第37話 共に生きよう
『本社についたら連絡しなさいって言ったでしょう!時間なかったの?』
自分を心から心配してくれる女性の少々ヒステリックな声を聞いて、春平はようやく安心と落ち着きを実感していた。
「大丈夫、時間はあったけど余裕がなかっただけなんだ。ごめんね、美浜さん」
心から、嬉しいと思った。
『大丈夫ならいいんだけど……。仕事終わったでしょ?どこから電話してるの?』
「本社の休憩所。3階の休憩所は割と広くていいんだ」
美浜には3階がどのような所かは言っていない。
しかし恐らくは寺門を通じて知っているだろう。
『これから帰るの?』
「うん。本社の近くに、社員専用のマンションがあるらしいから」
『へえ〜、流石ねえ』
感心する美浜の声の向こう側から、小さな「ただいま」の声が聞こえてきた。
『あ、寺門さん帰ってきた。今変わるね』
美浜がそう言うと、有無を言わせずに寺門に変わった。
『……どうだ3階は』
苦笑まじりの案じる声が聞こえてきて、春平も思わず苦笑いをしてしまう。
「難しいけど、面白い」
寺門の言葉はない。
恐らくは、自分が昔美浜の依頼を引き受けた時に言った言葉と同じ言葉を聞いて、驚いているのだろう。
あの「親子」というものに遭遇した時の、何とも言えない感動。
『悪いが孝太と河越くんは居ないんだ』
「いいよ。いつでも連絡はとれる」
ふぅ、と小さくため息をつくと、寺門は楽しそうに笑いを洩らした。
『緊張の糸は切れたか?』
その言葉に春平は目を丸くした。
どうやら寺門には何でもお見通しのようだ。
それが、今の春平にはなおのこと嬉しい。
「……もう用事がある時以外は連絡しないね」
『……そうだな』
「あ、の、」
春平は一瞬躊躇して顔を赤くした。
「あ、あ、ありがとッ」
そう言って電話を切った。
赤くなった顔を押さえて春平は3階を見回した。
俺はこれから、ここの仲間と生きていく。
寺門は唐突に切られた電話に驚きつつも、恥ずかしさを隠している我が子のような春平に嬉しさも感じていた。
そこが、お前の道なんだな。
社員専用のマンションには右京も住んでいるとの話だった。
久遠と清住はここの近辺に家を構えていたりするので住んでいないようだ。
よく考えれば20代の人間が家を構えてしまいというのは、信じられないを通り越して感動してしまう。
「そんだけ儲けてるってけとだよなぁ」
1人呟いて、自分の部屋へと向かう。
202号室。
これから春平が生きていく場所だ。
といっても、数年働けば家だって帰るらしいし、あまり長くは住まないつもりだ。
「ただいまー」
と、誰も居ないのに言ってみる。
少し照れるが、何だか寂しい感じもした。
「あ、お帰りなさいー」
「!?」
誰も居ないはずの自分の新居から、突然聞こえた声。
春平は注意深く辺りを見回す。
「あは、シャワー室です」
そんなことを言われて、恐らくシャワー室だろうと思われる扉を開く。
そこには、泡だらけのスポンジを片手に奮闘している少女の姿があった。
栗色の柔らかそうな髪の毛を三つ編みにしているのがよく似合う。
幼い顔立ちからして、恐らくは右京と同じくらいの年齢か。
「正田春平さんですね?」
嬉しそうににっこりと微笑む彼女を見て、春平は言葉が出ずただ首をギクシャクと上下に振るだけだった。
「ハウスキーパーの一ノ瀬ユキナです」
「ハ、ハウスキーパー?」
「はい。雇った覚えはない、っておっしゃるんでしょう?私たちは、社員の皆様のご要望にお応えして家事全般を引き受ける、立派な本社の社員ですよ」
「よ、呼んだ覚えはないけど」
「今日は新しく入居するために部屋を整えていたんです」
「……どうも」
そう言って部屋の奥へ進んでいく。
かなり広い部屋だ。3LDKで、リビングは10畳はあるだろう。
家具も必要最低限のものは揃っている。
「はぁー……」
感嘆の溜め息ではない。
「こんなに広かったら、家賃も相当の額だろうなあ」
「でもそれは予想していたでしょう?」
「……まあね」
小さく息を吐いて、ユキナに向き合う。
ユキナはきょとんとして自分よりも長身の春平を見上げている。
「じゃ、もう帰っていいよ」
「えぇっ!?まだ何も整ってませんよ!」
「それくらい自分で出来る。ハウスキーパーは俺が助けて欲しい時だけ呼ぶから、普段はこなくてもいい」
「むむ……」
口を尖らせるユキナを見て、春平はあまりの可愛らしさに吹き出しそうになった。
「じゃあ、お休みなさい」
「あ、ちょっと待って」
トボトボと部屋を出ていくユキナの腕を強引に掴んで引き留める。
「右京の部屋、教えてくれるかな?」
右京の部屋は下の階のようだ。
196号室は、春平の部屋の真下から6部屋隣に位置している。
「あ、お帰りなさい春平さん」
いらっしゃいではなく、お帰りなさいというところが、右京らしいというか、『あの階』の人間らしいというか。
少し眠たそうに右京は扉を開けて、春平を迎え入れた。
「ご挨拶に。もしかして寝てた?」
「いえ、これからご飯です」
そりゃそうか。
考えてみれば今は夕方の7時。まさか16歳でもこんな時間には寝ないだろう。
部屋の中は春平のものと大して変わらない。
ただ右京の方が長く住んでいる分、物はたくさんある。
右京がキッチンに立つのを見て、春平もついていく。
「これから自分で作んの?」
「はい」
「ハウスキーパーに頼まないんだ?」
横に立つ春平の質問に反応して顔を上げ、すぐに視線を手元に下ろした。
「こうでもしておかないと、戻って来られないかなって思ったんで」
仕事以外にも自分には使命があり、帰らなければならない場所があると思わなければ、仕事に飲み込まれてしまいそうだ。
きっと口数の少ない右京は、そういう意味を込めて言ったんだろうと、春平は思った。
「お前の帰りつく居場所はここなのか」
「……それしかないですから。ふるさとは、ありません」
「ふるさとがない?」
「3年前に、ダムの底に沈んだので」
相変わらずの無表情に淡々とした口ぶりなのだが、一瞬だけ、右京の金色の髪の毛が揺れ動いたように見えた。
「僕には帰りつく愛しい人も居ませんから」
そのかっこいい言い回しが恥ずかしいのに、右京には似合っているのが殊更恥ずかしいというか、照れる。
「そりゃかなり意外な話だな。どの年代の女性からも好かれそうなもんだけど」
心底驚いたように春平が言うと、右京は口元を小さく吊り上げて、優しく目を細めた。
「性格がこんなだから、すぐに愛想つかされちゃうんです」
「そりゃまた納得できる答えだな」
さらに右京は薄く笑う。困ったような微笑だ。
そういえば、右京が笑ったのを見たのはこれが初めてだ。
「もっと笑えよ。笑った方が、もっと楽しいぞ」
真剣に拳を見せつけると、右京は静かに包丁を手をして言った。
「どうやら僕は、本当の笑顔というのもふるさとと一緒にダムの底に沈めてきてしまったらしいです」
笑えない。
ダムのせいで大切な何かを失ってしまったというようにしか聞こえない。
そのせいで、右京は笑顔を忘れてしまったのか。笑顔を表に表すのを恐れて、罪悪感を覚えて、躊躇しているのか。
いつかの、美浜や高瀬のように。
ドクン、と春平の心臓が波打った。
「あの、春平さんはご飯食べましたか?」
突然の言葉に、春平は体を強ばらせた。
「え、あ、ま、まだ」
「食べていきませんか?大したものは作れませんけど」
「いいのっ!?」
「ひとりより、より多くの人とご飯を食べるのが、今の僕の幸せなんです」
顔に本当の笑顔が浮かぶことはない。
だけど、声はとても嬉しそうで、
「素直なやつだなあ」
「え?何か言いました?」
「いや何も」
にっこりと右京を見てから、春平は右京の手元を見た。
「それじゃあ右京の、この部屋に帰ってこなきゃいけない理由に『正田春平に晩飯を食わせる』っていうのも付け加えておいてよ」
春平がそう言うと、右京はびっくりしたように目を丸くして、すぐに優しく微笑んだ。
「仕方ないですね」
その微笑みに多少、頬を赤くして、春平は目を丸くする。
「何だか、右京があの人たちと同じチームだってのが何となく分かってきたよ」
「春平さんも、そのチームのひとりなんですよ?」
優しい微笑みが、春平の心を包み込む。
俺はこれから、この仲間たちと共に生きていくんだ。
何だか右京と仲良くなりそうな春平?
アロエの皆の声を聞いて安心し、新しい仲間とも上手くやっていけそうと実感し、決意を固める春平。
そして次回、いよいよ……!?