第106話 気づけたこと
翌日、病院で飛び降り自殺が起こった。
遺体はすぐに処理されてしまったが、血痕は乙名雄輝のものだと証明され、自殺したのは乙名雄輝だと確定した。
この日、乙名雄輝は肉体的に死んだ。
そして肉体も精神も死んでしまったむき出しの霊魂のような乙名は、便利屋本社へと連れていかれた。
大きなビルの地下には、自分と同じように死んだような表情の子供、春子のようにあっけらかんとしている子供がたくさんいた。
いや、「死んだような」というのはおかしい。
周りの大人の話によるとここにいるのは戸籍的に死んでいる人間ばかりのはずだ。
そんな中、ほとんど勝手に便利屋入社を決められた。
もともと親はおろか国からも引き離された存在である子供たちには断る理由も気力もなく、見知らぬ大人たちの言われるがままになるだけだ。
そして、この会社で常識を教えられ、
会社に必要な能力開発に全力を注ぎ込まされる。
その頃には子供たちの傷も心の奥へと顔を引っ込め始める。
いつまでもクヨクヨしていると会社にまで見放されてしまうから。
そんな仲間を見ているうちに、子供たちは競争社会へと取り込まれていく。
「………………」
乙名雄輝もまた、その規律と焦りに準じて生きていたが、ふたつだけ譲れないものがあった。
「乙名、また髪を染め直したんだってな」
上司に言われて、本来なら中学にあがる歳の乙名雄輝はむすっと唇を尖らせた。
「そんなプライベートなことは関係ないだろ」
「大有りだ。髪の毛とはそれだけで人物を判断する重要なポイントと成る。お前の一定の髪色は闇に紛れる便利屋として諜報科として、ネック以外の何物でもないんだよ」
「必要なときが来たら染めるさ」
「そういってこの間も幹部を殴り付けたと聞いたが?」
淡々とした物言いが何とも癪に障る。
乙名は小さく舌打ちをしてそっぽを向いた。
すると上司は乙名の耳を乱暴に引っ張りあげる。
「いってぇぇ!!」
「耳にぶら下がるのはもっと不愉快だ。これを取ったことなどないだろう。寝るときもつけてるんじゃないのか、ん?」
「馬鹿かよ。それに俺は敬虔なクリスチャンなんだから問題ねぇんだよ!」
「名前がないから洗礼も受けられないのに?」
「――うるさいっ!」
バシッ、と耳を引っ張る手を叩かれると、上司はため息をついて両手を腰に当てた。
「まったく、お前が沖田ほどの実力の持ち主じゃなかったら即刻見放されるような問題だぞ」
「知るかよ」
「――春子といいお前といい、どうして能力のある奴らはこうもひねくれた奴ばかりなんだろうな。まともなのは沖田だけか」
「いいから早くいけよこの暇人っ!」
乙名が犬歯を剥き出して吼えると、上司はやれやれといったように小バカにした雰囲気丸出しで背中を向けた。
――むかつく。
もやもやとした気持ちが、乙名の心を蝕んでいく。
と同時に、心の底に沈んでいた苦い記憶が蘇ってくる。
――少しでも、綺麗になれる気がしたのに。
胸元の十字架を握りしめて目を閉じると、頭の中にある人物が鮮明に浮かび上がってきた。
「……春平くん」
名前を口にした瞬間、乙名の中で何かが弾けとんだ。
次の瞬間にはもう、走り出していた。
そのまま子供がはしゃいで走り回るように、廊下を駆け抜ける。
諜報科の人間は、二重尾行がついて初めて外に出ることができる。
誰がいつ外部に情報を漏らすかわからないからだ。
――そんなこと、知ったことか。
無我夢中で出口へと突き進む。
途中、廊下で春子とすれ違った。
すれ違いざま、春子はいつものように強気に目を細めて口の両端をにやりと歪ませた。
まるで、これから乙名が何をしようとしているのか見透かしているかのように。
誰の目もなく自由に外に出ることがどれだけ幸せなのか、乙名は改めて喜びを噛み締めながら足を進めた。
間を置かずに上司が追いかけてくるだろうが関係ない。
今はとにかく、急いで逃げることだけに専念した。
正田春平は、実はアロエ店舗店長の養子なんだそうだ。
乙名が知らなかっただけで、数年前には本社の専門学校にも通っていた、店舗勤務予定にしてはやけに丹念な英才教育を受けた身だ。
乙名がこうなる前から、春平は便利屋とかかわり合いがあり、マークされていた。
さらには乙名と同じ事件に巻き込まれたことからも厳重注意の札付きだ。
――それはともかく、春平くんに会いたいならアロエに行けばいいってことだ。
死んだ子供たちは、便利屋の常識として店舗名や店長名にはあきたらずすべての住所も番号も、要注意人物も暗記している。
そんな乙名がアロエに行くなど造作もない。
体にまとわりついていた気持ち悪いどろどろとしたものがすべて風に流されていくような心地だった。
春平は生きている。
もしかしたら、自分のことを心配しているかもしるない。
ならば、自分は無事だと伝えなければ。
例え自分が『乙名雄輝の亡霊』だとしても、春平にだけは安否を教えたかった。
アロエには、ほとんど迷うことなくたどり着けた。
到着するとなんてことはない、カモフラージュとして喫茶店を模した小さな家だった。
何と言って入るべきなのか。悩んで家の前に立ち止まった。
アロエでは「お訪ね者です」がパスワードらしいが、自分はそれを言うことはできない。
だからといって「本社の者だ」なんてもっと言えない。
困り果てていると、背後から「おい」と声をかけられた。
体を震わせてからゆっくりと振り返ると――
夕暮れに染められて、ひとりの少年が立っていた。
短く刈られた頭、汚いジャージに細長い黒いバッグを背負って、自分と同じくらいの年齢の少年が、そこに立っていた。
「何かご用ですか」
ぶっきらぼうな物言いにぽかーんとしてから、乙名は「あっ、……」と小さく声をもらした。
それが誰なのか、乙名にはわかっていた。
わかっていたから、突然の再会に何と言えばいいのかわからなくなってしまったのだ。
自分が、正田春平を見間違えるわけがない。
助けを求めるように胸元のロザリオを握りしめて、しばし心を落ち着けた。
いつまでも玄関先に立ち往生している乙名に嫌な顔をしながら、春平は不可解な乙名を見つめていた。
だけど「退け」と言ってこないのは、もしかしたら乙名が客かもしれないと危惧しているからだろう。
しかしいつまで経っても動く気配のない乙名を見ていて、春平の表情は徐々に好奇心を帯びたものに変わっていった。
「なぁおい、すっげぇ茶色だな。学校で何も言われねぇの?」
「!」
しかしそれは、乙名には言ってはいけない言葉だった。
そうとも知らずに、春平は楽しそうに声をかけてくる。
「かっこいいなー。お前に似合ってる色だし。それって自分で染めんの?」
春平にしたらそれはただの世間話に過ぎなかった。
「俺も大人になったらお前みたいに染めようっと。今はさ、俺野球やってるからそんなんできねぇんだ。高校も野球の名門校行くつもりだし」
ニシシ、と楽しそうに笑う春平を見て、胸が締め付けられた。
自分でも表現できないもやもやとした黒い感情が生まれてくる。
「……知ってるよ、そんなの」
「えっ?」
呟いた言葉は、春平の耳まで届かなかった。
そして――乙名は人生最大といっても過言ではないミスを犯してしまった。
「――雄輝……くん?」
呼ばれて、どくんと心臓が脈打った。
その声には、嫌というほど聞き覚えがあった。
振り返ると案の定、綺麗な女性が立っている。
「咲ちゃん……」
言い逃れなんかできない。
美浜咲は、乙名雄輝のイトコにあたる人物で、当然乙名の身に起こった事件と「その結末」を知っていた。
だけどその結末を塗り替えるように、目の前には乙名雄輝がいる。
姿を見られた以上はどうにも言い逃れはできない。
アロエの中に招き入れられ、乙名はを美浜にいきさつを説明した。
ただし、「自殺に失敗し、偶然便利屋に助けられて働いている」というふうに多少事実は隠ぺいしている。
「でも俺が生きていることは絶対の秘密なんだ……だから」
「わかってる、言わない」
真剣な美浜の表情に、乙名の心が締め付けられた。
美浜はそう言ってくれているが、今この場で解決できる話ではない。
――俺の動向なんてすぐに本社にバレる。咲ちゃんが俺の秘密を知ったこともバレる。そうしたら咲ちゃんは何らかの圧力をかけられる……。
「雄輝くん」
そうして考え込んでいると、美浜がやわらかく微笑んだ。
「大丈夫よ。それがどれだけ大事なのかはわかってるから」
それは、これから自分が本社側から何かされるのを見越した上での言葉だと、乙名にはすぐに理解できた。
美浜は完全に理解できていない。
それでも、人の生死を隠ぺいしなければならないほどのことと言うのはわかる。
美浜の決意が乙名に襲いかかっていた。
自分の身勝手な行動で、無関係の人間が巻き込まれていく。
「ごめんなさい……」
涙が頬を伝っていく。
「俺、春平くんに会いに来たんだ……。なのに、咲ちゃんにまで迷惑かけて……」
美浜はしばらく沈黙して、乙名のすすり泣きを聞いていた。
幸か不幸か、春平は友達のところへ出掛けている。
「――会えたのね」
寂しげな言葉は、そのままストンと乙名の中に浸透していく。
会うことが本当の目的だというのなら、それは間違いなく果たされた。
だけど――
「俺に、気づかなかった……」
春平に気づいてほしかったのだ。
目的は、果たされなかった。
「俺を見ても思い出す気配もなくて」
それを聞いた美浜の目に涙が浮かぶ。
「しゅんちゃんにはあなたを抱え込むほどの器がなかったの。だから仕方なく記憶を隠ぺいしているわ」
そうだろうとなんとなくは思っていた。
正田春平は本社にとって危険因子以外の何者でもない。
記憶を隠ぺいできるならそうして、少しでも生前の乙名雄輝との関係性を絶つべきだ。
でも――それでも、悔しかった。
昔、彼だけが自分の存在を認めてくれた。
可愛い気がないと言われ続け、性格がだらしないから見た目もだらしないんだと見向きもされなかった自分を、春平だけが見てくれた。
茶色の髪が似合うと、彼だけが臆することも蔑むこともせずに自然体で声をかけてくれた。
その春平が、自分のことを隠ぺいされてもなお、髪の色を誉めてきた。
それほどまで根付いている記憶なのか、はたまたそのたった一言の誉め言葉が心の底から出たものだったからなのかはわからないが、とにかくやるせない気持ちになったのだ。
自分が苦しい思いをしているのに、そんなことも知らずに楽しそうに家族と呼べる人たちと暮らす春平。
記憶が隠ぺいされているのに、それでも自分を誉めてくれた春平。
また、声をかけてくれた春平。
でも、本当はわかってほしかった。
今でも変わらない髪色を見て、乙名雄輝だと気づいてほしかった。
ふつふつと沸き上がるのは、悔しさと怒り。悲しさと虚しさ。
憎い。
すべてのもやもやした感情は、その一言で集約された。
その日は、諜報科の上司に連行されて一日中折檻を受けた。
春平とは、別れの言葉も交わさずに別れた。
それから、春平が本社に来ることになったのを聞いた。
しかし会うつもりなど毛頭なかった。
会いたいという気持ちは微塵もなく、もやもやしたさまざまな感情は月日が経つうちに完全に「憎い」の一言で表せるようになってしまっていた。
それでも頑なに髪色を変えようとしなかったのは、心のどこかでまた春平に出会ったときには気づいてもらえるかもしれないという気持ちが少しでもあったからだろう。
そして、再び顔を合わせるときがやってきた。
夜中、リビングでケーキを食べようとしていた春平に、気づかなかったわけじゃない。
たとえ自分が諜報科、はたまたフロントとして全社員を把握していなくとも、たとえ妙安寺に春平のデータが送られてこなくても、自分はすぐに春平だと気づけたと思う。
だけど、気づかないふりをした。
「ミミちゃんの彼氏か?」
いつもいつも、自分だけ気づかれずに春平を認識するのが何だか不公平な気がして、大人げない反応をした。
同僚としてとりあえず表面的に付き合うつもりで、春平の前では素の感情を見せなかった。
素直な表情など見せるつもりもなかった。
人の苦労も知らずにのうのうとしていた奴に好意など寄せるものか。
子供のように、自分をねじ曲げようとはしなかった。
だけど、できなかった。
自分が春平を憎むことなんて、できるはずもなかった。
一緒にいるうちに、過去のことなんて全部なしにして、正田春平という人間に好意を持ってしまった。
昔と何ら変わらない態度で自分に接してくる春平を、嫌うことなんてできない。
春平が隠ぺいされた記憶を思い出して苦しんでいるのを見て、胸が締め付けられるような思いがした。
何度も憎もう憎もうと思ったが、それでもできなかった。
そして、再び別れるときがやってきた。
だけどもうこのときには、春平に対する憎しみなんてまったくなかった。
だからこそ、最後くらいはしっかりと「別れ」を告げるべきなんだと思った。
「ばいばい、春平くん」
そうしてまた、すれ違い別の人生を歩んでいくことを決心した。
――はずだったのに、春平は予想外の行動に出た。
たった数ヵ月の関係の乙名のために命を棄てる。
突拍子もない事態に対して溢れだしたのは怒り。
なぜそんな馬鹿げたことをするのか、こいつには自分というものがないのか。
だけど春平の答えは、いかにも春平らしいものだった。
それからもう、春平に隠し事なんてできないと思った。
春平になら、すべてをさらけ出してもいいと思った。
自分にとって正田春平とは、それほどの魅力を持った人物なのだと、ようやく理解した。
あの事件から10年経って、ようやくそれを認めることができた。
前回更新から時間が経ってしまいました。
乙名は子どもです。
春平に気づかれたいと思っていたのに気づいてくれなかったのが悔しかったんです。
自分のほしい幸せを手に入れて楽しく暮らしている春平が憎いけど、でもそれでも憎みきれなかった。
乙名にとって、春平は唯一無二の存在だから。
自分を真正面から見てくれる、ただひとりの人だから。