した言葉が耳元で響く。
「僕が帰りつく愛しい人は、僕のすぐ目の前にいました」
その言葉が自分に投げ掛けられたものだと理解して、春平は右京と出会った時のことを思い出した。
依頼で死ねない、と思うために、彼女のひとりでもつくれと久遠に言われた話を思い出す。
その時右京は
「帰りつく愛しい人はいない」と言っていたのだ。
「もう見失いたくない。悲しませたくない」
見開かれたアクリルの目から、涙が溢れる。
「自分の過去に怯えて、目の前の大切なものが見えなくなるなんて馬鹿げてる」
その言葉が春平に突き刺さる。
春平も自分の過去に怯えて目の前の大切なものが見えなくなっていた。
自分が可哀想だという考えしかなかったのかもしれない。
自分を好きだと言う人を無下に扱っていたかもしれない。
右京はこのことを春平に伝えたかったのだ。
過去にしばられて今を台無しにしないように――
春平の目が霞んで空を見上げた。
森の木々の向こうに、青い空が延々と続いていた。
右京はアクリルを離し、ダムを見つめた。
太陽が昇り、ダムを美しく輝かせていた。
眩しそうに目を細め、右京が微笑んだ。
恥ずかしそうに、口元を優しくつりあげて。
「僕も、もとに戻れるかな」
ダムの底から返事はこない。
だけど、待ち望んでいた答えは、右京のすぐ横にあった。
アクリルもまた恥ずかしそうに笑った。
「戻れるよ、絶対」
なぜか今日はダムが眩しかった。
帰りの新幹線の中で、春平は出口のところに立ち尽くしていた。
その手には携帯を握りしめて。
新幹線に乗ってから、春平はすぐに電話をかけようと決めていた人がいる。
自分を好きだと言ってくれた人。
ふいに、彼女の声が聞きたくなったのだ。
『もしもし!』
電話ごしに、嬉しそうな声が聞こえる。
それに思わず春平は苦笑した。
「久しぶり美羽ちゃん。元気だった?」
「今なら言える。愛してるよ、美羽」
「あぁ、春平くんっ」
がしー!
そんな小芝居を見せつけられて、春平の顔が真っ赤になる。
うつむく春平を見て、抱き合う久遠と清住は不思議そうな視線を向ける。
「なぁに、本気で言ったの?」
「言うわけねぇだろ」
近づいてくる久遠から視線をそらす春平。
そんな二人を見て、右京は嬉しそうに微笑んでいた。
「楽しそうだな」
「えぇ」
清住が話しかけてきても笑顔で答える右京。
そんな変化を目の当たりにして、清住は優しく目を細め、右京の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
春平と右京が本社に戻ると、心配そうな顔をした二人が3階のエレベーター前で待っていた。
その不安を払拭するように、右京は嬉しそうに両手を広げて二人に抱きついた。
それがよほど嬉しかったのか、久遠はもう逃がすまいと右京を強く抱き締めていた。
それを思い出して、清住はそっと笑う。
最後に、良い思い出ができてよかった。
「先生って誰?」
右京は小さく首を傾げていた。
春平が久遠に視線を向けると、久遠はあからさまに目を逸らす。
それをいぶかしんで、春平はジトッと久遠を見つめる。
つい先刻、右京と春平は覚悟を決めたのを知ると、久遠はため息まじりに何気に呟いたのだった。
「早とちりで先生のところに行く必要なかったわね」
清住はじーっと久遠を見つめ、同時に春平と右京も久遠を見つめる。
「誰?」
言いづらそうな久遠を横において、清住が代わりに口を開いた。
「先生は先生なんだよ」
「いや、全然意味が通じてこないんだけど。何の先生なわけ?」
「いや、だから先生は先生なんだって。あえて言うなら――俺たち3階の、特殊護衛科の先生、かな」
春平は眉を潜めた。
そんな便利屋のことを学べる先生がいるならもっと早く教えろというものだ。
そんな春平の視線に気付いたのか、清住は苦笑する。
「先生だからって色々な技術を教えてくれるわけじゃないよ。あの人は俺たちの手の届かないところにいる、心の先生みたいな感じだから。先生っていうのは、尊敬の念を込めて呼んでるだけだよ、ねぇ、久遠さん?」
悪戯っぽい笑顔で突然矛先を久遠に向ける清住。
久遠は一瞬肩を震わせ、きっと清住を睨んだ。
その行動に違和感を覚えて、春平と右京は頭の上に疑問符を浮かべながら見つめ合っていた。
「久遠は何かその先生と関係があんの?」
「えー、と、うん。そうだよなぁ久遠」
あくまでシラを切ろうとする清住に春平は食らいつく。
「仲間の中で嘘ついたりすんなよ。隠し事するな、までとは言わないけどさ」
意外な言葉だったのか、清住は口をポカンと開けている。
しかしすぐに嬉しそうに春平と右京の頭をかいぐりかいぐりと撫でる。
まるで自分の子供のように。
「よーしよしよし」
「分かったからやめろって」
「あのね、今回の件で別に君たちに嘘や隠し事をするつもりはないから安心して。むしろ会わせてあげるから、先生に」
「なんでですか?」
右京の言葉はもっともだ。
そもそも会いたいと言ったわけでもないのに。
「ほんとに大人の身勝手な判断で申し訳ないのですが……君たちを先生に治してもらおうと思ってたわけよ」
「――あぁ」
なるほど。
ダム調査に行って解決したが、清住と久遠は本気で春平と右京のことを心配していたのだろう。
だからその先生に暗示でも何でもかけてもらって、事件のことは忘れさせる、という計画だったのだろう。
「お前たちが帰ってきたらすぐに連れていくって約束してたから、とにかく顔合わせはしとかなきゃな」
そうして、4人はとある病室へと向かった。
約1名、膨れっ面をしながら。
右京編、終了しました。
きっと完全に嫌な過去を忘れたわけではないでしょう。だけど、そればかりを気にして前がかすんで見えないように、ほんの少しだけ勇気を貰った春平でした。
さて、右京編の途中で久遠と清住が話していた「先生」が今回、春平と右京の耳にも触れます。
そして次回、先生と初対面!
久遠編、スタートです!