26.厄介事
リタの居る客間の扉を開けると、立ち上がったリタが深々と頭を下げた。
「火急の用があって参りました。ご無礼をお許しください」
「いいのよ。顔をあげて、リタ。何があったの?」
リタは私の頼みでマリアンとコルネリアの家庭教師もやってくれている。表向きは父が交渉して雇ったということになっているが、本来リタは男爵家ごときが雇えるような教師ではない。リタ自身が元伯爵家の令嬢で、今は夫を亡くし未亡人となっているが元伯爵夫人だからだ。
リタにはマリアンに何かあったり、コルネリアと父がなにか動きを見せたらすぐに伝えてほしいと言ってある。要するに家庭教師として男爵家に潜入する任務を与えたわけだ。
「それが……カトリル男爵家にトリトン子爵家の人間が接触したようです。ローランド様はトリトン子爵家に認められたと大喜びで、何かしらの契約を結んだ様子でした」
私は眩暈がして倒れそうになった。トリトン子爵家は保守派貴族の筆頭だ。高位貴族家にとっては敵だと言っていい。
彼らは商売で名を上げた成金で、しかしそれゆえに高位貴族でも手を出すのが難しいほどに、この国の物流に影響力をもっているのだ。それだけならいいが、守護獣を持つ家が牛耳る今の貴族制度に懐疑的で、もっと国に貢献した貴族こそが上に立つべきだという思想が最も強い家でもある。
恐らくトリトン子爵家は、領主任命式での私と父のやりとりから父ならば御せると考えたのだろう。彼らが父を利用して何をしようとしているのか、考えるだけで頭が痛む。
身内として領主任命式に招待するように言っておきながら、敵にしっぽを振る父はきっと何も考えていない。
せっかくマリアンをこちらの寄子として保護しようと他の寄子たちに協力を要請したのに、すべてが無駄になった。
幸いなのは、母が父には一切テレス家の事業に関わらせなかったことだろう。父の口からこちらの機密事項が漏洩することはない。
父は元々一代限りの男爵家の子息なのだ。平民になるはずだったのに、たまたま強い治癒の異能が発現したから母と異能婚させられただけで、貴族らしい教育は一切うけていない。母は一度は学ばせようとしたが、その頃には父はコルネリアと良い仲だったために逆に知恵を与えない方がいいと判断したそうだ。
今となっては最低限の常識くらいは叩き込んでおくべきだったのではと思う。おバカな父は保守派にとって絶好のカモだろう。
「それとお嬢様。コルネリアは男爵夫人として最低限のマナーを学ぶだけでいいと言ったのでそのようにしますが、マリアンは学べることは全て学びたいと言っております。トリトン子爵家はテレス家の寄り子である私が家庭教師をしていることに何か言ってくるかと思ったのですが、そのような様子もなく……引き続き二人の教師を継続すべきか判断を仰ぎたく思います」
私は悩んだ。トリトン子爵家が父たちを利用するつもりなら、自分たちの息がかかった家庭教師をつけるのがいいはずだ。それが明らかに私の息がかかった家庭教師がついていても辞めさせようとしないなんて不気味である。
「……もう少し様子を見ましょう。また何かあったら教えてちょうだい」
「かしこまりました」
私は一息ついてテッサを呼んだ。お茶の支度を頼むと、リタにマリアンの様子をたずねる。
「マリアンはいい生徒ですよ。大変意欲的で、将来はお嬢様のようになりたいのだと零していました。ただそれを聞いたコルネリアが、お嬢様よりもマリアンの方が優れているのだと洗脳のようにマリアンに語っていたのが気になりました。どうやらコルネリアはお嬢様をかなり敵視しているようです」
コルネリアに関してはそれはそうだろうなと思う。そんな中でマリアンが私を慕ってくれているのは意外だった。私のようになりたいと言われて悪い気はしない。
「マリアンは特に音楽の才があるようで、新たに声楽専門の教師をつけるべきだと男爵に進言させていただきました。苦手なのは算術ですね」
「あら、一応姉妹なのに私とは全然違うのね。違うというか真逆なんじゃないかしら」
「その通りでございますね。ですがお嬢様の場合は領主としての教育を最優先で詰め込みましたから、音楽にかける時間が極端に少なかったことが原因かと。音楽を学びたいのでしたら今からでも遅くはありませんが、いかがいたしましょう」
「そうね、マリアンが声楽なら、私はピアノでも習おうかしら。前に少しやった時楽しかったのよね」
実は唯菜はピアノを習っていた。惜しくも賞は逃したが、コンクールに出場するくらいは真剣にやっていた。唯菜の記憶を垣間見たことでそのスキルが引き継がれているなら、私もピアノが上手になっているはずだ。
「ではそのように手配しておきます。……いつか姉妹で共演できるといいですね」
リタは穏やかに笑ってそう言ってくれる。私もそんな未来がくればいいと思う。マリアンのことを思うたび未来視でみた光景が頭をよぎるが、私は絶対に回避して見せると改めて心に誓った。




