第107話 ひとつ終わってまた始まる
空気が凍りつく。
だけど春平は、自分の胸をぎゅっと握りしめて、耐えた。
沸き上がる恐怖の記憶に、耐えた。
目の前を見ると、乙名が同じようにロザリオを握りしめていた。
苦しい気持ちの反面で、2人は互いに安堵していた。
――独りじゃなかった。
自分は、まったくの孤独じゃなかった。
空気が徐々に変わっていく。
気づけば、お互いを確認するように見合っていた。
それに照れたのか、乙名が薄く微笑む。
「たとえどんなことがあろうと、乙名雄輝はここにいる。便利屋のフロントとして、諜報科として。――これでいいかな」
尋ねられても、答えはひとつしかない。
目から溢れだしそうなものを堪えて、春平は情けなく笑った。
「……ずっと、ここで待っててくれたんだな。ずっと、生きててくれたんだな」
そして、飾り気のない心からの言葉を紡ぐ。
「ありがとう、雄輝くん」
春平の言葉を受けた乙名も、何かを堪えるように情けなく笑っていた。
もう、乙名を無理矢理妙安寺に連れていこうだなんて思わない。
悔いが残らないわけではないが、それでもこうして大きなものを得ることができた。
別れと感謝と再会と。
今まで10年もないがしろにしてしまっていたものが、ようやく成し遂げられたのだから。
そして、部屋に客人がやってくる。
「春平くん、話がある」
真剣で堅苦しい表情は、沖田が本気で仕事に取りかかっているときのものだ。
立ち上がり、一度乙名を一瞥すると、嬉しそうな表情で自分に手を振っていた。
諜報科のビルの会議室――乙名救出の際に連れられた場所だ――にやってきて、2人は向かい合って着席した。
どうやら今回は社長の姿はないようだ。
あくまで仮面のように冷静な表情のまま、沖田はぺらぺらと書類を捲っていく。
「簡潔に、事の説明と収拾について説明するよ」
「お願いします……」
恐らくストライキと生還の話をされると分かってはいるのだが、いざ公式に説明されるとなると緊張するものだ。
「特殊護衛科で大規模なストライキが決行されて、莫大な損害が出ています。リーダーは同科所属藤堂清住。その件について、会社側は彼らの要望に応えるという形で事態の収拾に取りかかりました」
「何を要求されたんだ……?」
「正しい情報と状況の提示」
「正しい情報って……諜報科のことを話したのか!?」
「それじゃあ諜報科の意味がないから話さないよ。あちら側も今回は深層の話だってくらいは理解してる、そんなことを要求はしてこないさ。まして、特衛科の人間だ」
最後のひとことで妙に納得させられた。
確かに、特衛科の人間は、会社の細かいところに口を挟んだりはしない。
彼らはあくまで社長のために身を削り、その対価として金をもらうだけ。
そして身を削るに足る信用のおける仲間がいれば、それ以上の不粋なことを考えたりはしない。
「彼らが欲しいのは、正田春平の情報、それのみだからね」
「情報……」
「欲しいのは生死の有無の情報、生きている場合は生還、このふたつの要求。これに関して、会社側としては非常に苦渋の決断ではありましたが、正田春平の生還を約束しました。変わりに、正田春平が何に関わっていたのかなど、正田春平の身辺について探りをいれないことを条件に」
結果、会社が損害を受ける形で収束したわけだ。
損害額を抑えるためには春平を生き返らせるしかない。
たとえ嘘の真実を言ったところで、いずれバレてしまうのが関の山ならば、諜報科という存在を伏せるのみ。
社員に不信感を持たれる結果とはなったが、これ以上最良の結果は出せなかったわけだ。
だが――
「俺を返還したら、諜報科のことを陰で言いふらすとは思わないのか?」
そこは会社にとっても重要なところではないだろうか。
しかし、それに関しての沖田の反応は実にシンプルだった。
「思わないよ。たとえ生還しても、春平くんは諜報科に属していることになる。二重の監視は解かれることがないし、君には重大な人質が2人もいるからね。それに関して、事の収拾ということで説明していきます」
そう言って、沖田は書類を捲る。
「これから正田春平は諜報科として外部機関妙安寺に配属します。それから、乙名雄輝を本社へ移し、本来のフロント兼諜報科とする」
それは予想外だった。
春平こそ本社に戻るものかと思っていたからだ。
「俺、戻って大丈夫なの?」
「もちろん、今回のことを諜報科以外の人間に言うことはできない。井上さんの監視もあるから不可能だとは思うし、妙安寺の子たちは聞いてはいけないことの区別がつくから心配はしていない」
「乙名は――戻れないのか?」
春平がおそるおそる尋ねると、沖田は困ったように苦笑した。
「一度外部に出して春平くんという危険因子を近くに置いて、見事に裏切ってくれたからね。信用はできないんだ。それに……そうすることで美浜さんに危険が及ぶなんて乙名も嬉しくないだろうし」
そうか、と春平は納得した。
もし乙名が妙安寺に戻れば、また外部に何か情報をもらすのではないかと疑われる。
乙名が死んでいないという事実を知る美浜ならなおさら。
誰かが美浜を監視するか、情報が漏れていないかの確認として拷問されることだってある。
それだけ、乙名が起こした今回の一連の事柄は重大だ。
だけど――それでは納得しきれない。
「報告は以上。何か質問があったら受け付けるよ」
とんとんと資料を整える沖田を見ながら、春平はしばらく黙り込んだ。
そして、突っぱねられるのを覚悟でひとつの提案をする。
「――前に、右京がお前に依頼してたことがあったな」
あれは、右京の妹がコンプに連れ去られそうになったときの話だ。
そのときのことを思い出して、沖田は莫大な金さえ払えば雇うことができるんだと知った。
「俺がお前に依頼をすることは可能か?」
ごくりとつばを飲み込み、沖田の反応を観察する。
しかし彼はわりとあっさりとポーカーフェイスのまま対応してきた。
「知っての通り、便利屋といえど断る権利はある。だからまずは話だけ聞こうか」
「1日だけ、乙名に休暇を与えて妙安寺に連れ出したい。その手配をしてほしい」
「……どれだけ出せる?」
「会社の銀行に入れてる全財産」
沖田が青ざめた顔で息をのんだのが分かった。
本社の特衛科はその仕事内容から、他の科とは比べ物にならないほどの金額が手に入る。
そのすべてを乙名の1日のために受け渡すと言っているのだ。それは破格であり、金額的には断る要素なんてひとつもない。
「………………」
さすがの沖田も大規模な取引に速答することはなかった。
だから、春平の方が痺れをきらす。
「答えは?イエスかノーか」
「……」
「沖田」
しかし沖田は答えない。
そして、何かをじっくり考えているようだった。
「おい」
「うるさいなぁもう」
あまりにも急かす春平にふぅとため息をついて、沖田は何かをガリガリと書類に書き始めた。
「それじゃあこうしよう」
真剣な顔で沖田が言う。
「そのお金で乙名くんを妙安寺に移す。と言っても基本は本社勤務で、週に一回くらいは顔を覗かせるくらいは許可しよう。そのかわり、春平くんは美浜さんの監視をしてもらう。そうすればすべての人間に監視の目が行き届くから問題ないね」
そして、沖田はにっこりと笑った。
しかし春平は笑えなかった。
沖田の突拍子もない発言に言葉が出ない。
「それは――つまり……」
「美浜さんの監視、よろしくね」
さっぱりと嬉しそうな沖田の言葉に、徐々に春平の頭も整理されていく。
「正田春平の配属は便利屋店舗、アロエに決定します」
それから数日後の晴れた日、春平と乙名は妙安寺へと向かった。
タクシーに乗って、春平はにやにやとしていた。
「俺の目標が達成されたな」
乙名はこれから妙安寺に正式に別れを告げ、本社に配属となる。
なんだかしっくりいかない様子の乙名は照れ隠しなのか、小さくため息をついている。
「馬鹿だよな。貯金全部なくなったんだろ?」
「あっても使い道ないし。俺、趣味ってゆー趣味もないしな」
「実家に戻るようなもんだから問題もないってか?」
あほ。と一喝されてしまった。
「これからはもっと賢く生きろよ。お前の人生って損だらけじゃねぇの?」
「そうでもないよ」
損なんてしてない。
むしろ楽しく生きてこれているという自信がある。
「こうしてでしゃばることで得られるものの方が多い」
何もしなければ、きっと乙名とはあのまま喧嘩別れをして終わったはずだ。
ならきっと、今こうしていられることは損じゃない。
春平があまりにも嬉しそうに話すからか、乙名はぷいと顔を背けた。
その意味がなんとなく分かったから、春平はニカッと笑った。
「妙安寺にもフロントにも遊びに行くよ」
「来なくていいっての。忙しいんだから。俺はフロントナンバー2の実力者だぞ?」
「はいはい」
そんな話をしているうちに、タクシーは妙安寺に到着した。
「じゃ、ちゃんと挨拶しますか」
そして妙安寺の扉を開くと同時に――子供たちが飛び出した。
「うわぁぁぁぁぁあんっ!」
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして、ミミと万が春平に抱きつく。
横で両手を広げて待機していた乙名は笑顔のまま固まっている。
「春平ちゃん無事でっ、よがっだ……っ」
鼻水が服についても構わない。春平は泣き叫ぶミミと静かに泣きつく万を強く抱き締めた。
「ほんとはっ、何事もなかったように振る舞うのかなプロだって、わかってるけどっ、ひっく、生きててよかった……!」
「あのー、ミミちゃん。乙名雄輝もミミちゃんと万に会いにきたんだよ?」
「乙名なんてどうでもいいんだもんっ!うわぁぁぁぁぁあんっ!」
ずりずりと顔を擦り付けるミミの横、乙名は「ハハハ……」と乾いた微笑をもらしていた。
でもこの2人は何だかんだで仲良しなんだ。
それから春平お別れパーティを開催した。
好きなように飲んで食べて騒いで遊んで……
そして楽しい時間はすぐに過ぎ去っていく。
静かな夜。春平はひとりで縁側に座っていた。
初めは、こんなところでやっていけるのかと不安になった。だけどすぐに、妙安寺は春平を受け入れてくれた。
みんなそれぞれ不安を抱えながら成長し、仲間を信じて楽しく過ごしている。
乙名も――楽しそうだ。
過去に何があったかなんて関係ない。
その過去をずるずる引きずって今を台無しにするなんて、バカらしい。
それを、痛い思いをしながら学んでいった。
もう、大丈夫。
また陽は落ちるけど、すぐに昇ってきて世界を照らす。
それを受け入れ理解するくらい、ほんの少しだけど大人になったかな。
翌日は、春平と乙名で早朝に出ていくことにした。
「結局こそこそ出ていくんだもんな」
呆れたように言う春平に、乙名はさらっと答えた。
「仕方ねぇよ。だってミミちゃん、また泣くだろうし」
「それは堪える」
「ま、俺は毎週来るし、春平だって、アロエから来れる距離だ。いつでも遊びに来ればいい」
遊ばなくても外部機関の妙安寺と関わらなきゃならなくなる可能性は高いので、これからも妙安寺には世話になるだろう。
「春平」
「ん?」
「ありがとう」
朝日を浴びて輝きながら、乙名は優しく目を細めていた。
子供のように、心から感謝を述べる素直な表情。
だからちょっと、照れ臭くなった。
「感謝される筋合いはない。感謝なら春子にしろよ」
「春子ぉ?」
心底不思議なのか、乙名が納得のいかない表情をしている。
春平のアロエ行きが決定したあの日、春平のもとに春子がやってきた。
いつもの鼻にかかる強気な笑みを向ける春子に、春平は疑問に思っていたことを問いただすことにした。
「なぁ。初めて乙名に会ったとき『死んじゃえ』って言ったの、あれは悪意なんかじゃないだろ」
唐突な言葉に、さすがの春子も一瞬目を見開いた。
「あら、どうしてそう思うの?」
「そういうやつじゃねぇかなって。このままにしたら乙名がダメになるの分かってて助け船出したんじゃねぇの?」
「――まぁ、あんたがアロエにいることも経緯も『とあるツテ』で知っていたから、それも利用して乙名を便利屋にいれようかなーって思っただけよ」
ひらひらと手を振りながら何気なく言う春子を見て、春平は目を閉じた。
「――実は嘘がヘタなんだな、お前」
「……仮にも本社フロントにそう言うこと言うの?」
「自分を守る嘘がヘタなんだよ。お前、そういうやつじゃないだろ」
「…………」
「それで、乙名を助けたかったんだろ?――ま、助けられた本人は春子にはめられたとかくらいにしか思ってないだろうけどな」
今度はすぐに答えが返ってこなかった。
その代わり、春子は顔をくしゃくしゃにして笑った。
目を細めて試すように、だけどどこか照れ臭くて恥ずかしそうに笑っている。
「さぁねぇー」
初めて見る春子の「笑顔」に鼓動が速くなる。
春平が不覚にも照れてしまったのを見逃さず、春子は「んじゃまた、本社で会いましょ」とあっさり逃げてしまった。
あのときの彼女の顔を思い出すだけで顔が綻ぶ。
一方の乙名は訳が分からず首を傾げるばかりだが、こいつは知らなくていい。
そしていつか、数年後数十年後、彼女の優しさにゆっくり気づいていけばいい。
「それじゃ、俺はとっとと行かなきゃ」
バイクに股がりヘルメットをつけて、乙名に挨拶をする。
お互い顔を合わせるとさすがに感傷的な気持ちになる。
だけどここは笑って別れたい。
「乙名!」
車に乗り込もうとする乙名を引き留めて、春平はにやりと笑ってみせた。
「髪、色変えんなよ。今度こそ誰かわからなくなるからな」
ニッと歯を出して笑うと、乙名もニッと歯を出して笑った。
「お前は馬鹿だからな。仕方ねぇからこのままにしといてやるよ!」
そして乙名の姿が車の中に消えていく。
春平は彼が出るよりも早くアクセルをいれた。
風が体にまきついてくる。
そして風は体を放れ、ようやく体の重たいものがすべてはがれたような気がした。
金も全部なくなった。
諜報科という重苦しい肩書きはついたけど、ようやくもとに戻れる。
ひとつ終わってまた始まる。
これから、また新たな生活が始まる。
心臓が高鳴り、春平はバイクを二度ふかした。
更新がずいぶん遅くなってしまいました……orz
ようやく諜報科編が終了しました。
いよいよ次回からはアロエでの日々が始まります!
しかし当然ながら平穏が待ってくれているわけではなく……