第12章
ネルはラスクリン邸に続く坂を駆け上がりながら剣を抜いた。彼を支配するものは「怒り」。ただそれだけだ。
門の前まで来ると、あくびをした門番がその顔を門番小屋から出した。
「お名前は……?」
ザンッ
ネルは勢い任せに門番の首を切り落とした。傷口から血が噴き出て、ネルの顔と服を濡らす。ネルはしばしその場に立ちつくし、目が見開いたまま残骸と化した門番の頭部を見た。
急に吐き気が込み上げてきて、ネルは胃にため込んだもの全てを吐き出した。自分は、殺したのだ。一人の人間を。
「はぁ、はぁ」
嘔吐が終わっても、胃の中はまだ気だるかった。しかし、もう時間はない。ネルは口元を拭うと、すぐさま剣を握り直して屋敷の中へと忍び込んだ。
広い屋敷だった。ネルが今までに見たとこのないスケールだった。天井までの高さも、壁と壁の間の長さも。昼間と見間違えるほどの照明はすべてシャンデリアだった。数えきれないほどの扉は何の部屋につながっているのかわからない。
「!」
ネルは近くにあった彼の背丈よりも大きい花瓶の陰にばっと隠れた。ある部屋から身なりを整えた執事が姿を現したからだ。執事はネルに気付かず、すたすたと歩いてくる。ネルは花の隙間から執事の動向をうかがい、近づいたところでぱっと飛び出した。
「だれっ……うわぁっ!」
叫ぼうとした執事の腕を深く切りつけたネルは、鬼のような形相で彼に詰め寄った。
「ラスクリンの部屋はどこだ。今ライラという女が連れ込まれているはずだ。言え」
「あ……あ……」
口をパクつかせながら、執事は震える指を廊下の奥へと向けた。ネルはその指先を一瞥して、執事に向き直った。
「たす……たすけ、あ゛ぁっ!」
ネルは執事の喉に剣を突き立てた。裂けた喉笛からひゅうひゅうと音が漏れる。そこから血が噴き出し、執事の男はこと切れた。
ネルは剣についた血を振り払うと、男の骸をそのままに廊下の奥へと進んだ。進んだ先は、先ほどの明るい部屋とは違い、少し薄暗かった。足音に気を付けながら進むと、目の前の部屋からメイドが現れた。まだ若い、きれいな女性だった。
「きゃああああ!」
メイドはネルの姿を見て悲鳴を上げた。血に濡れたその姿は、鬼のそれと重なった。
一目散に逃げようと背を向けたメイドを無残に斬り捨て、ネルはさらに進んだ。すると、一番奥の部屋から物音がして、ドアが開いた。
姿を現したのは、でっぷりと太った体をガウンで包んだ豚のような初老の男だった。禿げ上がった頭には脂汗がにじんでいる。この屋敷の持ち主、ラスクリン伯爵だ。
「何の音だ……うわぁ!」
物音を不審に思った伯爵が部屋の外に出ると、血塗れのネルが立っていた。ネルはラスクリンを見ると、額の血管を浮き上がらせて眉間に皺を寄せ、彼を睨みつけた。
「お前が、ラスクリンか」
自分のものとは思えないような低い声が出る。まるで地獄の底から這いあがってきたような声だった。
哀れな醜い豚は尻餅をつき、そのままにじり寄るネルから逃げるように後退した。ネルは伯爵にじりじりと詰め寄り、剣を振り上げた。
「ネル……?」
そんなネルのもとに、かすれた声が届いた。ネルが声のした方を見ると、そこには薄い下着だけを身に着けたライラが立っていた。ライラはまるで壊れた人形のようだった。目に生気はなく、焦点もあっていない。四肢もだらんと垂れ、体はあるのに魂だけが抜けたようだった。
「ライ……ラ。まさか……」
「ネ……ル……」
壊れた機械仕掛けの人形のようになったライラの目から、涙が流れた。明後日を見ている目はそのままに、まるで涙が流れる仕掛けになっているように、泣いていた。
「……ッ!」
ネルの体中に、沸騰した怒りが駆け巡る。少年は自分を制御できないまま、ラスクリンに躍り掛かった。
「うわぁっ!」
ネルは倒れていたラスクリンの上に馬乗りになり、地面と垂直になった剣を振り下ろした。ラスクリンの「ぎゃっ」という最期の悲鳴もネルには届かない。彼は何度も何度も、血に濡れた剣をラスクリンの体に突き立てた。
ガキン、という音がしてネルは我に返った。ラスクリンの体を貫通した剣が地面とぶつかり、曲がった。ネルは息を切らし、ラスクリンの亡骸を見下ろした。その目には、冷たく鋭い光が宿っていた。
「ネル、ネル……」
ライラはネルの名を呼んでいた。狂ったように、何度も。まるで「ネル」という単語しか知らないように、何度も。
「ライラ。ライラ」
それに呼応するようにネルもライラを呼ぶ。ネルは血がべっとりとついた手のまま、ライラの頬を撫でた。ライラは静かに微笑み、うまく回らない口を動かした。
「ネル……ア、アイ、愛してる……」
「―!」
ネルは言葉にできない感情を声にならない叫びに変えた。そして再び剣を振り上げ―
「ライラ……ライラ!」
ネルは少女の名を呼んだ。胸を真っ赤に染めて倒れる少女の体を抱きしめた。ライラは苦しそうに息をして、今にもこと切れそうだった。
「ライラ……愛してる。俺達は、ずっと一緒だ」
ネルがライラの耳元でささやく。するとライラはふっと微笑み、静かに短い生涯を閉じた。
ネルはライラの骸を抱いたまま立ち上がり、そのまま屋敷を出た。