第11章
事件が起こったのは、一週間後のことだった。夕方時、子供たちの内の一人、ワビルがネルの地下室に飛び込んできた。仲間の合図であるノックも忘れ、ワビルはネルのもとに走ってきた。
「何だ、一体」
昼寝をしていたネルは突然の物音に驚いて急いで身を起こした。ワビルは血の気の引いた顔でネルに詰め寄った。
「大変だ、ライラがさらわれた!」
事件が起こったのは、つい十分前。
ワビルがいつものようにオレンジを盗もうとして、果物屋に近づいた時だった。
「あ、お前この間の!」
店の主人がワビルに気付いた。以前この店で盗みを働いた時に顔を覚えられていたのだ。
「ヤバッ!」
ワビルは急いで踵を返したが、すでに店主はワビルの首根っこをつかんでいた。
「離せよっ!」
「誰が盗人をみすみす逃がすか!このっ……!」
振り上げられた拳を見て、ワビルは背筋に寒気が走った。つい最近見たばかりのトルネの顔が脳裏に浮かぶ。
「ちょっと!」
そんなワビルの耳に、聞きなれた甲高い声が聞こえた。ライラだ。
「私の弟に何してるの!すぐ手を離して!」
「何だお前?コイツの姉貴か?なら……代わりに受け取れっ!」
再び振り上げられた腕を見て、ライラは目をつぶった。痛みは覚悟の上でその隙にワビルを逃がす。そう算段をつけ、歯を食いしばった。
「あーっ!」
しかし拳はそのまま停止することになった。野次馬をしていた一人の男が声を上げたからだ。
「あっ……!」
ライラはその男の顔に見覚えがあった。自分がラスクリン伯爵の屋敷に連れていかれた時にいた門番だ。ネルに向う脛を蹴飛ばされて、ライラを逃がしてしまったあの男。ライラは瞬時に身を固くした。
「見つけたぞ、あんときゃよくも……!」
男がライラに向かって猛進してくる。逃げたいが、まだワビルが果物屋の店主に捕まったままだ。
その一瞬の迷いが命取りとなり、ライラは門番の男に捕まってしまった。男は暴れるライラの頬を張って、両手をつかんだ。
「店主、すまんね。こいつはもらっていくよ」
片手だけでライラの両手を封じ込めた男は、もう片方の手でいくつかのコインを店主に握らせると、そのままライラを連れて行ってしまった。
ワビルは何とか隙を見て逃げ出し、ネルの地下室に走った。
「ウソだろ……」
ワビルから話を聞いたネルは真っ青になって冷や汗を流した。このままいけば、ライラは伯爵に差し出されてそのまま餌食になってしまう。それだけはどうしても許せなかった。
ネルは弾かれたように立ち上がると、部屋の隅のタイルを二枚はがした。するとそこから、銀光りする一本の剣が現れた。ネルの背格好には不似合いの長い剣だったが、ネルはそんなことは気にせずにその剣を担いだ。
「ネル!待って!」
ワビルの声などネルの耳には届かず、彼はただ走った。
世界を、自分を悲観することしかできなかった自分。そんな自分の心の拠り所となっていたライラ。ネルは自分に驚いていた。まだ自分に人を愛する心が存在していたことに。そしてそれを気付かせてくれたのは他でもない、ライラだ。キスをしたあの夜以来、恥ずかしくて手もつなげなかったが、それでもライラはネルの隣にいてくれた。誰よりもネルを理解し、愛してくれた。
そんなライラが今、汚れた醜き男の手によって穢されようとしている。太く暑い手や指が、あの清廉なライラに向かって伸びていく。悪魔の手が、ライラの中に入り込もうとする。
「うああああ!」
ネルは叫びながら駆けた。背中には大きく重すぎる剣を背負って。息が切れるのなど気にしない。すべてはライラのために、一人の少年は夜の街を疾走した。