閑話3 サンオリ カンヌとの再婚約に動く
翌朝。
サンオリ=ポールは、眠れぬ夜を過ごした疲労を隠すように背筋を伸ばし、馬車に揺られていた。目指す先はアヴィニヨン伯爵邸。
父との約束も、ナンテールの打算的な言葉も、すべてはこの訪問で決着をつけるつもりだった。
(大丈夫だ。カンヌは僕に惚れている。あの子は気が強いが、僕にはいつも柔らかく笑ってくれた。少しわがままなのも可愛いところだ。昨日のことも、本当は傷ついて泣いているに違いない。僕が謝って「やり直そう」と言えば、飛んで喜ぶさ。ああ、彼女の潤んだ瞳で抱きつかれる姿が目に浮かぶ……)
サンオリは頭の中で、勝手に理想の再会シーンを描きながら、心を弾ませていた。
やがて馬車はアヴィニヨン邸の前に到着する。白亜の石造りの館は相変わらず威厳に満ち、重厚な鉄門の前で、サンオリは緊張した面持ちを装った。
「サンオリ=ポール様でございますね。どうぞ」
門番に名を告げると、屋敷へ通された。
だが、玄関ホールで迎えに出てきたのは、カンヌでも伯爵でもなく、執事の老紳士だった。
「これはポール家三男様。わざわざのお越し、痛み入ります」
「いや、今日は急ぎの用件でね。カンヌに会いたい。彼女と……いや、アヴィニヨン伯爵閣下にもだ」
しかし執事は静かに首を振った。
「お嬢様は本日、知人の令嬢と共に出掛けております。戻りは夕刻を過ぎましょう。また、閣下も王都の会合にてご不在にございます」
「な、なんだと?」
思いがけぬ返答に、サンオリは顔を曇らせた。
「でしたら、私が用件を伺いましょうか」
執事の穏やかな声に、サンオリは仕方なく頷いた。
「……カンヌとの婚約の件だ。昨日、父から厳しい叱責を受けた。私の軽率な言葉は間違いだったと悟った。だから、婚約を継続したいと願い出たい。どうか、伯爵閣下にお取次ぎを願いたい」
サンオリは胸を張り、できる限り誠実そうに告げた。
だが、執事の表情は微動だにしない。
「恐れながら……サンオリ様とお嬢様との婚約は、すでに伯爵家より正式に破棄されております」
「……なに?」
「昨日、ポール伯爵家に文書が届いているはずです。アヴィニヨン伯爵閣下は、サンオリ様の一方的な発言を容認し、婚約解消を決定されました。したがって、婚約を継続することはありえません」
静かに告げられる現実。
サンオリの背中に冷たい汗が流れる。
「ま、待ってくれ! 私は確かに軽率だった。しかし、心から反省している! カンヌに会わせてくれれば分かる。彼女はきっと許してくれる。僕に惚れているのだから、伯爵閣下に婚約を続けたいと直訴するはずだ!」
執事の眉がわずかに動いた。
「……失礼ながら、サンオリ様。お嬢様は、ご自身の誇りを大切になさる方です。この間の一件は、その誇りを踏みにじるものでした。私が申し上げる立場ではございませんが……お嬢様が再び頷かれる可能性は、極めて低いと存じます」
ぐらり、と視界が揺れた。
サンオリは必死に立ち直ろうとする。
(いけない……このままではナンテールとの未来が潰えてしまう! ナンテールは僕が伯爵になれるからこそ、側にいるのだ。彼女の愛は、僕が地位を失えば簡単に消え去る。そんなのは嫌だ! 僕は両方欲しい。愛と地位、どちらも!)
彼は必死に声を張り上げた。
「いや、違う! カンヌは僕に夢中なんだ! あの子は、僕が『やり直そう』と言えば必ず頷く! 彼女に直接会わせてくれ! それだけでいい!」
執事は深い溜息をつき、やや冷たい目を向けた。
「本日はお引き取りくださいませ。これ以上は、屋敷の体裁にも関わります」
言葉を遮られ、玄関口に導かれる。
サンオリの心臓は早鐘のように打ち、焦りと苛立ちで胸が詰まった。
外に出され、屋敷の門が閉ざされる。
静まり返った大通りに立ち尽くし、サンオリは唇を噛んだ。
(……いけない。このままではすべてを失う。だが、まだ終わっていない。直接会えばいいんだ。カンヌに会って、目を見て伝えれば、あの子は必ず戻ってくる!)
彼の脳裏には、なおも都合のいい幻想が広がっていた。
涙ながらに自分へすがるカンヌの姿を。
そしてそれを伯爵に訴え、婚約が復活する未来を。
サンオリは拳を固めた。
「待っていろ、カンヌ。必ず君を取り戻す……!」
その決意は、滑稽なほどに一方的で、現実を何一つ見てはいなかった。