第9話 店を出た後の二人
カンヌ視点 ― 店を出た後の会話
冷たい外気が頬に触れた瞬間、私は小さく息をついた。
店内での騒動の余韻がまだ胸に残っている。
あの人――サンオリ様の叫び声と、私を見下ろす冷たい視線。
終わったはずの関係が、あのような形で再び私を縛ろうとするとは思わなかった。
「……大丈夫かい?」
隣を歩くランスが、穏やかな声をかけてくれる。
その横顔を見て、私は少し安心した。
「はい……ごめんなさい、巻き込んでしまって」
「気にしないでほしい。君に非はない。むしろ、僕がもう少し早く止めに入るべきだった」
そう言って苦笑を浮かべる。
頬には赤みが残っているけれど、痛みを隠そうとしているのがわかる。
私は足を止め、そっと彼の顔を覗き込んだ。
「……本当に、痛くないのですか?」
「ん? ああ、このくらい、かすり傷みたいなものだよ。剣の稽古でよくあるからね」
「でも……」
思わず声が強くなる。
けれど、彼は笑って肩をすくめた。
「それに、君があんな毅然とした態度を見せてくれた。あれで痛みなんて吹き飛んださ」
胸が熱くなる。
私はただ、もう二度とあの人に縛られまいと心に決めていただけ。
それを「毅然としていた」と言われるなんて、少し照れくさい。
二人で石畳の道を歩き続ける。
夕方の光が町並みを金色に染め、遠くで鐘の音が鳴っていた。
「そういえば」
ランスが言葉を繋ぐ。
「君は甘いものが好きなんだね。さっきのタルト、とても幸せそうに食べていた」
「えっ……そ、そうでしたか?」
思わず耳まで熱くなる。
確かに、あの店のスイーツはとても美味しかった。
でも、彼にそんなふうに見られていたなんて。
「うん。僕まで嬉しくなったよ。……実を言うと、ああして誰かと一緒にカフェで過ごすのは初めてなんだ」
「えっ、そうなんですか?」
「貴族の家に生まれると、どうしても付き合いは堅苦しいものばかりでね。甘いものを楽しむ時間なんて、誰かに笑われるんじゃないかと思って避けていた。でも、今日、君と一緒にいて――そんな考えは無駄だったと思えた」
彼の声は穏やかで、嘘のない響きを持っていた。
私の胸に、ぽっと温かい灯がともる。
「……私も、同じです」
気づけば口から言葉が零れていた。
「誰かと甘いものを食べて、こんなに楽しい気持ちになるなんて思っていませんでした」
ランスが少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。
「なら、また一緒に行こう。今度はもっと静かな店を探そうか。君が落ち着ける場所で」
――また一緒に。
その言葉が胸に残り、足取りが少し軽くなる。
けれど同時に、心の奥に小さな不安も芽生えた。
サンオリ様の執着が消えるはずはない。今日の一件で、むしろ逆恨みを深めたかもしれない。
「……怖い顔をしている」
ランスが立ち止まり、私を覗き込む。
「さっきのことを気にしているんだね」
「……はい。サンオリ様は、簡単には諦めないと思います」
「心配しなくていい」
彼は真剣な瞳で言った。
「君に何かあれば、僕が必ず守る。これは約束だ」
不意に心臓が跳ねた。
そんな真っ直ぐな言葉を向けられるのは初めてで、どう返していいのかわからない。
「……ありがとう、ございます」
やっとのことで声にすると、彼は少し安心したように微笑んだ。
二人で歩き出すと、街の灯りがともり始めていた。
行き交う人々の笑い声、遠くから聞こえる楽師の笛。
そんな賑やかな音に包まれながらも、私の心は不思議な静けさに満たされていく。
――今日の出来事は決して良いものではなかった。
けれど、その中で出会ったランスの優しさは、私にとって大切な光となった。
これからどうなるのかはわからない。
けれど、少なくとも今この瞬間、私は彼と一緒に歩いている。
その事実だけで、心が少し強くなれる気がした。




