第1話 約束ごと
小さな町の中に小さな喫茶店がある。
赤レンガの壁で、扉が2つ並んでいる。
右の扉は喫茶店。
左の扉は普通の民家。
でも、どちらもいつも鍵がかかっている。
おかしいなと思い、喫茶店のチャイムを鳴らし、訊いてみる。
「今日はやってないんですか?」
と尋ねると
「はい」
と返ってくる。
「いつなら開いていますか」
と尋ねると
「いつでも」
と返ってくる。
そこで一つ。
「お尋ね者です」
と言うと
「どうぞ」
と扉が開かれる。
球場内では大歓声が轟く。
白い球が太陽の光を受けながら空高く放物線を描き、観客席へと入っていった。
ホームランを打ったのだ。
応援団と父母会の大歓声の中、満面の笑みでホームに帰ってくる青年。
「あら! あんな子いたかしら?」
一人の母親が呟く。
「最近転校してきたらしいわよ。 名前はたしか……江森歩君! 3年生だって」
「へぇー」
それだけで話題は途切れ、次のバッターの応援に入る。
ベンチに戻った江森歩はまっさきに仲間とハイタッチをし、喜んでいる。
「スゲーっスよ歩さん! ホントに前の高校で野球続けてなかったんスか!?」
後輩にあたる1年生から期待の眼差しをむけられて、少し照れている歩。
「だから言ったろー。 中学ん時はシニアに入ってたし、今はクラブに入ってんだよ」
1年生の肩を照れ隠しに叩く。
かなり痛そうだ。
「江森!」
監督に呼ばれて、江森は短く返事をして走り寄る。
すると監督は偉そうな態度から一変、へりくだったような様子で江森の耳元でうれしそうに呟く。
「いやぁやってくれましたね正田さん! このまま行けばウチの高校は甲子園球場に行けちゃうかもしれませんよー」
とにやにやした顔をしながら江森を肘でつつく。
しかし対照的に江森の表情はつんとした冷たいものだった。
それは部員が監督に見せる類のものではない。
「もし万が一にそうだとしても、契約はこの一試合だけですからね」
「契約延長すれば来てくれるんですよね!?」
ベンチに座る江森に手を揉んで頼むが、江森はまるで聞く気なしだった。
「正田さーん」
猫なで声を出して擦り寄ってくる監督をうっとうしそうに睨み付けながら、口を開く。
「延長は料金かなり高くつきますけど。それでいいなら」
江森の言葉に反応して冷や汗をかく監督だが、そんなことはどうでもいい。
「無名校である東野高校の無名の野球部にそれほどお金なんてないでしょう?……あっ、もう交替ですね。俺はまだキャッチャーやってていいんですか?」
にっこりと微笑む江森に顔を青くしながらも笑顔で頷く監督を見て、江森は満足そうにホームに立つ。
9回の表、攻めだった東野高校は打者8番が見事に空振り三振で、ゲームセット。
「負けちゃった」
さ、帰るかな。と江森が帰り支度をすると、監督が江森を呼び止めた。
「い、一体何がいけなかったんでしょう……」
その言葉に半ば呆れながら冷静に言う。
「打率が悪い。しかもちゃんと守りにつけない。ピッチャーのコントロールが悪い。最悪。出直してください」
「ま、ま、待ってください!」
背中を向けた江森の肩を引っ張ったもんだから、危うく頭から転びそうになり不機嫌になる。
「これからも、コーチとして来てくれませんかね」
「あと最低でも1年経たなきゃ無理だよ。 俺ここでは高校3年生で通ってんだから! そんぐらいわかんだろ!」
そう吐き捨てて颯爽とバイクで消えていく江森を、ただ見ていることしかできずに唇を噛む監督。
まだ本格的な夏は迎えていないのだが、じりじりとした太陽の熱が自転車を漕ぐ江森に襲い掛かる。
汗だくになりながら帰った家には当然ながら鍵がかかっていた。
江森がチャイムを鳴らすと、男性の声が聞こえてきた。
「はい」
「俺。春平」
それだけ伝えると、面白そうに相手が微笑した。
「わかってるよ。入りなさい」
ガチャという音がして玄関が開く。
目の前に優しい微笑みを見せたまま立っている中年の男性を見て、春平は優しく微笑んだ。
「ただいま。寺門さん」
ここは何でも屋「アロエ」。
表では喫茶店として店をおいているが、その実態は得意先にしか知られていない秘密の店。
基本的には何でも引き受けるアロエだが、アロエのことは規則として他言禁止だ。
なぜなら、アロエは法に触れることまで容易に引き受けるからだ。
「寺門さん、今日仕事ないの?」
椅子に座り、テーブルの上にある麦茶を一気に飲み干す春平。
「最近の仕事は夜出勤なんだよ」
ため息をもらす寺門を見て、春平は「またマフィアがらみか」と小さく息をはく。
「他のみんなは?」
アロエには春平と寺門以外にも3人働いている。
「皆仕事だよ。あぁ、咲は今寝てるよ」
春平は椅子から立ち上がり、隣の部屋へと向かう。
静かにドアをひくと、床に布団を敷いてすうすうと寝息をたてて美女が倒れていた。
春平がゆっくりと美女に近づき顔にまとわりついている茶色の長い髪の毛をそっと取り払うと、美女は「んっ……」と言って寝返りをうった。
その上に馬乗りになると、「ぐぇっ」と言う間抜けな悲鳴が響いた。
「美浜咲ちゃぁーん。おサボりですかぁー?」
赤ん坊に話しかけるようにして笑いながらうりうりと頬を横に引っ張ると、美浜は目が覚めたようだった。
「しゅんちゃん……髪の毛真っ黒だね。気持ち悪い」
「今日は高校球児だったんだから仕方ないだろ。美浜さんこそ何で寝てんだよ。昼間なのに」
春平が馬鹿にしたように笑うと美浜はだるそうに頭を横に振った。
「6時から家庭教師」
美浜が上体を起こしたので春平がよけると、美浜はゆっくりと部屋の時計を見上げた。
「あ。もう4時なんだ。準備しなきゃ」
明らかに寝ぼけている美浜を見送り、時機に寺門も居なくなり、春平はアロエに1人取り残されることとなってしまった。
「暇だなぁ……」
と言いつつテレビをつけてゲームの準備をする。
「髪も茶色く戻さないとなぁ」
と自分の前髪をつまんで見る。
ことあるごとに色を変えている髪の毛は最近痛んでいるように見える。
こんなことなら別に髪の毛の色を戻す必要もないかもしれないと思いながら、思い悩んでいると、
家の扉ではなく喫茶店のチャイムが鳴った。
春平は舌打ちして
「はいはいはい」とめんどくさそうに立ち上がった。
「はい、どちら様ですか」
「お、お尋ね者です……」
少し緊張気味の声は、若い女性のものだろう。
春平は、若い女の子人がこんな店に来るだろうかと少々考えたが、
「お尋ね者です」と答えた人を迎え入れる規則なので、
「どーぞ」
と気のない返事をして鍵を開ける。
客を椅子に座らせてテーブルを挟んで向かい合わせになる。
客は見たところ高校生。
ダークブラウンの短い髪の毛を左右で分けている。
「で、何の依頼ですか? 犬の散歩?」
「あぁ、いえ。違うんです。その、ちょっと」
客が緊張しているのを見て春平は一度席を外し、アイスティーを差し出した。
「ありがとうございます」
「ゆっくりでいいから話してくれる?」
春平は不安と緊張が絡まってしまっている客を気遣い、穏やかな声で話しかけた。
客はアイスティーを一口飲むと、深呼吸をして心を落ち着かせた。
「あの……、私、ボディーガードを頼みたかったんです」
「ボディーガード?」
春平が聞き返すと客は俯いてこくんと頷いた。
「ス、ストーカーされてて。でも、ちゃんとしたボディーガードを雇うお金なんて無いし。……そうしたら近所のおばさんからアロエの事を聞いて、ここならって思って」
その発言に春平の眉がぴくりと不愉快そうに動いた。
「そのおばさんって、誰?」
「え? ここらへんの藤山千代さんって方なんですけど」
「藤山さんか……。絶対アロエの事は言わないでって釘さしといたのに」
春平はまたも舌打ちをする。
客はまずいことを言ってしまったのかもしれないと顔を真っ青にしているが、春平は「で」と話を続けた。
「被害状況はどんなもんなの?」
「あ、家に帰ると、……私の写真の入った封筒がアパートの郵便受けに入ってて……」
そこまで言うと客の瞳がぽろりと大粒の涙があふれ出た。
突然泣かれてしまったことに一瞬ぎょっとしながら、春平は小さく呼吸を正して慌てないように自分を律する。
「まだ直接会ったり、被害を受けたりはしてないんだよね?」
その問いに客は小さく頷く。
彼女の返答で春平は納得したのか、書類を客の前に広げた。
「今アロエで手が空いてるのって俺しかいないんだけど、ボディーガード俺でいい?」
少し上目遣いで参ったように言う春平を見て、少女は迷うことなく首を縦に振った。
「誰でも」
ずずっ鼻水をすすっていたので箱ティッシュを差し出す。
「じゃあ、この紙に必要事項記入して」
春平が丁寧に指を指しながら誘導すると、少女は左手で鼻を押さえながらゆるゆるとペンを持って空欄を埋め始めた。
数分立って書類を書き終えてから、春平は彼女の名前を確認した。
「袴田美羽ちゃん?」
「はい」
美羽はにっこりと微笑んで春平の顔を見上げた。
「俺、正田春平ね。よろしく」
春平も同じく微笑む。
「ところでさ、ここの事は他言禁止って知ってる?」
「はい。藤山さんから聞きました」
それを聞いた春平は心の底から安心した。
「ネットに書き込むのも駄目だよ」
念を押して言う春平を美羽は眉をひそめながら不思議そうに見ていた。
「どうしてそんなに隠そうとするんですか?」
「ん。まあ、色々」
誤魔化されて納得がいなかいようだ。
「そんな秘密ばっかりの得体の知らないところ、誰も来ませんよ」
「君は来てるじゃん」
「あ」
思わず顔を赤くする美羽を見て、春平は困ったように微笑んだ。
「表には知られたくないやましい事がたくさんあるんだよ。それ以上は言えないけど。……でも、心配しないで! お客様に迷惑をかけるようなことは絶対に致しませんから」
ね。と優しく言ってから、乙名は再び書類に目を落とした。
「ふーん17才かぁ。よかった、大丈夫そう! じゃ、今日はとりあえず帰ってもらおうかな」
その言葉に美羽は目を見開き、講義するように立ち上がった。
「な、何でですか!?」
「いやぁ、こっちも準備しなきゃなんないし。家まで送るよ。独り暮らしでしょ?」
春平も立ち上がって何食わぬ顔で美羽を玄関までさりげなく誘導した。
美羽のアパートはいたって普通の、少し年季が感じられる外観だった。
一緒に郵便受けを確認するが、チラシが入っている以外別段異常はないようだ。
美羽を玄関に入れると、春平は微笑を浮かべて手をひらひらと振った。
「じゃあ、明日の朝8時にここで会おうね」
それだけ言って、春平はあっさりと去ってしまった。
しっかりと鍵を閉めてからも、美羽は困惑したようにいつまでもその場に突っ立っていた。
これから一体何が始まるのか、本当に便利屋とは信用のいくものなのか、
何も状況が把握できないまま、もやもやした気持ちだけが美羽の胸の内に広がっていった。