ここにいる。
朝が来たことは、瞼の向こうの明るさで分かる。
何時なのかは分からない。
窓の外が晴れているのか、雨なのかも分からない。
けれど、この白んだ光が頬に触れるたび、世界がまた一日先へ進んだことだけは知る。
私は、ここにいる。
そう思うたび、胸の奥がかすかに軋んだ。
目は開く。耳も聞こえる。
思考だって、こうしてはっきりしている。
昔のことも覚えている。
娘が小さかった頃、運動会で転んで泣きながらも立ち上がった姿。
妻がよく作ってくれた、少し味の濃い卵焼き。
仕事帰り、コンビニで買った缶コーヒーの苦さ。
全部、覚えている。
なのに。
「おはようございます」
若い声が部屋に差し込む。
介護士の佐伯さんだ。
柔らかな足音。カーテンを開ける音。シーツを整える手つき。
「今日はいい天気ですよ」
おはよう。
そう返したつもりだった。
だが、私の唇は微動だにしない。
喉元までせり上がった言葉は、出口を失ったまま胸の内側へ沈んでいく。
佐伯さんは慣れた手つきで私の身体を横向きにする。背中に刺さっていた鈍い痛みが和らいだ。
ありがとう。
そう言いたい。
けれど、壊れた機械みたいに、私の身体は命令を受けつけない。
体はもう、私のものではなかった。
長年住み慣れた家なのに、ある日突然鍵を失くし、中へ入れなくなったようなものだ。
外から窓を叩いても、誰も気づかない。
私は、ここにいるのに。
昼過ぎ、娘が来た。
「お父さん」
少し疲れた声だった。
仕事帰りなのだろう。
髪をひとつに結んだ横顔が、妻によく似ていた。
椅子に腰かけ、しばらく黙っていたあと、小さく息を吐く。
「今日ね、昇進したの」
よかった。
おめでとう。
胸の中で何度もそう言った。
「……お父さん、もう分からないかもしれないけど」
その言葉に、時間が止まった。
違う。
分かっている。
全部、聞こえている。
お前がどれだけ頑張ってきたかも、泣きたい夜をいくつ越えてきたかも、ちゃんと知っている。
だから、そんな顔をするな。
笑ってくれ。
私はここに——
喉の奥で叫んだ声は、誰にも届かなかった。
娘はしばらく私の手を握っていたが、やがて「また来るね」と言って帰っていった。
閉まる扉の音が、やけに大きく響いた。
その夜。
消灯後、佐伯さんが見回りに来た。
静かな部屋で、彼女は私の枕元にしゃがみ込む。
体位を変えようとしたその時だった。
「……あ」
目尻を伝う一筋の涙に、彼女が気づいた。
しばらく黙って、それを見つめていた。
そして、そっと私の耳元へ顔を寄せる。
「やっぱり」
優しい声だった。
「聞こえていましたよね」
胸の奥で、何かがほどけた。
ずっと分厚いガラスの向こうに閉じ込められているようだった。
見えているのに、届かない。
叫んでも、叩いても、誰にも気づかれない世界。
そのガラスに、初めて小さなひびが入った気がした。
佐伯さんは、私の手をそっと包みながら微笑んだ。
「大丈夫です」
そして、まるで長い返事を受け取るみたいに、静かに頷いた。
「ちゃんと分かっていますから」
その瞬間。
何年も胸の奥で叫び続けていた言葉が、ようやくこの世界へ辿り着いた気がした。
——ここにいる。




