第111話 大切な人
どうやら美羽は映画を見に行ったらしい。
映画館の場所に辿り着いて美羽の携帯に電話をかける。
すると、あっさりと彼女は通話に応えた。
「もしもし?あの、どうかしました?」
動揺してる声に、なんとなく苛立ちを覚えながら「今どこ」と春平が短く問いただす。
「え?えと……」
「映画館の前にいるんだけど」
「えっ!?」
驚く美羽の背後から、「どうしたの?」という男の声が聞こえてくる。
引かれたかな、と思いつつ、妥協するつもりはないので続けた。
「大事な話がある」
「えと……」
「迎えに行きたいから、今どこにいるのか教えて」
「あの……映画館の裏の」
動揺している美羽に、春平までもが緊張する。
そして――
「あっ、待って!な、なにっ!?――きゃっ!」
その声と同時に、プツンッと通話が途絶えた。
「――――――」
一気に背筋が凍りつく。
美羽の背後で、野太い声の男たちの声が聞こえたのだ。
それだけの情報で、春平は彼女の身に何が起こったのかを即座に理解する。
――袴田の娘だと気づかれたか……。
美羽は映画館の裏にいると言っていた。
あまり人の声が聞こえなかったことから、路地にいるのかもしれない。
春平は体を反転させると、映画館の裏へと急行する。
大通りに面している表とは正反対に、裏は小さな個人経営の喫茶店などがぽつぽつと並ぶ小さな道が多い。
こんなところに男と2人きりで何しようとしてたのか、甚だ疑問ではあるが、頭をぶんぶんと左右に振って美羽を探す。
「美羽ちゃんっ!」
人通りのすくない道を駆け抜け、春平はさらに人気のない路地裏へと向かう。
女の子に手をあげるなら、もっと奥――
そのとき、目の前の暗がりから誰かが駆けてきた。
「!」
よっぽど慌てているのか、細い道で春平が目の前を歩いていることにも気づかずに、そのままの勢いで正面衝突してきた。
「っと」
前のめりに転びそうになった人を腕の力だけで反射的に支える。
ずしんとした重みが響き一瞬顔をしかめて、相手が男だと気づいた。
「――あっ!」
そしてそれが、見たことある顔だったので春平は思わず声をあげてしまった。
倒れ込んだ男は、以前美羽と一緒に歩いていた男子高校生だ。
見慣れた顔に安心すると同時に、美羽がこの男と出掛けただろう事実に愕然とした。
しかし今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「なぁおいっ!美羽ちゃんはどこだ!」
「ひっ、ひぃぃぃい」
どうやら相当気が動転しているらしい。
真っ青な顔で春平の手を振り払うと、一目散に逃げていってしまった。
やはり何かあったようだ。
慌てて路地裏を走っていると、人影が見えてきた。
「美羽ちゃん!」
名前を呼ぶと、影がビクッと震えた。
「春平くん……」
やはり美羽だったようだ。
駆け寄ると、美羽が胸元を手で押さえて困惑したように立ち尽くしていた。
袴田の娘だと脅されたり誘拐されたりしていないだろうか。
と思ったが、美羽の近くに人影はない。
「………………?」
同じく春平は首を傾げていると、ふと暗がりではっきりしない足元に、何かがいることに気づいた。
そこには、大の男が3人、娘に助けを乞うようにみっともなく土下座をしていた。
「えっと……状況の説明を求めます」
春平がなんとか言うと、土下座をしていた男たちが突然立ち上がり、春平に向かって必死な弁解を始めた。
どうやら、いいカモになりそうな若者カップルを見つけたので金でも巻き上げようとしていたらしいが、そのカモが袴田のお嬢だと分かって必死に謝っていたらしい。
「あ……そうですか」
「そしたら男の方は逃げ出すし、もしかして袴田組にこのことを知らせるつもりなんじゃないかと思って気が気じゃなかったんですわ」
「――わかった。とりあえず今回のことは不問とするから、早々に消えてほしい」
ため息をつきながら春平が言うと、チンピラたちはそそくさと逃げ出した。
何もされていないことに安堵しながら美羽の様子を確認する。
美羽は寂しそうにうつむいていたが、春平の視線に気づくとすぐに顔を上げて無理矢理微笑んだ。
「広志にバレちゃいました。でも、すごく怖がってたからばらすようなことはしないと思います」
「……そっか」
今すぐにでも彼女を抱き締めたい。
思いながら、春平は行き場のない右手で自分の頭を掻いた。
「まぁ、君は、ちょっと特殊な環境に身を置く子なんだから、友達は選んだ方がいいかもな。いざとなっても逃げ出さない子を」
「守ってくれる人、ですか?」
「んー、そこまでは」
「でもどっちにしたって、春平くんが守ってくれるじゃないですか」
美羽はからかったつもりなのだろう。
だけど、目が笑っていない。
春平は胸の内から溢れ出す感情をぐっと抑え込み、彼女の両手を優しく握った。
「あの……」
やや困惑したような、恥ずかしそうな美羽を見て、春平も照れてしまいそうになるが、そこは男らしく毅然と。
大事な話をするときに照れるような半端な奴にはなりたくなかった。
「――美羽ちゃん」
「はい」
「たぶん俺は、あんまり器用じゃないし君を楽しませることもできないと思う」
「……」
「いつだって仕事が一番だし、それはきっと俺が死ぬまで変わらない」
そもそもとして、死ぬときがくればおそらくまともな死因ではないだろう。
例外の左遷とはいえ、春平の肩書きが特殊護衛科であることに変わりはない。
諜報科にも所属しているが、春平の命なんて諜報活動を円滑に行うための護衛科という捨て駒程度の扱いで、乙名や春子ほど大切になんかされないだろう。
だけど、それでも――何が大切かわかったから。
「それでも「それでも」
やや言いづらそうな春平のかわりに、美羽が口を開く。
恥ずかしそうに頬を染めて、だけどもまっすぐ春平を見上げて。
「それでも、私の春平くんへの気持ちに変わりはありませんよ」
「――――――」
耐えられなかった。
春平は握りしめる美羽の手を引っ張り、自分のところへと引き寄せた。
ぽふ、と美羽が自分の胸に倒れ込む。
ふんわりと薫る甘い香りがなおさら愛しくて、きゅっ、と春平は優しく美羽を包み込んだ。
やや薄暗く人の気配がない路地裏、春平はお互いの鼓動と息づかいを感じながらそっと目を閉じた。
「――女の人って、こんなに温かくて柔らかいんだな」
自分が女性に安心感を覚える日など、一生こないと思っていた。
目の前に現れた奇跡を手放すまいと、彼女にしがみつく。
――きっと、お母さんもこんな感じだったのかもしれない。
瞼の裏に焼き付いていた血塗られた惨殺劇はいつの間にか薄れ行き、色鮮やかな仲間との日々がその情景を上から塗りつぶしている。
その一番上にいる美羽の存在に気づいて、春平は「ははっ」と笑う。
「やばいな」
「えっ?」
笑いが堪えられない春平におろおろしながら、美羽が真っ赤に茹で上がった顔で見上げてくる。
――そんな姿を、愛しいなと思っていたときから、
「俺、そうとう美羽ちゃんのことを好きみたいだ」
その言葉に美羽はもはや耐えきれなくなって、耳まで真っ赤にしてしまっている。
優しく微笑む春平の視線に負けて顔を逸らす。
「ずるいですよ……」
「だな」
「分かって言ってるんですか?」
「うん」
言ってから、春平は美羽を離す。
離れたことが寂しいのか心配そうな美羽の目の前に跪き、彼女の手をとる。
その行動が何を意味しているのか理解できて、美羽の呼吸が止まる。
「二度は言わないからな」
すぅ、と息を吸って、春平は覚悟を決める。
「――美羽ちゃん。俺と」
心臓が止まりそうな緊張の瞬間。
ぐぎゅうぅぅぅ、と。
目の前から奇妙な音が聞こえて春平は目を丸くした。
美羽は硬直して苦笑いしたまま動かない。
「あ、う……」
彼女の手が熱くなっている。
「ごめんなさいっ!お昼ごはんまだなんですっ」
いやぁあああ!と声を上げながら、美羽は空いた左手で顔を覆い隠す。
「ごめんなさいごめんなさい!続けてください」
「――二度は言わない」
仕切り直しなんて高度なことは春平にはできない。
彼女の手をとったまま立ち上がり、なんとも自分たちらしい結末に笑いが堪えられなくなりながら、春平は「ま、いっか」と手を握る力を強めた。
「ええぇ終わりですかっ!?もっと甘いひとときを、甘いひとときをっ!」
うっうっ、と半べそになっている美羽を見て爆笑してから、彼女の頭をぽんぽんと撫でる。
「ま、続きはまた今度。これからは一緒にいる時間が増えるだろうしね。ずーっと」
「……」
さりげないプロポーズに、ついに美羽は現界に達した。
目をぐるぐると回してその場に倒れこむ。
「おっと!」
春平は慌てて彼女を抱きかかえてしゃがみこむ。
うなされたように「ごめんなさいごめんなさい」と言っている美羽にどうしようもないくらい愛しさを感じながら、春平は彼女を背中に背負って立ち上がった。
そしてその日その時、別の場所ではひとつの命が終わりを告げていた。
誰よりも早く危篤の知らせを受けて家族よりも早く病院へとやってきた沖田は、今目の前で永遠の眠いについた穏やかな表情を見下ろしながら、背後を振り返る。
死を認めきれていない家族を目の前に、冷静に頭を下げる。
それにはどういう意味があるのか。
謝罪なのか。感謝なのか。それとも……
春平にその訃報が届いたのは、翌日のことだった。
幸せです。
さて、いよいよ物語がクライマックスに向けてゆるやかに動き出します。