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笑えない漫談師と、縁切り寺の瓦地図  作者: 乾為天女


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第3話 資料館の白い机の上

 翌朝、羽崎市郷土資料館の事務室は、冷房より先に紙の匂いがした。糊の乾いた匂い、古文書箱の桐の匂い、コピー用紙の粉っぽさ、洗い立ての軍手の石鹸の匂い。夏休みの子ども向け展示の準備で、入口には段ボールの恐竜が半分だけ立っていたが、その奥の作業机はきちんと白く、余計なものが端へ寄せられていた。


 千加子は、その机の上に柔らかい布を敷き、油紙を置いた。


 「まずは、触りたい気持ちを抑えてください」


 そう言いながら、自分はもう手袋をはめている。


 洸太は「はい」と答えたが、指先は前のめりだった。未羽は横の丸椅子に座り、勝手に来館者用の冷たい麦茶を見つけて飲んでいる。注意される前に「一杯だけ」と宣言するのがずるい。


 千加子は紙の縁を見て、次に透かし、最後に筆の運びをルーペで追った。


 「紙そのものは古くても、江戸の現物ではないでしょうね」


 「写しですか」


 「その可能性が高いです。昭和初期か、それより少し前。少なくとも、昨日の悪戯ではない」


 その一言で、洸太の背筋が伸びた。未羽は麦茶を飲んだまま、目だけでこちらを見て、ほらね、という顔をする。


 机の上に広げられた地図は、今の羽崎市とぴたりとは重ならない。それでも、寺町の曲がり、川へ落ちる坂、低地へ抜ける細道らしき線がある。墨で書かれた寺の印はひとつだけ、名前の部分がかすれていた。


 「ここ、読めますか」


 洸太が身を乗り出すと、千加子がルーペをずらした。


 「急がない。紙は逃げません」


 「僕のほうが逃げそうなんです」


 「それは知りません」


 ぴしゃりと言われたのに、不思議と冷たくなかった。


 そのとき、事務室の扉が開いて、陸矢が入ってきた。片手に丸めた旧版地形図、もう片手にコンビニのアイスコーヒー。来る途中で坂を一本確認してきたらしく、靴の縁に乾いた土がついている。


 「話だけ聞いて、授業前に寄った」


 そう言うと、椅子にも座らず地図を見下ろした。


 「川筋が今と違う」


 第一声がそれだった。


 洸太は思わず笑いそうになった。普通、隠された文や消えた寺に反応するところで、陸矢はまず地形を見る。


 陸矢は持ってきた地形図を机へ広げ、手描き地図の線と見比べた。


 「今の県道、昔の流路に沿ってる。だから寺町から低地へ抜ける道が不自然に曲がる。ここを通れば、人目を避けて川沿いへ下りられる」


 「人目を避けて、って、どういう人が」


 未羽が聞く。


 陸矢はアイスコーヒーの蓋を閉め直してから答えた。


 「それを知るために、寺の名前が要る」


 絶妙に役に立つのに、肝心なところで淡々としている。そこへさらに、外の廊下から硬い靴音が近づいた。


 香音だった。黒い細身のファイルを脇に抱え、挨拶の代わりに机上の地図へ視線を落とす。


 「過去帳と檀家台帳、見せてもらえるよう清蓮寺には話を通した」


 早い。


 洸太が礼を言うより先に、香音は紙の一文を読み上げた。


 「『次に切るべきは、恋ではなく、町の嘘』。いい性格してる文ね」


 「文に性格ってあります?」


 「ある。遠回しに見えて、刺す場所を間違えてない」


 その言い方で、洸太は文が急に生きもののように思えた。誰かが何かを守るためではなく、何かを暴くために書いた線と文字。


 千加子は寺名の箇所をもう一度見て、低くつぶやいた。


 「……安……離……かしら」


 「安離?」


 洸太が繰り返す。


 「断定はしない。でも、そう見える」


 香音がファイルを開いた。


 「寺町に昔あった小寺の話は少し聞いたことがある。年配の人は名前を濁すけど、縁切り寺って俗に呼ばれてたところ」


 未羽が麦茶のコップを机に置く。


 「縁切り寺」


 その四文字が、白い机の上へ影みたいに落ちた。


 洸太は地図を見たまま、胸の中でゆっくり言葉を並べた。割れた瓦。隠された地図。かすれた寺名。今はない道。寺町に残る言いよどみ。どれも別の場所に転がっていた石なのに、少しずつ同じ円の内側へ入ってくる。


 千加子が布をかけながら言った。


 「今日はここまで。紙は乾燥室に入れる。あなたたちは外で聞いてきて」


 「何をです」


 「その寺が、今どんなふうに語られているかを」


 未羽が立ち上がる。椅子の脚が軽く鳴った。


 「じゃあ、商店街と寺町、両方回ろう。怖い話ほど、人はよく覚えてるし」


 洸太はうなずいた。


 昨日まで、自分の言葉が誰にも届かないことばかり考えていたのに、今日は誰かの古い言葉を追いかけるために町へ出る。


 それは妙にしっくりきた。



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