第57話 破綻
右京が破綻した。
春平には何の問題もなく接しているが、清住を見るとふるふると震えていた。
そして、久遠には近づかなくなった。久遠が話しかけて肩でも叩けば、右京は激しく嘔吐していた。
久遠からしてみれば、何でマフィアの護衛をしてからこんなに自分を嫌悪するようになってしまったのか、という気分だったので、一連の流れを久遠に説明した。
するとあからさまに顔をしかめた久遠は、厳しい口調で言った。
「右京をしばらく病院に入れよう。少し独りの時間がないと、駄目かもしれない」
かといってマンションで謹慎させたとしても、独りの時間が多すぎて考え込み悩んでしまうかもしれない。
まさか。
と嫌な予感がした。
春彦が連れてきた美女2人組に弄ばれたのは誰だったか。
清住なら別段心配しないし、問題もないと思っている。
だけど、右京ならどうなのだろうか?
右京は16になったばかりで、今まで一緒にいて思ったが、純粋な少年だと思う。
そんな少年が無理矢理暴行される。
どんな気持ちでそれに耐えたのか。どんな気持ちで助けを求めたのだろうか。
――フッと。
突然の既視感に襲われた。
いたいけな少年が、暴行される。
春平がその場に倒れ込んだ。
久遠が叫んでいるが、その声が遠く感じる。
気付いたら、春平はその場で嘔吐していた。
「あの2人、しばらくは入院させる?」
とりあえず春平と右京を本社の病院で寝かせてから、清住は久遠に日替りランチをおごり、話しかける。
清住の言葉が気に食わなかったのか、久遠は乱暴に箸を置くと、やはり厳しい口調で言った。
「右京はともかく、春平は突発的にフラッシュバックして混乱しただけ。彼のためにも、ここは働かせるべきね」
その言葉に清住が小さく頷く。
「確かに春平のは治りかけていると言っても過言じゃないからな。現に普通に生活してるわけだし。この前なんか美羽ちゃんといい感じにもなってたからな」
「バカ。春平のは治りかけているっていうより、完全に忘れかけている、ってことでしょう!?」
「ん、成る程」
あくまで楽観的な清住に、久遠は小さくため息をついた。
そしていつも最悪な状況の時に依頼を持ってくる社長を激しく憎んだ。
この依頼をこの状況でこなすには、どうしても春平と右京じゃなきゃ駄目だったからだ。
病院のベッドの上から天井を眺めていると、意識が朦朧としてきた。
はっきりするより朦朧とした方がありがたい。だって、余計な思考を働かせなくてすむから。
横のベッドを見ると、毛布にくるまって震えている右京の姿があった。
それを見て、何となく嫌な予感がした。
右京がこのまま大人になってしまうのかと思うと、心配だった。
こういう性的虐待は後遺症として残りやすい。
そしてそれは何らかのきっかけで精神を崩壊させる。激しい嘔吐にみまわれたり、悪夢に襲われて悲鳴を上げ、夜も眠れず食欲もわかず衰弱する。
こんな症状が表れる、いわゆるPTSDと呼ばれる精神疾患。
春平は息をのんだ。
そうなったら治せるのだろうか?
そういった病気に特に詳しい知識を持っているわけでもないが、
きっとトラウマを克服する、なんてことは口で言うほど簡単じゃない。
たとえ右京をここに置いて心の整理をさせようと考えたって、一体何を整理しろというのか。
整理してみよう。
自分は牧春彦の護衛を任され、取り引きが始まる前に、お客さんの相手をしてほしいと言われた。
で、相手って、何の相手?
こんなことを繰り返し考えて、現状がよくなるわけがない。
それどころか自分を追い詰めてさらに悪化しそうだ。
忘れさせる、しかないかなぁ……。
何らかのきっかけが、いつどこで現れるかは分からない。
そうして恐れるくらいなら、いっそのこと忘れてしまった方がいいのではないだろうか?
そう、忘れる――
病室の扉が開いた音を聞いて、春平はハッと扉側にいる右京を見た。
やってきたのは清住だ。久遠の姿はない。
その手には一枚の書類が握られていた。
嫌な予感がする。
「清住、それってもしかして依頼?」
清住はゆっくりと頷いた。
「右京の」
厳しいながらも無表情で言う清住に、春平があからさまに嫌な表情をする。
「今右京がどんな状況かは分かってるだろ。なのになんで右京なんだよ」
「右京以外にこの仕事はありえないからだ」
「そんなもの……」
「来てまもないお前にはまだ分からないだろうけど、これは右京にしかありえない仕事だ」
それは春平を否定しているようにも聞こえ、春平が顔をしかめる。
すると清住はそれに気付いたのか、優しく微笑んで春平の頭を撫でる。
「変な顔してんなよ。……この仕事は、右京がここにいる理由になる大切な仕事なんだ。普段は俺か久遠、暇な奴が同行してるんだけど今回はお前で決定だな」
確かに、右京にとって清住は自分と同じことを経験した汚らわしい人間で、久遠は問題外だ。
それなら春平以外に適任はいないだろう。
「ん、いいけど、あんまり保障は出来ないよ」
なにせ、右京がこんな状況なのだから。
いつ春平に拒否反応を起こすか分からない。だから、最後まで依頼をこなすという保障は出来ない、と春平は言ったのだ。
「分かってる。そもそも、そんなに時間がかかるめんどくさい依頼でもないから」
そうして春平に資料を見せる。
「これがある意味で右京の心を癒してくれるのを願ってるよ」
春平には、清住の言っていることが分からなかった。
新幹線に乗ると、右京はけろりとしていた。
「目的地までかなりありますよ。お弁当買います?」
「じゃあ」
と弁当を数個手に取る。
横では右京がお菓子だの何だのと買い漁っていた。
いたって普通。
おばさんと手が触れあってもさしたる問題はなさそうだ。
恐らく、20代から30代の若い女性が彼女を思い出させるのだろう。
新幹線に乗り込んで、右京に話しかける。
「今回行くところってダムでしょ?」
「はい」
「いくら便利屋でも、3階の人間は特殊なんだろ?それなのにダムの調査とかに行っちゃうんだな」
春平が投げやりに言うと、右京は少し苦笑まじりに言った。
「そこは、僕の故郷なんです。故郷と言っても赤ちゃんの時と、ほんの2〜3年お世話になっただけですけど」
その言葉に、春平はあからさまに嬉しそうな態度を見せた。
清住の言っていたことが理解できたからだ。
きっと故郷は、右京が癒えるのを手伝ってくれると信じたからだ。
――唐突に、思い出した。
右京は以前、ふるさとはダムの底に沈んだと言ってなかっただろうか。
そしてふるさとと一緒に本当の笑顔を沈めてきたとも。
詳しいことは分からない。
分からないけど、あまりいい兆候が見える気がしない。
そしてやっぱりそんな所だから、右京は行きたくないんじゃないか、と。
「――――……」
春平は右京に手を伸ばして、すぐに引いた。
こんなことは、聞かない方がいいと判断したのだ。
目的地に降り立った。
広々としたダム。
沈められた町の住民はすぐ近くの町に引っ越してひっそりと暮らしているらしい。
そのダムの施設の中には、管理者と思われる社員が数名いた。
まさかこんなおおっぴらに本社がダムを建設したのだろうかと息を呑む。
この社員が政府に通じているのでは。
しかしその不安はすぐにかき消された。
社員は全員、本社がここで働くように命じた社員なのだ。
政府には、この会社がダム建設をしたことにしている。
……今更ながら、あの本社にダム1つ建設するほどの経済力があるのに身震いした。
「それじゃあ、ダムの水質調査に行きましょう」
右京に腕を引っ張られて外へ出る。
右京は半ば春平を引きずるように急ぎ足だ。
「う、右京。なんでそんなに急いでるのさ」
右京は何も答えない。しかし後ろからついてきた社員が代わりに答えてくれた。
「急がないと、大変な目に会うかもしれないからな」
「?」
到着してダムの目の前に立った瞬間、その言葉の意味が理解できた。
ヒュンッ――、と。
何か小さな硬い物が飛行してくる。それはそのまま春平のこめかみを直撃して、春平はその場に崩れる。
「――くっ……!」
とりあえず地面に手をつく形になったが、春平はズキンズキンと痛むこめかみに手をやって、出血しているのを見て逆上した。
投げ付けられたのは、直系4センチほどの石。
それをこんな速度で投げ付けたら、当たり所から悪かったら病院行きになることだってある。
そう思っている瞬間にも、石やら木の枝やらは投げられてくる。
「この野郎!」
「よくものうのうとここにやって来れるもんだ!」
そんな罵倒が聞こえて、春平は瞠目した。
目の前にいる右京は、投げ付けられる石を避けることもしないで、真剣な眼差しでダムの底を見つめていた。
頭に、腕に、全身に飛来してくるモノ。それは右京の瞼の上を通過して、バッ!と鮮血が吹きだしていた。
「右京!」
立ち上がって右京を庇おうとした春平だが、次の瞬間には天と地が逆さまになっていた。そして背中に激痛が走り、くらくらする頭で目の前を見る。
そこには、おそらく自分に技を仕掛けたであろう右京が、無表情でこちらを見下ろしていた。
「黙ってしゃがみこんで社員の方々と水質調査をするんです」
それは恐ろしく冷たい警告。
「でも右京は」
「僕はいいんです。これは、僕だけが受けるべき制裁ですから」
右京の言葉には優しさが込められていた。
――何で?
何で右京が、こんな目に合わなければいけない?右京はただ、ダムの水質調査に来ただけだ。
「やめろ―――――――!!」
気付いた時には、春平は立ち上がって声を張り上げていた。
こちら側の抵抗に、石を投げ付けていた数名はビクッと体を強張らせたが、すぐに物を投げ付ける。
「何がやめろだ!そうやって言った俺たちの言葉も、お前らは無視したんだろうが!」
「それなのに自分たちがやめろって言った時だけ言うとおりになると思ったら大間違いだよ!虫が良すぎるってもんだ!」
そうして春平にも石が投げ付けられる。
「あっ」
その石は春平のアゴ先を直撃し、その打撃は春平を脳震盪へと直結させる。
「――春平さん!」
そのまま後頭部をコンクリートの地面に叩きつけるすんでのところで、右京が身投げして春平の体を支える。
摩擦で右京のスーツに穴が開いた。
薄れ行く意識の中で、春平は社員たちが「いい加減にしろ!」と怒号で人々を追い払っているのを聞いた。
右京は、自分を庇うように抱きかかえている。
その右京に手を伸ばそうとしたが、意識が遠のいてうまく出来ない。
お前が、俺を庇う必要なんかないんだから。
お前はお前を庇えよ。
なんで自分の故郷でこんな目に合う必要があるんだよ――……。
随分と遅くなりました。
今回も1編分全部執筆してからの投稿となりました。
右京編ということで、ダムの水質調査にやってまいりました。故郷で療養、なんて簡単にはいかないのですね。むしろ故郷に行ってさらに心も体も傷ついてくる。
そんな中でも、やっぱり右京が落ち着ける場所というものがあるのですが、現在の右京にとっては……
次回右京編2話、ご期待ください^^