第29話 ラーメン
ゴリッ、という嫌な音が響いた。
男に馬乗りになっている状態で、春平は自分の後頭部に押し付けられている銃口を握り締めて、さらに自分自身で押し付けているのだ。
「撃ってみろよ」
そこには強気な態度と、楽しそうな態度が見える。
さらに春平は強く銃口を自分に押し付ける。
「撃ってみろっての」
男は春平の迫力に圧倒されて立ちすくんでいる。
「どうせお前にはそんな度胸ねぇだろうがな」
「……今、何か言ったか?」
男の声がかすかに震えている。それは迫力に圧倒されて、というよりは春平の発言に怒りを覚えて、という感じだ。
そんな様子を察してか、春平はにやりと笑い、そして真剣な表情で怒鳴った。
「お前にこんなもの人に向けて殺すような度胸あんのかよって言ったんだよ!」
「―――っ!」
春平の叫びは部屋中に響いて、ビリビリと肌にも伝わっている。
男の表情が困惑して歪み、引き金を引く人差し指に力が入る。しかしその指はいざという決断が出来ずに震える。
後頭部に押し付け、その様子を音で感じながら、春平はふぅと一息入れる。
「まったく割に合わない仕事だなぁ」
緊張感のかけらもない言葉がゆるゆると発せられると同時に、春平は男の方を振り向く。
男から拳銃をゆっくりと奪い、それを男のこめかみに突きつける。
「俺は、あるぜ。人を殺すような度胸」
にやりと春平の口から洩らされた言葉は現実味を帯びていて、男の表情が強張った。
男だけではない。高瀬も、社長も。
「―――くくっ」
小さく微笑が漏れて、春平はゆっくりと引き金に力を入れる。
きりきりと音が鳴って、男は服が肌にまとわりつくほどびっしょりと汗をかいている。
「バーンッ!」
春平の口からそんな言葉が漏れると、男はショックで白目を剥いてその場に倒れた。
銃口からは煙さえ出ていない。
倒れて動かない男を確認してから、春平は銃を床に力なく落とした。
「春平っ!」
高瀬は急いで春平にかけよる。春平は、いまにも力なく倒れそうだったのだ。それを支えて顔色を窺うと、信じられないほど真っ青だった。
「ははー、痛ぇ」
そう言って春平は自分の左肩を抑えていた。
「もうアドレナリンどころじゃねぇや、マジで痛い」
苦痛で吐息を洩らし、顔を真っ青にする春平。肩からはいまだ血が流れていて、彼の腕を真っ赤に染め上げていた。
春平は高瀬に支えられる腕を拒絶して、自らで立とうとする。
「おいよせって」
そんな言葉も聞かず、春平は目の前に倒れている男の胸ポケットから小切手を取り出し、高瀬と向き合う。
真剣な表情だ。
「無事奪還。社長健在。はいこれお金、依頼主」
そう淡泊に言って、小切手を高瀬に乱暴に渡す。
それをゆっくりと受け取って、高瀬はなんとも言えない感情を抱いていた。
「あぁまだ終わってないか。下にいる社員の皆様はどうなってるかな」
正直、自分たちが派手に暴れているので、あっちにも被害が加わっていないとは考えがたいが。
「俺はもう無理、いや、もう嫌だな。後は頼むよ、俺帰りたい」
高瀬の肩を叩いて、春平はそのまま社長室を出て行く。
「待てよ、まだ終わってない」
高瀬の真剣な声音に、春平は不満足そうに振り向いた。
「下の社員全員の安全確保、これまで追加の依頼だ」
「……全く都合がいい」
溜息をつきながらも、嫌な素振り1つ見せずに、2人は社長を連れて1階ロビーへと向かう。
「何故私も行くのかね」
「社長1人置いてたら危険だからじゃん?」
いてて、と言いながら軽口を叩く春平を、高瀬は一瞬殴ってやりたかった。
ロビーでは相変らずだった。春平が逃げたことを知り全員がパニックになりながらも、男たちはさほど問題視はしていなかった。
大丈夫、上にはまだ仲間がいるから、と。
そして他の人間を人質に警察に見せ付ける。完璧だ。
「しかし遅いな」
「もう済んでんじゃないのか?」
「それなら連絡が来るだろう」
そう、予定ではこの後はヘリで逃走のはずなのだ。しかしヘリの音はともかく、仲間からの連絡さえ途絶えている。
「それならこっちからかけるまでだ」
男が胸元から無線機を取り出す。
『こちら02、応答願います』
しばらくの雑音の後、無線機からはこんな無機質な声が響いた。
『こちら中田ぁ。応答願いまーす』
『中田だぁ?名前じゃなくて番号呼びって言っただろうが、ったくよ。志村だ』
『あーそー。んじゃあ志村、後ろ後ろ』
『はぁ?後ろだぁ!?』
そうして志村が後ろを振り替えると、そこには消火器を振り上げている高瀬が。
「遅かったじゃねぇか、志村っ」
そう言ってそのまま消火器を志村の背中に振り落とす。
「てめぇっ!」
銃を構える男を、春平が取り押さえる。
他の男2人も春平と高瀬に銃を向ける。しかし
「いけー!」
2人の様子を見た社員たちが、一斉に男たちに襲い掛かる。
あまりに唐突な事態に男達は反応しきれず、あっさりとその身を拘束されてしまった。
その後警察がビル内に入ってきて、男達は即逮捕。
警察が入り込み男たちを連行、社員たちは肩を揃えて安堵しごちゃごちゃと会話し始める。
「大丈夫なんですか高瀬さん!?」
「あぁ平気だよ。あんな奴ら、俺がこてんぱんに伸してやったんだ」
と自慢げに武勇伝を話す高瀬。もう鼻高々だ。
まぁ言うなれば彼はこの会社と社長を救った英雄だ。
その様子を確認してから春平はくすりと微笑み、その場からそそくさと姿を消そうとする。
安全確保のために、全員がその場で待機と言われているなか、明らかに1人だけその場を逃れようとしている春平。
「しゅんちゃん!」
田中はその青年を呼んで引き止める。周りの人間は気付いていない。
「しゅんちゃんも私たちを救ってくれたのよね」
「いいや俺はただ高瀬さんにくっついてただけだよ」
へらっと笑う春平、あらため中田俊介を見て、田中は不思議そうに眉を顰める。
「高瀬みたいに、いい気になればいいじゃない。私たちを助けたのよ?傷だって、明らかにしゅんちゃんの方が深手で、大変な思いしてそうなのに」
その言葉に春平は押し黙る。そして、じっと田中を見ていた。
春平にそんなことは許されてはいないのだ。
高瀬は本名でこの会社と固定して契約しているので、これから警察に何を聞かれてもさして問題はないだろう。
しかし春平の場合は違う。
中田俊介という人物はこの世に居ないし、第一警察沙汰は御免なのだ。
「もっと自分に誇りを持ってよ!鼻高々に自慢してよ」
必死に言ってくる田中を見て、春平は嬉しそうに笑った。
まるで愛しいものをじっと観察しているような、優しい眼差し。
「英雄は1人で十分だよ」
「そんな……」
「それより、帰ってゆっくり寝たい気分なんだ」
そう言って春平は田中の柔らかい髪にそっと触れた。かすかに、田中の頬が紅潮する。
「もう職場には来ないから。お別れ」
耳元で囁いて、耳たぶに軽くキスをした。
「あー、あと、しゅんちゃんって呼んでくれるの、すごい嬉しかった」
そう言うと、春平は呆然としている田中から離れて、背中を向ける。
田中はそんな春平の様子を見て、何かいいたそうに口をぱくぱくさせているが、どうにもいい言葉が思い浮かばないようだった。
「ラ、ラーメン!」
叫んだ声に反応する。ゆっくりと振り返ると、今にも泣きそうな表情で田中が立っていた。
「ラーメン、食べに行かないの?」
そんな表情が本当に愛しくなりそうで、春平は苦笑した。
「今は無性に家でポテチ食べたい感じ。あるんでしょ、そういうの」
自分で言って、くすりと笑った。
仕事帰りにラーメンやらポテチやらって話は、今までの依頼でしたことがない。
こんな固定されたなれ初めが、とても新鮮だった。
嫌ではなく、むしろ楽しい。嬉しい。
こんな楽しい仕事が3日続くなら本望だったな。
結局こんな形で終わらなきゃならないのが悔しい。だけど、
ほんの一瞬だったけど、楽しい夢を見せてくれてありがとう。
「いやー痛いー!」
アロエに帰ってきた春平を見て早々、美浜は悲鳴をあげた。
寺門はそれに目もくれずに淡々と傷の手当てをする。消毒が傷に染みて、春平は顔をしかめた。
「よく警察に捕まらずに帰ってきたね。感心感心」
あの後、春平は携帯で河越に連絡をして、迎えに来てもらったのだ。
「高瀬がいい気になってる間に帰ってきたから」
「成る程、んで孝太が警察とマスコミの餌食ね」
「高瀬なら問題はないだろう」
やっぱり、寺門も春平と同じ事を考えていたようだ。
「しかし」
寺門は傷の手当てを終えると、春平をきっ、と睨みつけた。
「な、何?」
「それ以外は感心できない」
「なんでさ」
「こんな事件に関わってしまって」
「はぁ?だってさぁ、助けなきゃどのみち死ぬか警察沙汰かどっちかだよ。それなら助けるさ」
「まぁ確かにそうよねー。それで何とかなるんだから偉いわしゅんちゃん」
がしがしと乱暴に春平の頭を撫でている美浜を、春平は照れくさそうに見上げた。
依然、寺門は納得のいかない顔をしていた。
「しばらくは雑務だけをさせよう」
「どういうこと?」
「犬の散歩とか草刈とか」
「……まぁ、いいけど」
問題はどうして寺門がそこまで怒っているのか、ということだったが、春平はあえてそれを聞かなかった。
春平が眠りについてから、美浜は寺門に質問した。
「どうしてあんなに怒ってるのよ」
その質問を予測していたのか、寺門はゆっくりとお茶をすすって美浜を見た。
「怒っている、というよりは心配しているんだよ」
「?」
「表では高瀬が1人英雄になっているが、そうでもないだろう?報告書を見る限りでは、春平の方が、と本社にとられるかもしれない」
「いいじゃない別に」
「さらに今はハルもアロエの視察をしているんだ。こんな状態の春平を見て、それをきっと本社にも伝えるだろう」
「あ」
そこまできて、美浜はようやく理解した。
さら寺門は話を続ける。
「こんな傷を負っても、1人で迅速に動いて見事手柄を取った春平を、本社はどう判断すると思う?」
美浜は答えなかった。でも、理解していた。
おそらくは、使える人間だ、と。
美浜は嫌な汗をかくのを感じていた。
「そろそろ春平にも、私と同様の仕事が回ってくる時期なのかもしれない」
できれば、そうしたくはなかった。
家族同然である春平には、そんな危険な仕事をさせたくはないのだが。
きっと本社は、そんな寺門の身勝手な要望など、許さないだろう。
少し不穏な雰囲気の中、終わった仕事。
寺門さんの心配が杞憂で終わるといいのですが……。
次回、再び『彼女』が登場します!