第3話 甘美なる第三歩
悪役令嬢の決別 ― 甘美なる第三歩
王都の朝は、いつもざわめきに満ちている。石畳の道を行き交う商人や旅人、露店から漂う香ばしい匂い。昨日までの自分なら、そんな景色はただ背景の一部にしか映らなかっただろう。けれど今は違う。
「さあ、今日はどんな甘い出会いが待っているかしら」
馬車の窓を開け、カンヌ=アヴィニヨンは澄んだ風を吸い込んだ。頬を撫でる風が心地よい。
今日の目的地は――チョコレート専門店。
王都でもひときわ評判の店で、なかでも「夢幻のチョコレートパフェ」が人気だと耳にしていた。
「お嬢様、また随分と濃厚そうなものを……」
護衛のエティエンヌが苦笑する。
「ふふ、人生には甘さが必要なのよ」
「昨日も甘さを満喫なさったばかりでしょう」
「だからこそ、今日も甘さを重ねるのよ!」
呆れるエティエンヌを横目に、侍女のマルゴは楽しげに微笑んでいた。
◆◇◆
王都の中央通りから一本奥まった小道に、その店はあった。
「カカオの小部屋」と銘打たれた看板。
木製の扉を押すと、濃厚なカカオの香りが空気を満たす。
「いらっしゃいませ」
迎えてくれたのは、黒いエプロン姿の青年店員。
壁際にはずらりとチョコレート菓子が並び、ガラスケースにはガトーショコラや生チョコが宝石のように輝いていた。
奥の席に案内され、カンヌはメニューを開く。
視線が自然と吸い寄せられたのは――やはり「夢幻のチョコレートパフェ」。
「これをお願いするわ」
ほどなくして運ばれてきた一品は、まさに芸術だった。
背の高いグラスに、濃厚なチョコアイス、ガトーショコラの欠片、チョコソースが幾重にも重なり、その上に金箔をあしらった生クリームが渦を巻いている。飾りには苺とミントの葉。
「……美しい」
カンヌはフォークを手に取り、ひと口。
「んっ……!」
舌の上でとろける濃密なチョコレート。苦味と甘さが絶妙に絡み、奥行きのある味わいを作り出していた。
次にアイスをすくえば、ひんやりとした冷たさが舌を包み、ガトーショコラのしっとりとした食感が重なる。
そこへ苺の酸味が加わると、濃厚さの中に爽やかさが走った。
「これは……まさに甘美の迷宮……!」
思わず陶然と呟く。
「お嬢様、表情がとても幸せそうです」
「だって……これは、ただの甘味じゃないわ。芸術よ」
マルゴも試しに一口食べ、感嘆の声を上げた。
「……確かに、これは本に書きたくなる味ですね」
その言葉に、カンヌは手元のノートを取り出した。
表紙には花の刺繍が施され、中はまだ真新しい。
彼女はペンを走らせる。
――第三軒目「カカオの小部屋」
注文:夢幻のチョコレートパフェ
感想:濃厚さと爽やかさが同居した甘美。芸術的バランス。人生で一度は食べるべき逸品。
記録を終えると、マルゴが不思議そうに尋ねた。
「お嬢様、どうして感想をまとめているのですか?」
「王都中のカフェを巡ったあと……一冊の本にまとめてみようと思って」
「本に……?」
マルゴが目を瞬かせる。
カンヌは頷いた。
「そうよ。『アヴィニヨン伯爵令嬢のカフェ巡り記』。いっそ出版して、甘味に悩む人々に指南を与えるの。……悪役令嬢の断罪から逃げたなら、新しい役割を自分で作ればいいわ」
その言葉に、マルゴは目を細める。
「お嬢様らしい発想ですね。ですが――」
ふと、彼女が視線を奥の席に向けた。
そこには、まだ若い男性が一人、ノートを広げて何やら書き込んでいる姿があった。
「あの方も、何やら記録をされているようですよ」
カンヌは思わず男性を見やる。
焦げ茶の髪に、落ち着いた灰色の瞳。衣服は質素だが清潔で、どこか知的な雰囲気が漂っている。
(もしかして……あの人も、カフェを本にしようとしているのかしら?)
胸が小さく高鳴った。
同じ目的を持つ者に出会うかもしれない――そう思うと、不思議と心がざわめく。
彼女は紅茶を口に運びながら、視線をそっと逸らした。
けれど心の奥底では、その存在が気になって仕方がなかった。
◆◇◆
店を出たあと、馬車に揺られながらカンヌはノートを膝に抱きしめていた。
ページには三軒分の記録が並んでいる。
一軒目――「白い薔薇亭」のイチゴショートケーキ。
二軒目――「紅茶の庭」と「ふわふわパンケーキ」。
三軒目――「カカオの小部屋」のチョコレートパフェ。
「こうして並べてみると、私、本当に生きている実感がある……」
破滅の未来に怯えていた頃には想像もしなかった時間。
甘味と紅茶に囲まれ、ノートに言葉を刻む――それが今の自分を確かに形作っている。
そして、カンヌは小さく笑った。
(あの男性……もしかすると、いずれ私の道を交差する存在になるのかもしれないわね)
夕暮れの街並みが、彼女の胸に新しい予感を運んでいた。