第4話 夫婦がだめになる寺の噂
聞き取りは、思った以上に簡単で、思った以上に面倒だった。
羽崎銀座の乾物屋では、「ああ、あの嫌な寺ねえ」と言われた。寺町の八百屋では、「昔は参ると夫婦が別れるって聞いたよ」と言われた。川沿いの古い理髪店では、「若い者が近づくと縁談が逃げる、そんなふうに年寄りが脅してた」と笑われた。
どの話にも、たしかに熱はあった。けれど、どこか借り物の言い回しでもあった。
午前の終わり、洸太と未羽は、寺町の石段下にある小さな休憩所で、紙コップの冷たいほうじ茶を飲んでいた。石のベンチは日陰でもまだ温かい。
「全部ちょっとずつ違うのに、怖い方向だけはそろってる」
洸太が言うと、未羽は頷きながら、近くの和菓子屋で買った麩菓子を半分に折った。
「しかも、誰も自分が見たって言わないんだよね。おばあちゃんの知り合いの、そのまた隣の家の、みたいな話ばっかり」
「伝言ゲームで寺が悪役になるやつだ」
「それ、舞台で言えば少しはウケたかもよ」
「今日一番へこむ励まし方ですね」
未羽は笑い、折った麩菓子の片方をこちらへ差し出した。受け取ると、予想より軽く、噛むと空気まで甘かった。
午後、合流した千加子は、集めた聞き書きのメモをその場で見比べて、すぐに眉を寄せた。
「語彙が新しい」
「語彙?」
洸太が聞く。
「『夫婦がだめになる』『恋人が別れる』は、古い口伝の形に見えて、じつは言い回しが新しすぎるの。明治の村でそんなふうに均一な言い方はしない。もっと家筋とか身代とか、具体的な生活の言葉になる」
香音が、寺町の坂を上がってきながら会話に入った。
「怖い噂に作り替えられたのかもしれない」
彼女は手にしたメモ帳をぱたんと閉じる。
「旧家を何軒か回った。寺の名前を出した瞬間に顔色が変わる人がいる。ただし、変わるのは恋愛の話でではなく、家の都合の話で」
「家の都合?」
「娘をどこへ嫁にやるか。誰の借金を誰に背負わせるか。誰を家から出さないか。そういう話」
未羽は麩菓子のかけらを指先で払った。
「恋人を別れさせる寺、っていうより」
「家が決めた縁から逃がす寺、だった可能性がある」
香音の言葉は短いのに、石段の陰まで届くようだった。
そのとき、近くで草むしりをしていた年配の女が、こちらを一度見た。見て、少し迷い、それから軍手を膝で払って立ち上がる。
「安離庵のこと、調べてるのかい」
洸太たちはそろって振り向いた。
千加子がやわらかく答える。
「そうです。何かご存じですか」
女はすぐには頷かなかった。寺町の上を吹く風が、白髪を少しだけ揺らす。
「うちの母が若いころ、助けられた人の話をしてたよ。恋がどうこうじゃない。家へ戻されたら、死ぬしかない女がいたって」
石段の下で、誰かが自転車のベルを鳴らした。高く短い音がして、すぐに消える。
女は続けた。
「でも、その話を外でしちゃいけないって、ずっと言われてきた。縁切り寺なんて呼んでおけば、誰も本当のことまでは聞かないからね」
言い終えると、女はそれ以上詳しく話さず、また草むしりへ戻った。こちらが追えば話は切れる、そう分かる背中だった。
洸太はしばらく、その背を見ていた。
これまで自分が追ってきた瓦や地形は、物としてそこにある。黙っていても、見れば分かる部分がある。けれど人の口は違う。怖いものとして語られたほうが、都合のよい誰かがいる。黙ったままのほうが、生き延びられた誰かもいる。
町の歴史は、残ったものだけではできていない。
残せなかったものと、わざと濁されたものまで含めて、今の坂道や店先の空気になっている。
「難しい顔」
未羽が横から言った。
「また始まった」
洸太ははっとして眉間を押さえた。
「顔に出てた?」
「出る。しかも、しゃべり出すと長い顔」
香音が少しだけ口元を緩める。
「長くてもいいから、今度は外さないで話して」
その言葉に、洸太は石段の上を見た。夏の光はまだ強い。けれど午前の熱とは違って、どこか奥へ入ってくる色になっていた。
昨夜の舞台では、誰にも届かなかった。
それでも今日、初めて分かった。
笑いに変えなくても、軽くしなくても、町の中には、ちゃんと聞くべき話が眠っている。自分の胸の奥でくすぶっていたものは、恥ずかしさではなく、まだ消えていない火なのかもしれなかった。




