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ここにいる。

掲載日:2026/05/31


朝が来たことは、瞼の向こうの明るさで分かる。


何時なのかは分からない。

窓の外が晴れているのか、雨なのかも分からない。

けれど、この白んだ光が頬に触れるたび、世界がまた一日先へ進んだことだけは知る。


私は、ここにいる。


そう思うたび、胸の奥がかすかに軋んだ。


目は開く。耳も聞こえる。

思考だって、こうしてはっきりしている。


昔のことも覚えている。

娘が小さかった頃、運動会で転んで泣きながらも立ち上がった姿。

妻がよく作ってくれた、少し味の濃い卵焼き。

仕事帰り、コンビニで買った缶コーヒーの苦さ。


全部、覚えている。


なのに。


「おはようございます」


若い声が部屋に差し込む。


介護士の佐伯さんだ。

柔らかな足音。カーテンを開ける音。シーツを整える手つき。


「今日はいい天気ですよ」


おはよう。

そう返したつもりだった。


だが、私の唇は微動だにしない。


喉元までせり上がった言葉は、出口を失ったまま胸の内側へ沈んでいく。


佐伯さんは慣れた手つきで私の身体を横向きにする。背中に刺さっていた鈍い痛みが和らいだ。


ありがとう。


そう言いたい。


けれど、壊れた機械みたいに、私の身体は命令を受けつけない。


体はもう、私のものではなかった。

長年住み慣れた家なのに、ある日突然鍵を失くし、中へ入れなくなったようなものだ。


外から窓を叩いても、誰も気づかない。


私は、ここにいるのに。


昼過ぎ、娘が来た。


「お父さん」


少し疲れた声だった。


仕事帰りなのだろう。

髪をひとつに結んだ横顔が、妻によく似ていた。


椅子に腰かけ、しばらく黙っていたあと、小さく息を吐く。


「今日ね、昇進したの」


よかった。

おめでとう。


胸の中で何度もそう言った。


「……お父さん、もう分からないかもしれないけど」


その言葉に、時間が止まった。


違う。


分かっている。

全部、聞こえている。


お前がどれだけ頑張ってきたかも、泣きたい夜をいくつ越えてきたかも、ちゃんと知っている。


だから、そんな顔をするな。


笑ってくれ。


私はここに——


喉の奥で叫んだ声は、誰にも届かなかった。


娘はしばらく私の手を握っていたが、やがて「また来るね」と言って帰っていった。


閉まる扉の音が、やけに大きく響いた。


その夜。


消灯後、佐伯さんが見回りに来た。


静かな部屋で、彼女は私の枕元にしゃがみ込む。


体位を変えようとしたその時だった。


「……あ」


目尻を伝う一筋の涙に、彼女が気づいた。


しばらく黙って、それを見つめていた。


そして、そっと私の耳元へ顔を寄せる。


「やっぱり」


優しい声だった。


「聞こえていましたよね」


胸の奥で、何かがほどけた。


ずっと分厚いガラスの向こうに閉じ込められているようだった。

見えているのに、届かない。

叫んでも、叩いても、誰にも気づかれない世界。


そのガラスに、初めて小さなひびが入った気がした。


佐伯さんは、私の手をそっと包みながら微笑んだ。


「大丈夫です」


そして、まるで長い返事を受け取るみたいに、静かに頷いた。


「ちゃんと分かっていますから」


その瞬間。


何年も胸の奥で叫び続けていた言葉が、ようやくこの世界へ辿り着いた気がした。


——ここにいる。







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