最後の手紙は読まないで
「……お願い、最後の手紙は読まないで……私は、あなたが……」
そう言い残して、彼女は僕の手の中で意識を失った。
月灯りが眩しい冬の夜だった。
※※※
彼女はミステリが好きだった。
僕たちの出会いは物語にするにはありきたりで、それでも、いたって普通な僕たちの出会いとしては、それがふさわしかったのだと思う。
駅前の書店で当時流行りのミステリを、ではなくて、古典に片足を突っ込んでいるような薄い文庫本を手に取ろうとしたら、男と女の手が触れあった。それが他愛もない、けれど何ものにも代えがたい、彼女との出会いだった。
「あ、すみません」
「いえ、僕のほうこそすみません……探し物をしていると周りが見えなくなっちゃって」
「ふふ、私もです。ところで、探していたのはこの本ですか?」
彼女は人差し指で文庫本をつまむように引き出した。
「ええ、そうです。あ、あなたも、ですか?」
「そうなんですよ、私もこの本を探してて。小さい本屋さんにはないみたいで、ここならあるかなと思って来たんです。でも、まさかこの本を買う人が居るなんて。あ、そんなこと言ったら作者さんに失礼ですね」
「まあ、この場にいるわけでもないですし、聞かれなきゃ大丈夫ですよ。それに、たとえ聞かれたとしても購入すれば大目に見てくれます、きっと」
「そうですよね、きっとそのとおりです。その案採用しちゃいましょう」
「ありがとうございます」
一体何に対してのありがとうか分からないが、彼女は口角をわずかに上げて頷いてくれた。
少しの沈黙のあと、手に持った文庫本を弄びながら彼女がいう。
「それにしても、本を取ろうとして手が触れ合うなんてこと本当にあるんですね。あんなの本の世界の出来事で、実生活ではありえないと思ってたのに」
「あ、それ僕も思ってました。手が見えないなんて、どれだけ不注意なんだよって」
「あはは、確かに。そう考えると、実際はこんな風に不注意者同士が出会っただけだったってことですね。ちょっと見方が変わっちゃうな」
「そうですね。でもまあ、ちょっと憧れてたんで経験出来て良かったです」
「私も。なんだか運命を感じちゃいますね」
彼女は恥ずかしげもなくそういうと、かき上げた髪を耳に掛け澄んだ瞳を僕に向けた。
彼女と目が合った瞬間、僕は漠然と天使はこんな感じなのだろうなと思った。そして、一度大きく息を吸ってから口を開いた。
「せっかくなので、この後喫茶店でも行きませんか?」
普段の自分なら絶対にとらない選択肢で、もう一度同じことをしろといわれても無理だろう。自分の口から出た言葉に驚きながら、彼女の反応を待った。
彼女は少し目を大きくさせて、今度はハッキリと笑顔を浮かべた。
「ぜひ、お願いします」
そうして、それが自然な成り行きであるかのように、僕らはただの男と女から彼氏と彼女に名前を変えた。
※※※
二人が付き合って一年が過ぎた頃、彼女がこんなことを言い出した。
「そうだ、手紙を書かない?」
「手紙? LINEとかメールとかってこと?」
「そうじゃなくて、紙のお手紙のこと」
「いいけど、どういう風のふきまわし?」
「ほら、いつも本を読んでばっかりだから、たまには書く方もやってみたいし。小説を書くのは難しいけど、手紙なら気楽でいいかなって」
「たしかにインプットばっかりじゃなくて、アウトプットもした方がいいしな」
「なにそれ、知的ぶっちゃって」
「ぶってるじゃなくて知的なの」
「はいはい、知的知的」
彼女はにやにやしながら、手をひらりと振っていた。
そうして次の日から、僕と彼女のあいだで手紙が行き交うことになった。
彼女から届く手紙は、いつもたわいのない日常が書かれていた。
スーパーの特売で買ったイチゴが甘くなかったからジャムにしたとか、鰹のたたきにはやっぱりミョウガがないとと力説していたり、焼き芋は皮がおいしいのに友達から変人扱いされて憤った話とか。つい先日の手紙では、散々結論を引っ張ったあげく、近所の公園でたぬきを見たことがさもすごい事かのように書かれていた。
かくいう僕はというと、彼女のことを何か言えるようなものでもなく、大体似たような内容だった。たとえばこんな話だ。
ある日気付いたら覚えのない物が部屋にあって、なんだか気味が悪いなと思っていたが通販の履歴を見返したら全部自分で買っていた。きっと酔っぱらって気が大きくなった時に通販で買っていたのだろう。買ったものが全部ない気もするが、それもきっと酔っぱらっている内に友達にあげてしまったりしたからだろう。先月も同じようなことがあって、我ながら呆れてしょうがない。それにしても、自分で買っておいて自分の趣味じゃないから持て余して困っている。
それに対して彼女は、
ミステリーツアー(買い物だからミステリーショッピング? そんな言葉あるのかな?)みたいで楽しくていいね。私も今度やってみようかしら。もったいないから意地でも自分で着るけどね。
などと、呑気な返事を返してきた。
想像していた文通とはだいぶ印象が違っていたが、それでも彼女の手紙はどんな小説よりも楽しくて、いつも待ち遠しかった。
文通を始めた当初、彼女が言っていた言葉の意味が僕にも分かった気がした。
「なんでわざわざ郵便経由なの? 同じ町内なんだから直接手渡せばいいじゃん、そうでなくとも週に何度も会うんだからさ」
「それじゃあ風情がないじゃない。手紙の醍醐味って言ったら、やっぱりタイムラグでしょ。私の出したお手紙はもう着いたかしら、とか、この間のお返事はいつ届くのかしらって、待つのが楽しいの」
「ほーん、そういうもんか」
「あ、だから前も言ったけど、手紙の内容は言わないでね。ミステリで犯人のネタバレくらったらつまんないでしょ。あれと同じなんだから」
「ほーん」
「あー、わかってなさそうな感じー」
「ほーん」
「いいかげんにしなさい。まあ、やってればきっとわかるって」
僕の背中を無遠慮に叩きながら、彼女はあははと笑っていた。
※※※
彼女の手紙には、しばらく緩い日常が綴られていたのだが、いつからかその内容に変化があった。
最初の変化はこんな感じだった。
──っていうことがあって、笑い過ぎて顎が取れるかと思ったわけ。あれにはまいったわ。
そうだ、ちょっと話が変わるんだけど、最近不審者? がうろついてるような気がするの。あ、でもそんなに心配するような話じゃないから安心して。いまどき防犯の方法なんてごまんとあるんだから。むしろ、ミステリっぽくてちょっとわくわくしてるぐらい。不審者なんて小説かニュースでしか聞かないからね。
さすがに僕は心配になって、ルール違反ではあるけれど直接彼女と話をした。だけど、彼女は気にするほどじゃないから大丈夫だと、特に深刻な感じもない。
あっけらかんとして「じゃあそういうわけで、今度からこの話を書いていくね」といっていた。さらには「なんだか自分にも結末の分からないミステリを書いてるみたいで、ちょっと大御所作家みたいじゃない?」などと付け加えて笑っていた。
今思うと、僕はこのとき無理やりにでも介入するべきだった。不審者を探し出すべきだった。悔やんでも悔やみきれないという、安い言葉しか思い浮かばない自分が惨めで憎らしい。
彼女は言葉通りに、その後も不審者の状況を手紙に書いてきた。
──やっぱり不審者がいることは疑いようがないっぽいわ。
この間ベランダからこそっと見てみたんだけど、あれは男で確定ね。背格好なんだけど、中肉中背ってああいうのをいうのかしら。帽子を深く被ってて顔は見えなかったけど、恰好が微妙にチグハグであんまり好きなタイプじゃなかったかな。
それにしても、一体だれが目的なのかしらね?
──大変、もしかしたらターゲットは私かも。
あ、でも安心して。いざとなったら陸上で鍛えた私の脚力でぶっちぎってやるから。全国大会出場経験者をなめないで欲しいわ。
まあそれは置いといて、先週あたり駅から歩いて帰るときに後ろにあいつがいたの。でも、そのときは偶然かなって思ってたんだけど、それがこの二週間で五回もあったのよ。二週間で五回よ? さすがにこれを偶然で片付けるには難しいわ。ただ、勘違いって線も捨てきれないからもうちょっとだけ様子をみてみる。
──うん、やっぱりターゲットは私で確定っぽい。どこのだれか知らないけど、私が魅力的過ぎるから狂わせてしまったのね。罪な女。
とまあそんな冗談は置いといて、最近気づいたんだけど、あいつ服をローテーションしてるみたい。どう? ミステリの探偵も真っ青のこの観察力。素晴らしくない? いいの、いいの、そんなに褒めなくて。
でも、微妙な服装をローテーションってなんでなのかな。変な雑誌の着回し特集とかでも見たのかしら。あれは鵜呑みにしちゃだめなのよ(自戒を込めて)。
──あいつの行動範囲がわかってきたかも。
いつも、駅を出てしばらくはいないんだけど、どうも公園を過ぎたあたりから姿を見せるの。案外この辺に住んでいる誰かだったりして。それなら逆につけてやろうかしら? ほら、専守防衛ってやつよ。どうよ、この名探偵具合。自分の才能が怖いわ。
ところであいつ、今のところ何もしてこないけど一体何が目的かしら? 捕まえたらその辺も聞いてみたいところね。次回の手紙も期待してて!
そして次の手紙が来た。
まさかこれが最後の手紙になるなんて、この時の僕に分かるはずもなかった。
──あと一歩だったのに! ついにあいつを逆につけてやることに成功したの! だけど、途中で巻かれちゃった。くそう。
今日も気付いたら後ろにあいつがいたの。それで、一旦アパートに戻ったふりをして、あいつの後ろに張り付いてやった。何するのかと思って見てたんだけど、特に何もせずにじっとアパートの方を見てるだけで、五分もしたら来た道を戻っていったのよ。でもそっちには私がいるからやばいと思って、なんとか植え込みに体を押し込んでやりすごしたわ。枝って結構硬いのね。ちょっと擦っちゃった。
まあそこまでは良かったんだけど、あいつをつけて行ったら近所の公園に入っていったの。
公園ってひらけてるから隠れるところ少ないじゃない。だから、外周の植え込みの向こうから覗いてたんだけど、あいつは公園中央を突っ切ってトイレに入ってたの。多分だけど、トイレで変装してたんじゃないかしら。いつも変な服装をしてて、そこから普通の服装に戻れば同じ人とは思われないからね。なかなか考えてるわ。
ただね、これはやったな、って思ったの。あいつはもう袋のねずみよ。トイレから出てきたところで「どういうつもり」ってびしっと言ってやろうとしたの。いざとなったら通報できるようにスマホ片手に入り口で仁王立ちよ。
でも、五分経っても十分経っても出てこない。しびれを切らしてちょっと覗いてみたら、だーれもいないの。やられた! って思ったわ。もしかしたら尾行がばれてたのかも。名探偵は一日にしてならずね。精進しないと。
でも、あとちょっとのとこまで来たから、もうちょっと頑張ってみるわ!
目指せ名探偵!
手紙の話はしないと一度は言ったが、これはやっぱり見過ごすことが出来ない。そう思って、この辺りでもうやめた方がいいと進言したが「大丈夫、大丈夫」と押し切られてしまった。
「いざとなったら町中に響き渡る悲鳴で助けを呼ぶから大丈夫よ」
「怖くて叫べないかもしれないじゃないか」
「そうなっても防犯ブザーがあるから大丈夫よ」
「気が動転してブザーが操作できないかも」
「近くにコンビニあるからそこに駆け込むわ」
「相手の方が足が早かったら?」
「前にも言ったけど、私は陸上で国体出場してるのよ? あんまり舐めないで欲しいわ」
「そうだけど、足をくじいたりとか……」
「そうしたら、この拳を叩き込んでやるわ。中学校まで空手習ってたんだから」
その後も少しは抵抗したが、今のところ実害はなにもないのだからと言われてしまうと、それ以上強くも言えず押し黙るしかなかった。
※※※
その日は唐突にやってきた。
手紙の話をした翌日のことだ。出かける前か出かけた後かよく覚えていないが、家の玄関に立っている時だった。つけた覚えのない右手のブレスレットを見ていたら、なぜか漠然とした不安が込み上げてきた。まさか虫の知らせというものだろうか。縁起でもないと頭を振るが、一度考えると不安がどんどん増幅されていく。
とりあえずの安心を得ようと、スマホを取り出して電話をかけた。繋がればこの心配は杞憂で終わる。それを期待していた。
数コールしたところで、通話状態になった。
よかった、僕の杞憂だったと安心しかけたとき、電話口の異変に気付いた。いつもなら明るい声が飛んで来るはずなのに、なにもない。だが確実に人の気配はする。
スマホを耳に強く当てると、微かに聞こえたそれは荒い息遣いだった。
「もしもし? 僕だけど」
「……」
「聞こえてる? 聞こえてるなら何か言ってよ」
「……うん、……聞こえてる」
「どうしたの? 息が荒いけど、大丈夫?」
「うん……、いや、ううん……、ごめん……ダメかも」
「え? ダメって、どういう……」
「……ごめんね、ちゃんと言うこと……聞いておけばよかった」
気付いたら僕は、玄関ドアを開け放ち駆け出していた。
右手に持ったスマホを力の限り握りしめて、街灯でまばらに照らされた夜の路地を必死に蹴った。どの道をどう通ったかもわからない。いつもなら十五分かけて歩くアパートへの道を、五分と経たずに到着していた。
呼吸を整える暇すら惜しい。
肩で息をして震える手でドアノブを握ると、拍子抜けするぐらい抵抗なくドアは開いた。なんで鍵が空いているのか、疑問を頭の片隅に追いやって、とにかく無事を確かめなければと靴を脱ぎ捨てる。
見慣れた廊下を突っ切って部屋に入ると、彼女が居た。
彼女は、キッチンの前に倒れていた。
思考を放り出して駆け寄り肩を抱く。反応は弱かった。
腹部が赤く染まっている。見覚えのある包丁の柄が、そこから生えていた。
「大丈夫か! どうしたんだ!」
「……うう、……来て、くれたんだ……」
血に染まった手で僕の手に触れた。その力のなさに思わず顔をしかめる。
「そうだ、救急車! 今呼ぶからな、待ってろよ!」
「……うん、……おねがい……」
焦ってスマホを上手く操作できない。血も邪魔をする。
なんとか119番に住所を伝えると、苦しそうにうめく彼女を両手で抱きかかえた。
救急車を呼べたという安心感から、少しだけ冷静になれた。周囲を見渡すが、誰かがいる気配はない。部屋に居るのは二人だけだ。
「どうしたんだ、誰にやられた? 手紙で言っていたあいつか?」
「わかんないけど、たぶんそう……顔は分かんなかったの、へへ、ちゃんと見とけばよかった……」
「そうか、それは警察に任せればいいから」
「……名探偵は一日にしてならず、ね……」
苦し気に笑うと、抱いている俺の手に自らの手を重ねる。僕がその手を強く握りしめるとゆっくりと頷くように顔を下げた。
「この手に握られていると、なんだか安心する……」
「そうだな、もう少ししたら救急車が来るからな」
「……うん……」
それだけ言うと、大きく息を吐いて目を瞑った。
会話がなくなり、この状況が嘘であるかのように静寂が流れた。
二人の呼吸音だけが部屋に響く。
少しして、薄く目を開けた彼女は視線を彷徨わせていた。
その様子を見守っていると、何かを確認するように瞬きを数回した。そして、朦朧とした意識の中で呟くように言った。
「……そう……そういうことだったんだね。……でも、あなたは……」
「なにか気づいたことがあるのか?」
返事を待つが返ってこない。無意識に喋っているだけかもしれない。
救急車はあとどれくらいだろう。何か出来ることはないかと考えるが、両手に力を込めることしか出来ない。
すると、彼女はもう一度呟いた。
「……お願い、最後の手紙は読まないで……私は、あなたが……」
言葉が消えていくと同時に、遠くからサイレンが聞こえた。
その音が近づく前に、彼女は意識を失った。
※※※
彼女は、一週間経っても目を覚ますことは無かった。
幸いと言って良いのか分からないが、命に別状は無いらしい。ベッドの上で動かない姿を見ていると信じ難いが、医師が言うのだからそうなのだろう。そう自分を納得させた。
その間に、僕は警察に話を聞かれた。ストーカーらしき人物の話をすると、当然のように小言が返ってきた。無謀な事をするまえに警察に相談しなさいという正論に、僕はただただ頭を垂れるほかなかった。
それでも犯人はすぐに捕まるだろうと思っていた。だが、進展があったという話は聞こえてこなかった。
彼女の傍で目を覚ますのを祈る日々が続いた。
当初はあの夜のことを思い出すのも苦痛だった。混乱していたというのもある。詳細を思い出そうとすると、頭がそれを拒否して真っ白になった。しかし、時間の経過とともに心の余裕が戻って来ていた。
そして、あの夜から一週間経ったある日、唐突にあの言葉を思い出した。
「……お願い、最後の手紙は読まないで……私は、あなたが……」
あれは一体なんのことだったのだろう。
最後の手紙とは、何をもって最後なのか。二人の間の手紙は、僕が送った手紙が最後になっていたはずだ。内容はなんだったか。
確かストーカーに対して、深追いはしないでくれといった内容だったはずだ。敵わぬ願いになってしまったが。もう少し強く言うべきだったと後悔ばかりが募る。
それとも、彼女が送った手紙という意味だろうか?
彼女との手紙は何か思い出したときのため、すべて持ち歩いていた。どこかに手がかりがあるかもしれないと、ストーカーらしき記述が出てきてからの手紙を見返した。
特に気になる箇所は無いまま、紙をめくる音が病室に吸い込まれていった。
そして、最後の一通になった。
───でも、五分経っても十分経っても出てこない。しびれを切らしてちょっと覗いてみたら、だーれもいないの。やられた! って思ったわ。もしかしたら尾行がばれてたのかも。名探偵は一日にしてならずね。精進しないと。
でも、あとちょっとのとこまで来たから、もうちょっと頑張ってみるわ!
目指せ名探偵!
最後の!マークと今の姿の対比に胸が苦しくなった。
ふと、疑問が湧いた。もしも手紙に手がかりがあるとしたら、そう言うはずだ。しかし、彼女の言葉はそうではない。
彼女は、読まないように言ったのだ。
いったいなぜこれを読まないように言ったのだろうか? 単に心残りのようなものだろうか? 例えばなにか恥ずかしい話が書いてあって、読まないで欲しいとか。だが、それを緊急時に言う必要があるとも思えない。それに、彼女の性格から考えても、手紙の内容を恥じるとも思えなかった。
解きようのない疑問ばかりが湧いてくる。
「なあ、教えてくれよ」
問いかけるが返事はない。
そうしているうちに面会時間は終わりを迎えた。
※※※
家に帰ると、部屋が広く感じた。
同棲はしていないはずなのに、心の中の喪失感がそう思わせるのだろうか。いや、死んだわけじゃないのだと慌てて首を振る。
深呼吸をしてからソファに体を沈め、溜まった郵便物を机に広げる。ここ数ヶ月は毎日ポストを確認するのが日課になっていた。あの日からたった一週間確認していなかっただけなのに、一杯になっていた。
その中に見覚えのある封筒があった。薄緑色の艶のある紙質に、ローカルなキャラクターが躍っている。いつしか愛着を覚えるようになったそれは、彼女からの手紙だった。
てっきり僕が送ったきりになっていたと思っていた。それが二人の間の最後の手紙だと。その返事が届いていたのだ。
最後の手紙。
朦朧とする意識の中、絞り出すように言ったあの言葉。それを尊重するべきか。
いや、しかし……。
天井を仰ぎ目を瞑る。ベッドに横たわる姿が脳裏に浮かぶ。
顔を下げて息を吐くと、覚悟を決めて手紙を手に取った。
慎重に封を開け、便箋を取り出す。
便箋は二枚入っていた。一枚目は、いつもの他愛もない日常が綴られていた。
目に溜まった涙を拭い、二枚目を読む。
───続報! この間、公園のトイレで見失ったっていったでしょ? 今回なんと、そこに侵入してきました! そしてなんと、ある物を見つけちゃったのよ!
まあそんなことを急に言われても、なんのこっちゃと思うと思うので(これ重言みたいでちょっと気持ち悪いね)まず経緯から説明するね。
前回の手紙でトイレで見失ったのは何でだろうって思ったのね。確かに出入口以外から逃げてったら見失うかも知れないけど、でも結構見通しのいいとこなのよ。そこにちょっと変な服装が合わさったら、いくら現状名探偵未満の私でも気付くと思うの。それで考えたの、きっと変装していたんだって。
それで当時のことをよーく思い出したら、確かに通行人がいたのよ。でも恰好が全然違ってたから無意識の内に除外しちゃってたってわけ。
ただ、そうすると荷物はどうしたんだって話じゃない。いくらなんでも荷物持ってたらちょっとぐらい気にするはずだし。でもほとんど手ぶらだった。
と、いうことは、よ。
そう、その通り。トイレで着替えて荷物はそこに置いたまま、出てったってこと。いやー名探偵未満から名探偵になる日も近いわね。
で、そこに侵入して調べてきたら、なんと天井の分かりにくーいところにあやしげーな鞄が置いてあったの。昼間でも影になる部分に黒い鞄だからよっぽど気をつけてみないと気付かないんじゃないかしら。
で、この鞄の中身がなんと……。おっとこれ以上は便箋がたりなくなりそうね、続きは次回をお楽しみに!
思わず笑ってしまうほど、陽気な手紙だ。これが最後だなんて言わないでくれよ。
しかし重要なことが書いてあった。
公園のトイレで見つけた鞄。
きっとここにヒントがある。
警察に言うべきだというのは分かっている。しかし彼女の言葉が引っかかって、それを躊躇させた。この手紙の内容が事実か、一度自分で確認してからでも良いはずだ。
自分でも都合のいい理屈だと思う。それでも、彼女の最後の手紙の内容は、僕が確認したかった。
※※※
「これは……」
公園のトイレで、僕は思わずつぶやいた。
嫌な予感はあった。彼女の言葉とその表情。
確認する手が震える。しかし、その予感は当たってしまった。
……だがなぜだ? なぜこれがここに。
嵌めたくないパズルのピースが、ひとりでに嵌まっていく。
「……そうか、そういうことだったんだ。だから君は……」
※※※
「んん……」
ベッドに横たわる彼女は、一週間と少しぶりに目を開けた。真っ白な部屋の中には、二人しかいない。
「おはよう、調子はどう?」
「うん、おはよう。まあまあかな」
「それは良かった」
「ところで、ここってどこ? 何か大事なことがあった気がするんだけど……」
混乱させないように、落ち着いた口調で今日までのことを話した。
「そうか、そんなことがあったのね……」
「無理に思い出す必要はないから、ゆっくり治していこう」
「そうだね、そうする。こんな経験なかなかないしね」
彼女は珍しそうに部屋に首を回し、自分に繋がった管を見ながら言った。
僕はそこから何を話すべきか、わからなかった。あの手紙のことか、それとも公園で見つけたことの話をしようか、もしくは……。
考え込んでいると、彼女が先に口を開いた。
「あのさ……」
「ん?」
「ちょっと、言いたいことがあるんだけど、さ」
「うん、なに?」
「いや、でもなあ。やっぱやめとこうかな」
「言いにくいなら、無理しなくていいよ」
「いや、やっぱ言わないとね。これはさすがに」彼女は意を決したように僕に顔を向けた。「あれ、実はストーカに刺されたんじゃなくって、自分でやっちゃったのよ」
「……は?」
「そうだよね、やっぱりそういう反応になるよね。でも、ちょっと落ち着いて聞いてね」
目を白黒させる僕を尻目に、彼女は話を始めた。
そうして話した内容はこういうことだった。
あの日、彼女は部屋にいた。そこにチャイムが鳴った。
郵便かと思い無防備にもドアチェーンもせずにドアを開けたら男がそこに立っていた。帽子を目深に被ってその上から更にフードも被りマスクもしていたから人相は分からなかった。だが、直感的にあいつだと理解した。
ドアを閉めようとしたが間に合わなかった。男はドアを力づくで開け放つと迫ってきた。
そこからは一瞬だった。
逃れるように部屋の中へ走り、なにか武器になる物をと目に入ったのが、洗ったばかりの包丁だった。それを両手で構えて迎えうった。しかし、人に刃物を向けたことなどない。そこからどうすれば良いのか分からなかった。
そこから一分ほど(体感では十分以上だと力説していた)対峙していた。スマホを取り出すことも出来ず途方に暮れた頃、男はじりじりと玄関にむかって移動していった。
男が出て行けばそれで済むのでは? という思いと、それじゃあ根本解決にならないから取り押さえないと、という思いが交錯した。その結果、気がついたらなぜか彼女は包丁を振りかぶって男に襲い掛かっていた。
部屋の中で主従の逆転した二人は暴れ回り、やっと追い詰めたと思ったそのとき、彼女は台所のマットで足を滑らせ盛大に転倒した。
やばい。
そう思って立ち上がろうとしたが、体に力が入らない。それに、さっきまで手に持っていた包丁がどこにもない。同時に腹部に文字通り刺すような痛みが走り、見ると包丁が深々と刺さっていた。
その様子に慌てふためく男だったが、電話の音で我に返ったのか部屋を飛び出していった。
と、こういうことらしかった。
「という訳で、確かにこうなったのはあいつのせいではあるんだけど、これって責任割合的にはどうなるんだろうね?」
絶句する僕の返事を待たずに、彼女は軽い口調で続ける。
「刑事さんにこれいうのかー、ちょっと恥ずかしいな。もうちょっとかっこいい話だったら良かったんだけどね。それにしても、いざってときでも私はちゃんと動けると思ってたのになあ。それに──」
話続ける彼女に向かって、僕は呟くように口を開いた。
「なあ……」
その声に気づいて彼女が口を閉じると、二人の視線が磁石のようにぴたりと合った。
「それって本当なんだよな?」
「もちろん、私が言うんだから、ね」
彼女はかき上げた髪を耳に掛け、僕を力強く見つめていた。
僕は言葉を飲み込んで頷くことしか出来なかった。
※※※
あれから一年が経った。
あの男はまだ捕まっていない。
僕らは来月からの同棲に備えて、部屋の掃除をしていた。今日は彼女の部屋の日だ。
「この部屋ともお別れかあ、いろいろあったけど結構愛着あるから寂しいな」
「まあすぐに慣れるよ。住めば都って言うしさ」
「それはそうなんだけど、そんなにすぐに割り切れないじゃない」
「まあね」
話をしながらあの事件を思い出した。
あれはいったい何だったのだろう。本当に彼女の不注意だったのだろうか。
だが、その疑問は二人の間でなんとなく避けられていた。あれから手紙のやりとりはしていない。だからあの手紙が二人の間での最後の手紙になった。内容についても話はしていない。そういえばあの事件以降、身に覚えのない買い物などもなくなっていた。
それも含めて、思い出の一ページになっていくのだろうか。
「よし、こんなところかな」
「そうね、おつかれさま。じゃあ、今日はどっか外で食べよ。何食べたい?」
「そうだな、今の時期ならやっぱお鍋かな。鰤しゃぶとか食べたい気分」
「お、いいね。あ、そうだ、鰤って出世魚だけど、なんで名前変わるか知ってる?」
「え? あんまり考えたこと無いな。縁起がいいからとは聞いたことあるけど、なんでだろうな」
「じゃあ教えてあげる。最初はどんな大きさでも鰤って名前だけだったんだけど、江戸時代に鰤が贅沢だっていってお上が規制したらしいの。それで、名前を変えて規制をかいくぐったらしいよ」
彼女は、かき上げた髪を耳に掛けていう。
「……それ、嘘だろ」
「あ、ばれた?」
ふふふ、と隠し切れない笑みを口元に浮かべていた。
「そりゃあ、だって……」
と言いかけて、ふと気付いた。彼女が嘘をつくときに決まってする仕草に。
突然動きを止めた僕を彼女は訝しるように覗き込む。
「ん? どうしたの?」
「いや、なんでもない」そう、なんでもないはずだ。深く考えないようにして彼女に向き直る。「まあ、これからもよろしく頼むよ」
「突然どうしたの? でも、当然よ。私たちの出会いは運命なんだから。だから、ずっと私の傍にいてね」
彼女は澄んだ瞳を僕に向け、唇を歪ませた。




