第8話 カフェ ル・シュクルでの乱入者
午後のカフェは、甘い焼き菓子の香りと人々のざわめきで満ちていた。人気店「ル・シュクル」の窓際席に腰掛け、私はカップを傾けていた。薄桃色のドレスに身を包み、陽射しを受けながら、向かいの青年と笑みを交わす。ランス=ド=リヨン――穏やかな物腰の彼と過ごす時間は、柔らかく心を満たしてくれる。
「この店のマドレーヌは格別ですね。外はさっくり、中はふんわり。君の好みに合うかと思っていたんだ」
「ええ、とても美味しいです。お心遣いに感謝しますわ」
会話は途切れることなく続き、私は穏やかなひとときを噛みしめていた。だが、その平穏は突然破られる。
――硬い靴音。店の入口から、異様な気配が迫ってくる。
「な、何をしているんだ……!」
怒鳴り声と共に現れたのは、見覚えのある顔。サンオリ=ポールだった。赤らんだ顔、荒い息。周囲の視線を浴びながら、彼は私たちのテーブルへと突進してくる。
「カンヌ! 僕というものがありながら、見知らぬ男と……完全なる浮気ではないか!」
私はカップをそっと置き、冷静に彼を見返した。胸の奥では驚きよりも、深い諦めが広がる。やはり来てしまったか、と。
「……サンオリ様? 何を仰っているのですか。あなたとは婚約破棄されていますが」
「な、何だと……!」
「ですから、私とあなたの関係はすでに終わっているのです。どうぞナンテール嬢とお幸せに」
淡々と告げると、彼の顔は歪んだ。幻想が崩れたのだろう。必死に縋るような声が続く。
「ま、待て。お前は僕に惚れていたはずだろう!」
「それは……昔のことですね」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。けれど、それが今の私の本心。彼に対する想いは、もうとうの昔に消え去っている。
「そ、それでは困るのだ! 婚約を戻さなければ、僕はポール家を勘当されてしまう! さらにナンテールにも捨てられてしまうんだ!」
必死の叫び。しかし、私の胸は動かない。目に宿るのは軽蔑だけだ。
「……それは、わたしには関係ありません。どうせ、アヴィニヨン伯爵家の地位と財産が狙いなんでしょう?」
「そうだ!」
彼は自ら認めてしまった。私は呆れを隠さず、ただため息をつく。対面のランスが、ついに口を開いた。
「君、静かにしたまえ。ここにはほかのお客もいるのだ。それに君の言動は、あまりにもカンヌ嬢に失礼だぞ。彼女に謝罪したまえ」
サンオリの目がギラリと光り、ランスに向けられる。
「……お前か。お前が僕からカンヌを奪ったのだな!」
拳が振るわれ、鈍い音が響いた。ランスの頬がわずかに揺れる。客たちが悲鳴を上げる。私は思わず立ち上がった。
「やめてください!」
けれど彼は聞かない。再び拳を振るうが、ランスは軽く身をひねってかわした。その冷静さに、私の胸はわずかに安堵する。
「カンヌは僕のものだ! お前ごときが隣に座るなど許されない!」
彼の叫びは哀れでしかない。その瞬間、店のスタッフが駆け寄り、サンオリを後ろから押さえつけた。
「お客様、困ります! 暴力行為は許されません!」
彼は必死にもがき、なおも叫ぶ。
「離せ! 僕はカンヌの婚約者だ! 彼女は僕を愛しているんだ!」
私は静かに首を振った。最後の情も、残ってはいなかった。
「……いいえ。あなたと私は、もう何の関係もありません」
冷たく告げると、彼は崩れるように力を失った。スタッフに引きずられ、店外へ放り出される。扉が閉まった途端、静寂が戻る。
私は深く息を吐き、胸の奥に残る重苦しさを押し出そうとした。ランスが頬を押さえながら、苦笑を浮かべる。
「まったく……驚いたな。だが、君の毅然とした態度に感心したよ」
「ごめんなさい、巻き込んでしまって……。顔は、大丈夫ですか?」
「これくらい平気だよ。だが、念のため治療しておこう」
そう言って彼は立ち上がり、私に手を差し伸べてくれる。私はその手を取って、静かに頷いた。甘い焼き菓子の香りがまだ漂っている。けれど、心の中には、過去を切り捨てた冷たい風が吹いていた。
私たちは連れ立って店を後にした。後ろには、再び穏やかな時間を取り戻したカフェのざわめきが広がっていた。




