閑話1 サンオリ=ポール 父に叱責される!
悪役令嬢の決別 ― カンヌ=アヴィニヨンの新たな道
ポール伯爵邸の執務室は、重厚な扉が閉じられた瞬間から張りつめた空気に満ちていた。
深紅の絨毯の中央に立つサンオリ=ポールの顔は蒼ざめている。
対するのは、金縁の椅子に腰かける当主、ボルドー=ポール伯爵。
五十を超えた威厳ある男で、広い額に刻まれた皺が怒りを示していた。
「……サンオリ」
低い声が響き、息子の名を呼ぶ。
「アヴィニヨン家との婚約を、一方的に破棄したそうだな」
サンオリは震える唇を動かした。
「……彼女は、わがままで高慢です。男爵令嬢のナンテールこそ、僕にふさわしい」
「ふざけるな!」
伯爵の拳が机を叩き、重厚な木の板が鈍い音を立てた。
「お前はポール家の三男。家を継ぐこともなく、独自の領地もない。だからこそ、アヴィニヨン伯爵家に婿入りし、家の力を広げるのが最も賢い道だったのだ!」
サンオリの肩がびくりと震える。
「し、しかし……愛のない結婚など、無意味です」
「愛? たわけが!」
ボルドーの眼光は鋭く、冷たい。
「貴族にとって婚姻は家と家の契約だ。愛だの恋だの、そんなものは後から添えればよい! アヴィニヨン家は伯爵家の中でも古い血統。娘のカンヌ嬢は器量も悪くない。むしろ、お前のような三男が婿に迎えられることこそ僥倖だったのだ!」
「……っ」
父の言葉に、サンオリは口を閉ざした。胸中では反論が渦巻く。だが、愛しいナンテールの笑顔が脳裏をよぎり、言葉は出ない。
「聞け、愚息よ」
ボルドーは立ち上がり、机越しにサンオリを睨み据えた。
「カンヌ嬢との婚約を継続し、アヴィニヨン家に婿入りするか。さもなくば――ポール家から勘当され、一切の支援を断たれて生きていくか。選べ」
その声音には、一片の情けもなかった。
◆◇◆
一方そのころ、アヴィニヨン伯爵邸の自室。
カンヌは鏡の前に座り、ドレスを着替えることも忘れて窓の外を眺めていた。
大広間での出来事は、瞬く間に社交界の噂になっていた。
しかし、その内容は「悪役令嬢が婚約者を虐げた」ではなく――。
『カンヌ嬢は婚約者に裏切られ、男爵令嬢に婚約を奪われた』
『気丈に振る舞ってはいたが、あれは哀れだった』
そんな同情混じりの噂が、広がり始めていた。
「……皮肉なものね」
カンヌは小さく笑った。
ゲームの筋書きでは、自分は嫉妬深い悪役令嬢として罵られ、断罪され、家をも巻き添えにして没落するはずだった。
だが今のところ、誰も彼女を断罪してはいない。むしろ、可哀そうな被害者として語っている。
(筋書き通りにはいかない。だったら――)
胸の奥に、固い決意が芽生えていた。
「わたしは、もう愛だの結婚だのに振り回されない。自分の人生を、自分で選ぶの」
思い出すのは、前世でアルバイトの帰りに立ち寄ったカフェの温かな灯り。
小さなケーキや香り高いコーヒーに、疲れが癒された夜。
あの時の心地よさを、この世界でも探してみたい。
カンヌは机に広げたノートを開き、静かにペンを走らせた。
『新たな道を歩む。まずは、王都のカフェを巡ってみよう。
甘いものと温かな時間を、自分の手で見つけるのだ』
書き終えた文字を見つめ、彼女は深く息を吐いた。
◆◇◆
同じ夜、ポール伯爵邸の客間ではサンオリが椅子に腰掛け、父の言葉を思い返していた。
「……アヴィニヨン家に婿入りするか、勘当されるか」
ナンテールの笑顔を選ぶなら、すべてを失う。
家の庇護も、財産も、地位も。
けれど、伯爵令息としての義務を果たせば、愛を捨てることになる。
サンオリは拳を握りしめた。
「なぜ、僕だけが……」
そのつぶやきは虚しく響き、誰の耳にも届くことはなかった。
一方で、カンヌはすでに新しい道を見つけていた。
哀れな令嬢として同情されるか、それとも破滅に向かう悪役令嬢になるか――。
彼女は、そのどちらでもなく、自ら選んだ未来へと進もうとしていたのだった。