悪役令嬢に一日だけ家族のふりを頼まれましたが、娘が「明日」の話ばかりします
第一章 一日だけの依頼
「誕生日の夜、一日だけでいいので、まるで家族のように、一緒に温かい食卓を囲んでほしいのです」
そう言われて、私は手元の注文票からゆっくりと顔を上げた。
出張料理の打ち合わせのつもりで訪れたヴァレル子爵邸の応接室。正面の上等な革張りの長椅子に腰掛けるうら若い当主様は、一切の冗談を交えぬ真剣な眼差しで、途方もないことを口にしていた。
オルナ・ヴァレル子爵。
二十二歳のとき、病でご両親を相次いで亡くし、家督と爵位を継いでまもなく二年になる。社交界の噂では、彼女の名には常に芳しくない評判がついて回っていた。
感情を一切表に出さず、使用人のわずかな過失も許さず即座に叱責する「氷の当主」。厳格すぎる性格を疎まれ、結ばれるはずだった婚約も白紙になった「悪役令嬢」。
だが、私の目の前に座る当主様は、冷徹な支配者というよりは、分厚い氷の鎧を身にまとって微動だにできなくなっている人のように見えた。
背筋は定規を当てたようにまっすぐで、淡い金色の髪は一筋の乱れもなく結い上げられている。膝の上に重ねられた両手は、細く白く、強張っていた。
「……恐れながら、オルナ様」
私は呼吸を整え、料理人として言葉を選んだ。
「私は町で『木匙亭』という小さな食事処を営んでいる料理人にすぎません。公の席でご家族の代役を務めるような芸当はいたしかねますが」
「公の場ではありません。誕生日の夜、この屋敷の小さな食堂で、私と夕食を共にしていただきたいのです」
オルナ様は静かに告げた。
「お料理の評判は伺っています。以前、町の視察の帰りにあなたの店の前を通りかかりました。夕刻の厨房の明かりの下で、あなたとお嬢さんが、同じ鍋のスープを分け合って召し上がっていた」
記憶を手繰る。仕込みを終えた後の、遅い夕餉の風景だ。あの日は肌寒くて、余り物の野菜と塩豚の鍋をテーブルの真ん中に置き、五歳の娘とふうふう言いながらパンを浸して笑い合っていた。
「あのとき、あなた方は互いの顔を見て、今日あったことを話し、笑いながらパンをちぎり合っていました。……私が求めているのは、あれです。大食堂で召使に注がれた葡萄酒を無言で口に運ぶ儀式ではありません。誰かと皿を回し合い、他愛のない話をして、同じ温かいものを喉に通す時間です」
オルナ様の瞳に、かすかなためらいが差した。
「誕生日の記念料理の仕込みと手間賃として、銀貨二十枚をお支払いします。どうか……お受けいただけないでしょうか」
代金を提示する口調は酷く真剣だった。料理の仕事としてでなければ、「一緒に温かいものを食べてほしい」と頼むのは、この人にはひどく難しいことなのかもしれない。
「私には五歳の娘がおります。出張料理の際、店に一人で留守番をさせるわけにはいきません」
「ええ、もちろん存じています。ぜひお嬢さんもご一緒に、私の小さな食堂へいらしてください」
私は母親として、しっかりと念を押した。
「娘はまだ五歳で、堅苦しい作法は身についていません。疲れたり怖がったりしたら、食事の途中でも失礼させていただきます。それでもよろしければ」
「構いません。約束します。お嬢さんにも、あなたにも、不快な思いはさせません」
オルナ様はまっすぐに私を見つめ、即座に頷いた。その言葉に嘘はないと、長年客商売をしてきた勘が告げていた。
店に戻り、娘のテトに話をした。夫を亡くしてから、女手一つで育ててきた子だ。
「テト。今度のお休みの前の日、大きなお屋敷のお姉さんのところへお料理を作りに行くんだけどね。お誕生日なんだって。テトも一緒にお席に座って、おいしいスープを食べてほしいって。行ってみる?」
テトは大きな茶色い目をぱちくりとさせ、それから満面の笑みを咲かせた。
「いく! おねえちゃんのおたんじょうび? テト、おめでとうっていう!」
こうして、子爵家の冷酷令嬢と下町の料理人母娘による、「一日だけの家族」の約束が結ばれた。
第二章 遠い食卓
誕生日の当日。初夏の陽光が西の空に傾き始めた頃、私とテトは子爵邸を訪れた。
案内された厨房は、さすが貴族の館という広さだった。銅鍋一つ曇りなく磨き抜かれているのに、どこか静まり返って日頃の生活感が薄い。
私は持参したエプロンを締め、腕をまくった。
本日の献立は、香草を効かせた鶏肉と野菜の煮込み、表面を香ばしく焼き上げた丸ごとの麦パン、柑橘と葉野菜のサラダ。そして、新玉ねぎと人参をことこと煮込んで裏ごしした、温かいポタージュスープだ。
テトは厨房の隅で、茹でた人参を器用に星形に抜いて手伝ってくれた。
「おかあさん、おほしさまできたよ!」
「ありがとう、テト。スープの真ん中に浮かべようね」
料理が出来上がる頃、家政婦頭のヘルミさんが控えめに顔を出した。初老の女性で、常に何かに怯えているような神経質な面持ちをしている。
「料理人さん、準備はよろしいですか。……当主様がお待ちです」
案内されたのは中庭を望む小さな朝食用の食堂だった。
円卓には白い麻のクロスが敷かれ、三人分の器が並んでいる。
そして上座には、深い群青色の清楚なドレスに身を包んだオルナ様が座っていた。背筋をまっすぐに伸ばした姿は絵画のように美しいが、その表情は厳しい尋問にでも臨むかのように硬い。
「……お待ちしていました。どうぞ、席へ」
オルナ様が短く声をかける。だが、用意された椅子の配置を見て、私は小さく息を呑んだ。
円卓であるにもかかわらず、オルナ様の席と私たちの席が不自然なほど離れていたのだ。上座と下座の境界を引くように、二脚分の空白が空いている。三人分の器があるのに、彼女だけが遠い。
「よいしょ、よいしょ」
小さな掛け声とともに、テトが自分の木製の椅子を両手で掴み、ずりずりと引きずり始めた。
「テト!?」
私が止める間もなく、テトは絨毯の上を滑らせ、オルナ様のすぐ隣まで椅子を運んでしまった。
「ここ! ここがいいの!」
満面の笑みで胸を張る娘に、オルナ様は目を丸くして固まった。
「お、お嬢さん……? それは……」
「テト、待ちなさい。……申し訳ありません、オルナ様。すぐに戻しますから」
「だめー! おとなりがいいの! おいわいのおうたうたうとき、とおいとおかおがみえないもん。オルナちゃん、おとなり、めっ?」
まさかの「オルナちゃん」呼びに、背後のヘルミさんがヒッと息を呑んだ。
無作法だと叱責されてもおかしくない。私は咄嗟にテトの肩に手を添えた。
だが、オルナ様は怒るどころか、途方に暮れたように瞬きを繰り返した。
「……めっ、ではありません。ただ、無作法ではないかと……いえ、私が不快なのではなく……」
彼女は膝の上で指をぎゅっと絡め、視線を泳がせた。
「……隣で、構いません。どうぞ、お掛けになってください」
その声は驚くほどか細かった。
私はテトの隣に自分の椅子を引き寄せ、料理を並べた。
オルナ様は、目の前のスプーンを見つめたまま動かない。
「……オルナ様? お口に合いそうにありませんか?」
「いえ……その、食べ始める手順は、どうすればよいのでしょうか。主賓が合図を出すべきか、それとも年長者から手を付けるべきか……」
真面目な顔で儀礼を確認する彼女に、テトが不思議そうに首をかしげた。
「スープ、さめちゃうよ? ふーふーしてたべるの。おかあさんのスープ、すっごくおいしいんだから!」
テトが小さな手でスプーンを握り、ふーふーと息を吹きかける。
オルナ様は呆気に取られたように見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……そうですね。冷めないうちにいただくのが、一番の礼儀ですね」
オルナ様がスプーンを取り、スープを一口含む。
「……甘い。玉ねぎの甘みでしょうか。とても……優しい味がします」
「新玉ねぎをじっくり炒めてから煮込みました」
私が微笑むと、テトが得意げに胸を張った。
「あしたね! テト、おみせのうらでダンゴムシみせるね!」
「ごほっ」
オルナ様が小さくむせた。
「テト、お食事中に虫のお話はしないの」
「えー。まるまるんだよ? あしたね、おかあさんのまんまるパンもやくんだよ。オルナちゃんもたべる?」
きらきらした目で「明日」の話を繰り出すテトに、オルナ様は困惑を隠せない。
「あ、明日は……契約に入っていません。この食事は、本日限りの約束ですから」
「けいやく? けいやくって、なぁに?」
「約束のことです」
「じゃあ、あしたもいっしょにたべるやくそくしよう!」
屈託のない笑顔に、オルナ様は言葉を詰まらせた。
そのとき、ヘルミさんがワインの瓶を乗せた銀のトレイを運んできた。
だが、サイドテーブルに置く際、カチャリと甲高い金属音が響いた。
オルナ様の表情が一瞬で鉄のように硬化した。
「ヘルミ」
「はいっ、当主様!」
「音が立ちましたよ。手元を確認してから置くようにと、何度も注意しているはずです。なぜ同じ過ちを繰り返すのですか」
「も、申し訳ございません……!」
ヘルミさんは青ざめ、縮こまるように頭を下げた。
「……もう結構です。下がりなさい」
逃げるように出ていくヘルミさんの背中を見送りながら、私は息を詰めた。
確かに厳しい。だが、オルナ様の横顔は、怒りというより苛立ちと不安で自らを追い詰めているように見えた。膝の上で握りしめられたこぶしは白くなっている。
重苦しい空気が食堂を満たしかけた、そのときだった。
第三章 失敗してもなくならない席
バシャッ、と小さな水音が食堂に響いた。
「あ……っ!」
テトの小さな声。パンをスープに浸そうとしたテトの肘が、皿の縁に当たってしまったのだ。
皿が傾き、白い麻のクロスの上に温かいポタージュスープが広がった。テトの袖口にも飛沫が跳ねている。
オルナ様が息を呑んだ。こぼしたのはテトなのに、叱られるのは自分だとでもいうように、肩をすくめて身を硬くしている。
オルナ様が唇を開きかけた、まさにその刹那――。
「やけどしてない!?」
私の口から飛び出したのは、叱責ではなく確認だった。
私は立ち上がり、テトの手元と服を素早く確かめた。
「熱くなかった? 大丈夫?」
「……ううん。あつくないよ」
「そう、よかった……! 少し冷ましてから出しておいて正解だったわ」
心底ほっとすると、テトは事の重大さに気づいたようで、目に涙を溜めて肩を縮こまらせた。
「ご、ごめんなさい……おかあさん、オルナちゃん、スープ、こぼしちゃった……」
今にも泣き出しそうな娘を、私は安心させるように見つめた。
「びっくりしたね。無事でよかった。でもね、こぼしたところは一緒に拭こうか。自分のハンカチを出せる?」
「う、うん……っ!」
テトはエプロンから布を取り出し、私も腰の布巾を広げて手早くスープを吸い取っていく。テトも一生懸命にテーブルを拭いた。
物音を聞きつけたヘルミさんが、替えのナプキンを抱えて駆け込んできた。
「ヘルミさん、すみません! 娘が粗相をしてしまって」
「まあ……お嬢ちゃん、お怪我はございませんでしたか?」
「はい、大丈夫でした。お手間をおかけして本当に申し訳ありません。テト、ヘルミさんにもちゃんと言って」
「ヘルミさん、ごめんなさい。ありがとうございます……」
テトがぺこりと頭を下げると、ヘルミさんはほっとしたように目元を緩め、「ご無事で何よりです」と微笑んでくれた。
新しいナプキンを敷き、私は小鍋からテトの器に少し控えめの量のスープを注ぎ直した。
「はい、どうぞ。次は、空いている手を器に添えようね」
「うん! いただきます!」
テトは何事もなかったかのように自分の椅子に座り直し、スプーンを握った。
娘の席は、どこにも消えていない。
オルナ様は信じられないものを見るように、ただ呆然と見つめていた。
「……オルナ様? お召し物には跳ねておりませんでしょうか」
「……え? あ、いえ……私には、何も」
オルナ様は掠れた声で答え、指先を震わせながら、テトを凝視した。
「……叱らないのですか」
「え?」
「粗相をしたのですよ? 高価な麻のクロスを汚し、食事の空気を乱した。……それでも、このまま食べていてよいのですか」
その問いかけには、怒りではなく痛切な混乱と恐怖が滲んでいた。
私は静かにオルナ様の瞳を見つめ返した。
「わざとこぼしたわけではありませんから。何より大切なのは、この子が熱い思いをしていないか確かめることです」
「ですが……汚れたではないですか」
「汚れは、私がきちんと始末します」
私はあっさりと答えた。
「汚れたら片づければいいですし、悪かったら謝ればいい。それだけで、この子がご飯を食べる資格を失うわけではありませんよ。失敗したからって、この子の席を奪う理由にはなりません」
「失敗しても……席はなくならない……?」
オルナ様はその言葉を小さく繰り返した。
そして、彼女の瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「オルナ様!?」
オルナ様は両手で顔を覆い、しゃくりあげるように肩を震わせた。
「……母は……私が幼い頃、スープをこぼしたときも、先に手を拭いてくれました……。それなのに私、そんな大切なことも忘れて……」
指の隙間から言葉が溢れ出す。
「二十二で当主になってから……周りは陰口ばかりでした。若い娘に家が守れるはずがないと。……弱みを見せたら、家を守れなくなる気がして。少しの粗相も、気の緩みも許されないと思って……」
オルナ様は息を継ぎ、目の前のスープを見つめた。
「いつの間にか、何一つ間違えてはならないと思い詰めていました……」
社交界で「冷酷な悪役令嬢」と蔑まれる子爵家当主が、迷子の子供のように泣いている。
「婚約のお話も……『他人の失敗を責め立てるような人とは添い遂げられない』と白紙になりました。……それでも、どうすればいいのか分からなくて。失敗したら、私もこの家の当主の席を追われるのだと……ずっと、怯えていました……」
私は何も言わず、彼女の背にそっと手を添えた。
目の前で泣いているのが、必死に家を守ろうとして息切れしてしまった二十四歳の女性であることだけは分かった。
「オルナちゃん、なかないで」
テトがオルナ様の膝にそっと手を重ねた。
「おかあさんのスープ、おいしいよ。のんだら、げんきになるよ」
オルナ様は顔を上げ、涙に濡れた顔でテトを見た。
「……うん。……ありがとう、テト」
オルナ様が震える手でスプーンを取り、涙を拭いながらスープを口に運んだ。
落ち着きを取り戻し、三人で鍋の煮込みを分け合っていると、テトが果物籠の赤い実を指差した。
「オルナちゃん、イチゴすき?」
「……ええ。大好きです」
オルナ様は穏やかに微笑み、目を細めた。
「昔、誕生日には、父と母と庭の苺を食べたのです。甘酸っぱくて、大好きな味でした」
その言葉には、もう先刻のような刺々しい影はなかった。私たちは丸い麦パンをちぎり合って、温かな食事を最後まで共にした。
第四章 またあしたの招待
食事が終わり、厨房の片づけを終えた後、私とテトは身支度を整えて玄関へと向かった。
玄関ホールには、オルナ様が一人で立っていた。
涙の痕は拭われ、いつもの凛とした佇まいに戻っていたが、その眼差しに刺々しい警戒心はなかった。
「サフィさん。本日は、本当にありがとうございました」
オルナ様はずしりと重みのある革袋を差し出した。
「約束の報酬です。銀貨二十枚。……あなたが提供してくださったものに対して、これでは安すぎるくらいですが」
私は革袋を受け取り、しっかりと頭を下げた。
「確かに頂戴いたしました。本日は木匙亭にご用命いただき、誠にありがとうございました」
今夜は仕事として料理を作り、約束の代金をいただいた。遠慮せず、ありがたく受け取っておこう。
代金を鞄にしまい、背を向けようとした、その時だった。
「オルナちゃん、ばいばい! またあしたね!」
テトが満面の笑みでぶんぶんと手を振った。
オルナ様は動きを止め、慌てて財布袋に手を伸ばした。
「あ……明日の分もお支払いするべきでしょうか。追加の契約金が必要でしたら、いくらでも用意いたします。明日も同じ時間に来ていただけるのでしたら――」
真剣な表情の彼女に、私は思わず吹き出してしまった。
「ふふっ……オルナ様。明日の分のお金は要りませんよ」
「え……? ですが、契約を延長しなければ、あなた方に無理を……」
「契約の延長ではありません」
私はオルナ様の目をまっすぐに見つめた。
「テトが、あなたをうちに招きたいと言っているんです。そして私も……もしオルナ様がよろしければ、我が家の粗末な食卓にお招きしたいと思っています」
「私を……招待、ですか……?」
「ええ。明日は仕込みが早く終わる日ですから、三人分の夕食を用意するのは造作もありません。もちろん、子爵様がお忙しいのも、町民の大衆料理がお口に合わないかもしれないのも承知の上です。お断りいただいても一向に構いません。ただ、もし温かいスープが飲みたくなったら、いつでもいらしてください。裏口のドアを叩いてくだされば、席を用意してお待ちしています」
オルナ様は息を呑み、胸元に手を当てた。
「……代金も払わずに、行って……本当によろしいのですか」
「お友達を夕飯に呼ぶのに、お金を取る人はいませんよ」
私の言葉に、オルナ様の白い頬がぽっと赤く染まった。
「……はい。ご都合がよろしければ……ぜひ」
小さな、けれど確かな返答だった。
帰り道、夜風に吹かれながら、私は娘を期待させすぎてがっかりさせないかという不安を少し抱えていた。貴族の当主が、本当に町民の食堂の裏口に来るだろうか、と。
けれど、その心配は翌日の夕暮れにあっさりと吹き飛んだ。
トントン、と遠慮がちに木匙亭の裏口をノックする音が響いたのだ。
戸を開けると、地味な焦げ茶色のフード付き外套を被り、少し所在なさげなオルナ様が立っていた。
「……こんばんは、サフィさん。このたびは夕食へお招きいただき、誠に――」
「パン、かたくなるよ!」
奥から駆け寄ってきたテトの一声に、オルナ様は目を丸くし、それからふっと肩の力を抜いた。
「……お邪魔します」
そして食卓に着く前、テトはオルナ様の手を引いて勝手口から小さな庭先へと連れ出した。二人で並んでしゃがみ込むと――。
「オルナちゃん、みて! このこ、まるちゃん!」
テトの手のひらには、ころんと丸まった黒いダンゴムシ。
オルナ様は外套の裾が汚れるのも構わずに膝をつき、真剣な顔で観察した。
さらに、オルナ様が足元でもう一匹丸まっているのを指差した。
「では、こちらの子は?」
「まるちゃん!」
「……皆さん、同じお名前なのですね」
立派な子爵様が五歳児と真顔でダンゴムシを囲む姿がおかしくて、私は台所から声をかけた。
「紹介が終わったら、二人とも手を洗ってね。焼きたてが冷めちゃうわよ」
「「はーい!」」
一日だけの約束だったはずの席は、こうして、二日目の食卓へと続いていった。
第五章 食卓で知る素顔
何度か一緒に食卓を囲むうち、窓辺から差し込む日差しが、少しずつ強くなってきた。
オルナ様は週に一、二度、公務の合間を縫って我が家へ夕食を食べに来るようになった。
もちろん毎日ではない。領地経営の仕事はあるし、我が家にも仕込みや生活がある。都合の合わない日は手紙が届き、また次の夕食を楽しみに待った。
ある日の午後、買い出しの途中で、広場で書類を手に指示を出しているオルナ様を見かけたことがあった。
周囲の役人たちをきびきびと導く姿はまさに一家の当主そのもので、テトが「オルナちゃ――」と駆け寄ろうとしたのを、私は「今はお仕事中よ」とそっと制した。
すると、こちらに気づいたオルナ様は、真剣な指示の言葉を一切途切れさせないまま、書類を持っていない方の手で、私たちへ小さく手を振ってくれた。テトも嬉しそうに、胸の前で精いっぱい小さく振り返した。
テトは広場を通り過ぎてからも、しばらく上機嫌だった。
食卓を囲むたび、オルナ様の知らなかった一面にも触れるようになった。
ある雨の日。
「オルナ様、今日はトマトと白身魚のハーブ煮込みにしようと思うのですが、いかがですか?」
「あ……はい。あの、サフィさん」
オルナ様は少し口ごもり、おずおずと言った。
「私……ハーブの香りが強いものが、とても好きです。先週のスープも、タイムの香りがとても心地よくて……」
「まあ! じゃあ、今日はタイムを多めに効かせましょうね」
私が笑うと、オルナ様は安堵したように目を細めた。
やがて彼女は、苦手なものについても話すようになった。
野菜スープを出したとき、オルナ様が器の隅のセロリを見つめて固まっていた。
「オルナ様、苦手なものがあれば残してくださいね」
「い、いえ、作っていただいたものを残すなど……!」
「苦手なものまでおいしそうに食べられたら、私、得意になってまた出しちゃいますよ」
私が悪戯っぽく笑うと、オルナ様は真っ赤になって俯いた。
「……少し、セロリの独特の苦みが苦手でして……。次は、私の分だけ少なめにしていただけると、嬉しいです」
「了解しました! 次は人参を多めにしておきますね」
自分の希望がすんなり受け入れられたことに、オルナ様は嬉しそうに頷いた。
また、公務が立て込んで来られなかった週の翌週、席に着いたオルナ様がぽつりと呟いたことがあった。
「……先週は、少し寂しかったです」
「テトも、玄関ばかり見ていましたよ」
「おかあさんも『きょうはスープあまっちゃうな』っていってた!」
「……テト」
私が目をそらすと、オルナ様は困ったほど嬉しそうに笑った。
その日の夕食後、テトは紙を広げ、クレヨンを走らせていた。
「これ、オルナちゃん!」
差し出された紙を見て、オルナ様は驚いたように目を見張った。
「……私は、笑っているのですね」
「だって、いま、わらってるもん!」
テトは屈託なく笑う。オルナ様はその紙を両手で受け取り、折れないように大切に手帳に挟んだ。手帳を閉じたオルナ様は、少ししてから、もう一度だけそっと開いて嬉しそうに眺めていた。
ある週末には、厨房でジャガイモの皮むきを手伝ってくれた。包丁を握ったことのないオルナ様の手元はおぼつかず、削り取られたジャガイモはサイコロ大に小さくなってしまった。
「申し訳ありません、食材を無駄にしてしまって……! 私には、こんな簡単なことすら……」
言いかけて、オルナ様は口を閉じた。細く息を吐き、今度は手元ではなく、私の顔を見た。
「サフィさん……上手にできません。どうすれば薄く剥けるか、手伝っていただけますか?」
「もちろんですよ! 包丁をこう持って、親指を添えて……ほら、滑らせるように」
「こう、でしょうか……? あ、薄く剥けました!」
二つ目のジャガイモは、ちゃんとジャガイモの形をしていた。オルナ様はそれを、しばらく嬉しそうに眺めていた。
また、別の日の夕食後。私が帳簿の前で頭を抱えていると、オルナ様が声をかけてくれた。
「サフィさん、どうかされましたか?」
「この足し算、何度やっても合わなくて……」
「見せていただけますか? ……こちらなら、皮を剥くより得意です」
オルナ様はさらさらと数字を追い、数分で計算の間違いを見つけてくれた。
「助かりました……! お茶を淹れますね」
三人分のお茶を卓上に運んだ私は、飲む前に夕食の皿を下げようと腰を浮かせた。
「サフィさん。お茶が、まだ温かいです」
「……本当。では、一口だけ」
「一口でなくても、食器は逃げませんよ」
少し照れくさそうに笑うオルナ様に促され、私は腰を下ろした。
食卓には、ちぎった麦パンが残っていた。
「サフィさんには、こちらをどうぞ」
オルナ様が差し出してくれたのは、香ばしくきつね色に焦げ目のついた、端の部分だった。
「よく焼けたところ。覚えていてくださったの?」
「ええ。いつも、最後まで大切そうに召し上がっていらっしゃるので」
私が何を作れるかだけでなく、何を好きかも、見ていてくれたのだ。
誰かの気遣いに甘えて温かいお茶を飲む時間が、じんわりと身体に染み渡っていった。
第六章 当主の謝罪
初夏の風が吹き抜ける午後。
私は頼まれていた特製のドレッシングを納品するため、ヴァレル子爵邸を訪れていた。
納品を済ませて帰りの挨拶をすると、オルナ様にお茶を勧められた。食堂で私の前にヘルミさんがカップを置いたところで、オルナ様が静かに立ち上がった。
「……ヘルミ」
呼び止められたヘルミさんは、少し身を硬くして俯いた。私はカップに伸ばしかけた手を止めた。
オルナ様は深呼吸を一つして、静かに頭を下げた。
「え……? と、当主様!?」
ヘルミさんが仰天して声を上擦らせる。子爵家の当主が、一介の使用人に頭を下げているのだ。
「ヘルミ。ずっと、言わなければならないと思っていました。……ですが、あなたの顔を見るのが怖くて、今日まで先延ばしにしてしまいました」
オルナ様は顔を上げ、まっすぐにヘルミさんの目を見つめた。
「私の誕生日の夜、あなたがトレイの音を立てたとき、私は事情も聞かずに怠慢だと叱責しましたね」
「それは……私の不注意でございましたから……」
「いいえ。あのとき、あなたの不注意だったかどうかを、私は確かめもしませんでした。……でも、仮にそうだったとしても、あんなふうに責めてよい理由にはなりませんでした。私は自分の不安や焦りを、ただあなたにぶつけていただけでした」
オルナ様の瞳には、真摯な悔悟が宿っていた。
「現場の状況も確かめず、あなたのこれまでの忠勤を顧みもせず、傷つけるような言葉を投げつけたこと、本当に申し訳ありませんでした」
そう言って、オルナ様はもう一度、深く頭を下げた。
「今すぐ許してほしいとは言いません。ただ……私の非を認め、謝りたかったのです」
ヘルミさんは目を見開いたまま立ち尽くしていた。オルナ様は催促せず、静かに相手の言葉を待っている。
やがて、ヘルミさんの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「……当主様。頭をお上げください。……ありがとうございます」
ヘルミさんはエプロンで涙を拭い、それから少し躊躇いがちに言葉を継いだ。
「……当主様。もう一つ、お話ししてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「配膳室の棚のことでございます。先代様の頃から通り道が狭く、皆がぶつかりそうになっていて……。棚の配置を変えていただければ、給仕の手違いはずっと減ると思っておりました」
「そうだったのですね。教えてくれてありがとう」
オルナ様は穏やかに微笑んだ。
「早速、大工を手配して棚を移動させましょう。人員の配置も見直します。また何か困ったことがあれば、いつでも私に言ってください。……叱る前に、まずあなたの話を聞きますから」
「はい……! はい、当主様……!」
ヘルミさんはエプロンで涙を拭い、今度は顔を伏せずにしっかりと頷いた。
私は胸を撫で下ろした。帰り際、二人に挨拶をして屋敷を出ると、初夏の青空が眩しかった。
第七章 不器用な苺のケーキ
そして迎えた、六月のある日。
私の三十二歳の誕生日だった。
夫を亡くしてからというもの、自分の誕生日など、日々の仕込みと夕食の段取りの一つにすぎなくなっていた。
午前中に店の片づけを終え、午後の仕込みは休みにした。陽が傾き始め、そろそろテトとお祝いの夕食を作ろうと準備をしていたところへ、玄関の扉が勢いよく開いた。
「おかあさん! オルナちゃんがきたよ!」
入ってきたオルナ様は、大きな箱を両手で大事そうに抱えていた。
足元には、蓋付きの器を詰めた大きな籠も置かれていた。
「こんにちは、サフィさん」
「いらっしゃい、オルナ様。ちょうどよかったです、今からお祝いのスープを作ろうと――」
私がエプロンに手を伸ばした瞬間、テトがエプロンをむんずと引っ張った。
「だめーっ! おかあさん、きょうはエプロンだめ!」
テトはテーブルの椅子をひとつ、力いっぱいに引いて指差した。
「きょうは、おかあさんがここ!」
「いつもはテトの席でしょう?」
「きょうだけ、かしてあげる! ここが、いちばんいいせきなの!」
箱を台の上に置いたオルナ様が、戸惑う私の背中をそっと押した。
「そうです、サフィさん。今日の主役はあなたです。厨房に立ってはいけません」
「えっ、でも……夕食の用意が……」
「夕食も持ってきました。……そちらは、ヘルミの作ですが」
オルナ様は少し照れくさそうに微笑んだ。
「温め直すだけで食べられるようにしてあります。今日は、サフィさんに包丁を持たせない計画ですから」
オルナ様が温め直してくれた夕食を、三人で分け合った。食べ終わった皿を二人が下げる間も、私は椅子に座ったままだった。
テトが背伸びをしてフォークを置き、オルナ様がお茶を淹れる。二人の息の合った手際に、私は目を細めた。
そして、オルナ様が抱えてきた大きな箱の蓋がゆっくりと開けられた。
「サフィさん。お誕生日、おめでとうございます」
現れたのは――一台の、苺のホールケーキだった。
「わあ……っ!」
テトが歓声を上げる。
丸いスポンジケーキの周りには白い生クリームがたっぷりと塗られていた。
だが、その姿はお世辞にも完璧とは言えなかった。表面にはパレットナイフの跡が波打つように残り、クリームの厚みも不揃いで、ケーキ全体がほんのわずかに右に傾いている。上に飾られた真っ赤な苺たちも、大きさがまちまちで、ぎゅうぎゅうと肩を寄せ合うように並んでいた。
実に不格好で、不器用で、けれど信じられないほど愛らしいケーキだった。
「これ……オルナ様が?」
オルナ様は耳まで真っ赤にして恥ずかしそうに視線を落とした。
「……はい。母が、私の誕生日に焼いてくれたケーキを作りたかったのです。ヘルミが、その作り方を書いた覚え書きを探してくれました。『苺は少し多めに用意すること。オルナがつまみ食いするため』と書いてありました」
私が笑いをこらえると、オルナ様はますます耳を赤くした。
「最後の一行は、どうぞ忘れていただきたいのですが」
「今日は、つまみ食いしなかったんですか?」
「……一粒だけです」
オルナ様はケーキに視線を戻した。
「……私には、母の焼くケーキが何よりのご馳走でした。卵の泡立て加減も粉の混ぜ方も、全部ヘルミに手伝ってもらって……少し傾いてしまいましたが、切り分ければ分からなくなるとヘルミが言ってくれたので」
「ふふっ……頼もしい先生ですね」
「サフィさんも苺がお好きだと、テトから聞いていたので」
あの初日の夜、彼女が瞳の奥に宿していた幸せな記憶の欠片。それが今、目の前で形になっている。
胸がいっぱいになり、言葉が詰まった。
「オルナ様……こんなにしていただいて……私ばかり座っているのが、何だか申し訳なくて」
もてなされることに慣れていない私の口から、つい遠慮の言葉が出てしまった。
だが、オルナ様は私の両手を温かい手でぎゅっと包み込んだ。まっすぐな瞳が私を見つめる。
「お返しだからではありません」
オルナ様は凛とした声で言った。
「今日は、私がお祝いしたかったのです。あなたが生まれてきてくれたことを、私と出会ってくれたことを、心からお祝いしたかった」
その言葉が、私の心の柔らかいところにじんわりと沁み渡っていった。
いつもなら布巾かお玉を握っている両手が、今日はオルナ様の手に包まれている。何かをしようとせず、ただ温かさを受け取っていればいい。それが少し落ち着かなくて、それ以上に嬉しかった。
「……ありがとうございます、オルナ様」
視界が少し滲むのを誤魔化すように、私は笑った。
「では、切り分けますね」
オルナ様がナイフを手に取ると、テトがぴんと手を挙げた。
「いちばんおおきいの、おかあさん!」
「ありがとう、テト」
「いちばんイチゴがおおいの、テト!」
「……ふふ、切り分けが腕の見せどころですね」
オルナ様が楽しそうにナイフを入れた。
切り分けられたケーキを前に、私がフォークを手に取ると、オルナ様の背筋がぴんと伸びた。真剣すぎる眼差しで見つめられ、私は思わず笑いそうになりながら、ケーキをひと口食べた。
「……とても、おいしいです」
その一言で、オルナ様はようやく息を吐き、ほっと胸を撫で下ろした。
ふんわりと焼き上がった素朴なスポンジの甘みと、甘さ控えめの生クリーム、そして初夏の苺の鮮烈な甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。
文句なしに――世界で一番、おいしいケーキだった。
「おいしい! オルナちゃんのケーキ、せかいいち!」
口の周りに白いクリームをつけたテトが跳ね回る。
「オルナ様も、召し上がってください」
促されて、オルナ様も小さく切ったケーキを口に運んだ。
その手が、ふと止まる。
「……少し、母の味がします」
そう呟いたオルナ様の瞳は、柔らかく潤んでいた。
「ヘルミさんにも、おいしかったっていってね!」
テトが言うと、オルナ様は優しく笑った。
「ええ。必ず伝えます」
オルナ様は、今日一番の、満開の花のような笑顔を咲かせた。
第八章 来年もその次も
甘いケーキを平らげ、お腹いっぱいになったテトは、すっかり満足して私の膝の上で目をこすり始めた。
初夏の穏やかな夕暮れ時。開け放した窓から吹き込む風が、白い木綿のカーテンを優しく揺らしている。
テトはとろんとした眠たげな声で、オルナ様を見上げて言った。
「ねえ、オルナちゃん。らいねんのおたんじょうびも、このケーキがいいな」
五歳の子供にとって、未来とはどこまでも続く当たり前の明日だ。
「らいねんはね、テトもクリームぬるのおてつだいするの。イチゴをね、ひゃくこのせるの!」
オルナ様はテトの柔らかな髪を優しく撫で、くすりと笑った。
「ふふ……百個は、さすがに乗らないかもしれませんね。それに――」
オルナ様はふと手を止め、テーブル越しに私を、そしてテトを見つめた。
「来年だけ? その次も一緒がいい」
透き通るような、けれど確固たる意志を秘めた声だった。
テトが目を丸くし、それから嬉しそうに私の膝の上で両手を高く挙げた。
「うん! そのつぎも!」
私は胸の奥からこみ上げてくる愛おしさに、深く頷いた。
「ええ。来年も、その次も、ずっと一緒に食べましょう」
「はい!」
オルナ様は嬉しそうに立ち上がると、「では、お茶を淹れ直しますね」と自らポットを手にした。
三人分の陶器のカップがコトンと並べられ、温かい琥珀色のお茶が注がれる。湯気とともに、心地よいタイムの香りがふわりと立ち上った。
かつて、一日だけの食卓を有償で依頼した令嬢が、今は自分の手で、三人分の席を作っている。
失敗しても、席はなくならない。
冷たい風が吹く日があっても、明日になればまた、温かいスープを囲むことができる。
食卓の上に並んだ三つの湯気を見つめながら、私はこれから訪れるたくさんの「明日」に思いを馳せ、静かに微笑んだ。
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「一日だけ」の食卓に、テトが持ち込んだ「あした」の話。温かいスープやパンを囲む三人の時間を、最後まで見届けてくださったことに感謝します。
うまくできない日にも、誰かと食べるご飯がおいしい。そんなささやかな温かさが、読み終えたあとに少しでも残っていたらうれしいです。
サフィとテト、そしてオルナの物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




