毛根シネマティック・ユニバース(MCU)~秘密結社事件記録~
鮫になった少年のとある事件簿
ある路地裏に、その少年はいた。
生まれつき歯がほとんど生えそろわない。
先天的な疾患だった。
食べられるものは限られている。
硬いものはもちろん、普通の食事でさえ難しい。
少年は今日も、手にした栄養補助剤を見つめていた。
「はぁ……今日もこれか」
袋を開ける。
味には、もう飽きていた。
「いつか……丸かじりがしたいよなぁ」
少年は小さく呟いた。
「こんな栄養補助剤じゃなくてさ」
果物でもいい。
肉でもいい。
噛みちぎって。
歯ごたえを感じて。
思い切り食べてみたい。
ただ、それだけだった。
「――そこの少年」
「え?」
声に振り返る。
白衣の男が立っていた。
年齢は五十代ほどだろうか。
眼鏡の奥から、少年の口元をじっと見つめている。
「君は、実に運が良い」
「……運?」
「私は長年、歯牙再生について研究を続けていてね」
男は懐から一枚の紙を取り出した。
「トゥース再生プロジェクト。ついに臨床段階へ入ったところなんだ」
「歯が……生えるんですか?」
「その可能性がある」
少年の目が見開かれた。
「ほんとに?」
「ああ」
男は笑った。
「ちょうど被験者を探していたんだよ」
そして、一枚の紹介状を少年へ差し出す。
「どうだい? 丸かじりが夢なんだろう?」
「……」
「これを母さんに見せなさい」
少年は震える手で、その紙を受け取った。
◇
数日後。
とある病院。
無機質な手術室の中で、少年は眠っていた。
モニター音だけが一定の間隔で響く。
「因幡先生」
「うむ」
「再生促進剤、投与開始します」
「始めろ」
注射器から、透明な液体が送り込まれていく。
一分。
二分。
三分。
何も起きない。
「……変化ありません」
「追加投与だ」
「しかし、規定量に達しています」
「構わん」
「先生」
「計算では、あと少しのはずなんだ」
「ですが――」
「まだだ!」
因幡はモニターから目を離さない。
「まだ出てこん!」
「危険です。これ以上の注入は――」
「黙っていろ!」
さらに薬剤が投与された。
室内の空気が張り詰める。
やがて。
「先生!」
「どうした!」
「患部に変化が!」
因幡が少年の口元を覗き込む。
「……っ」
小さな白いものが。
歯茎を押し上げていた。
「みろ……」
因幡の声が震えた。
「ついに……ついに出てきた!」
周囲の医師たちが集まる。
「再生だ!」
歯が、ゆっくりと伸びていく。
「いや……これは再生ではない」
因幡の表情が歓喜に染まる。
「誕生だ!」
「歯牙の誕生だ!」
その瞬間。
ビービービー!
けたたましいアラート音が鳴り響いた。
「なんだ!?」
「先生! 被験者の患部を!」
「なに?」
因幡が振り返る。
そして。
固まった。
「……二列目?」
一列目の歯の、その内側。
新たな歯列が形成され始めていた。
「想定外だ!」
「先生、再生反応が止まりません!」
「対消滅剤を投与しろ!」
「はい!」
薬剤が注入される。
だが。
「効きません!」
「何!?」
「三列目です!」
「追加しろ!」
「四列目!」
「もっとだ!」
「五列目です!」
「なっ……」
因幡の顔から血の気が引いていく。
「なんだと……」
少年の口腔内では。
歯が。
次々と。
規則正しく。
新たな列を作りながら増殖していった。
◇
数日後。
とある病室。
少年の母親は、怒っていた。
「どういうことなんですか!」
担当医へ詰め寄る。
「歯が生えるって聞きました!」
「はい……」
「一列でいいんです! 誰が十列も生やしてくれって頼んだんですか!」
「……申し訳ありません」
「元に戻せないんですか!?」
「現状では……」
「現状では!?」
母親は頭を抱えた。
手術を許可した自分を責め続けていた。
だが。
ベッドの上で。
少年は笑っていた。
「母さん!」
「……なに?」
「ついに手に入れたよ!」
少年は大きく口を開いた。
「誰にも負けない歯を!」
「……」
「見て!」
少年の口内に並ぶ、幾重もの歯列。
「この精強な十列の歯!!」
「……」
母親は言葉を失った。
少年は嬉しそうだった。
本当に。
心の底から。
「夢だったウサギ肉の丸かじりも、これで夢じゃないんだ!」
「……え?」
「もう、栄養補助剤だけで生きていかなくていいんだ!」
少年は笑った。
その笑顔の奥で。
十列の歯が。
白く。
美しく。
並んでいた。
――遠い未来。
人類は、失われた歯を再び生み出す技術を手に入れた。
そして同時に。
必要以上に生える歯を止める技術の必要性を、初めて知ったのである。
これにて短編集完了?です。後悔はしていません。




