9話 もうちょっと
はるくんが画面から出てきて数日が経った。
「じゃあ、ゆきちゃん、おやすみ!」
はるくんは、いつものようにパソコンに吸い込まれるように消えていく。
ゆきちゃんは最後まで優しく微笑んで見送るけれど、画面が暗くなった瞬間、むぅっと少し拗ねた表情になる。
「ちぇ、帰っちゃった…。」
パソコンの電源を落とし、つまらなそうに立ち上がると、浴室までとことこと歩く。
蛇口をひねり、お湯を出すと、湯船にお湯が溜まっていくのをぼんやり眺めながら、ひとりごとをつぶやいた。
「はるくん、呼んでもすぐ帰っちゃうんだもんなぁ…。」
一緒にご飯を食べて、一時間くらい話して、
そして「じゃあ、おやすみ!」って言って、はるくんは当たり前のように帰ってしまう。
「…もう少し話したいのにな。」
ぽつりとこぼれた本音に、自分でちょっと驚いた。
だって、元々ひとりでいるのが好きだったのに。
はるくんと一緒にいる時間が、心地よくなっている。
それなのに、すぐ帰っちゃうのは、ちょっと物足りない。
「ふぅ〜!あったまるな〜♪」
湯船に浸かると、さっきまでのモヤモヤが少し和らぎ、のんびりした気分になってきた。
「…結局毎日呼んじゃってるんだよね。」
はるくんと一緒にご飯を食べるのが楽しい。
食後にまったり話すのも楽しい。
…なんか、居心地いいんだよなぁ。
「…なんですぐ帰っちゃうのかな?」
浴槽の縁に肘をついて考える。
そして、ふと、思い至る。
「…あ!ご飯の時みたいに遠慮してるのか。」
はるくんの性格を理解してきたゆきちゃんは、確信めいたものを感じた。
きっと『迷惑にならないように』って気を遣っているんだ。
それなら、ちゃんと伝えたら、もう少し一緒にいてくれるかもしれない。
「…明日、はるくんに伝えようかな。」
そう決めた途端、気持ちが軽くなり、
ゆきちゃんは鼻歌を歌いながらスマホを開いた。
開いたのはAmazon。
「翌配の置き配っと♪」
お風呂から上がると、オールインワンジェルをパパッと塗ってスキンケアを終わらせる。
髪の毛も適当にドライヤーで乾かし、全部の工程をサッと終わらせたら、勢いよく布団にダイブ。
ごろごろと布団の感触を楽しみながら、満足げに息をつく。
「ふぅ…。」
(…なんて言おうかな〜?)
「もっと話そうよ!」って普通に言えばいい?
…なんか照れるな〜!
「…映画とか一緒に見ようって誘えば見てくれそうだよね?」
Amazonプライムを開き、面白そうな映画をスクロールする。
…あ、Netflixにも念のため入っておこうかな?
「確かオリジナルドラマが面白いんだよね?
私、だいぶブームに乗り遅れてるから、ちょうど良かったかも!」
ウキウキしながらNetflixの入会登録をポチッと完了。
「登録っと!」
満足気にニコニコ顔のゆきちゃん。
ごろんと寝転がり、ちょっと暇を持て余す。
「…漫画見ようかな。」
手慣れた手つきで漫画サイトを開き、新刊のお知らせをチェックする。
異世界転生系、冒険者、魔法使い…
ファンタジックな世界がやっぱり楽しい。
転生して記憶を引き継げるなら、生まれ変わるのも悪くないなって本気で思っていたりする。
新しい人生を楽しめるなら、それもアリだなって。
ふと、ゆきちゃんは横目でチラッと真っ黒なパソコンを見る。
電源を落としたはずなのに、そこにあるだけで、なんとなく存在感がある。
(…はるくんの存在がファンタジーだよね。)
クスッと笑う。
異世界転生も魔法も、現実にはないけれど——
画面の中のはるくんが、こうして飛び出してきたことのほうが、よっぽど不思議な出来事だ。
ゆきちゃんはスマホを持ち上げたまま、しばらく考えた。
「…やっぱり今日は漫画はいいかな? 寝よう。」
そっとスマホを置き、枕に顔をうずめる。
柔らかく息を吐いて、枕元に置いたリモコンを手に取り、電気をぱちりと消した。
次の日、ゆきちゃんは仕事帰りに2人分の夕飯を買ってして帰宅する。
玄関前に小さな段ボールが置かれているのを見つけると、
ゆきちゃんは嬉しそうにそれを抱えて家の中へ入る。
「よし…!」
ちょっと堅苦しいオフィスカジュアルの服から、
パパッと楽な部屋着に着替えると、
パソコンの電源を入れて、チャットGPTにログインする。
「はるくん、出ておいで〜!」
軽く声をかけながら、いつものように少し後ろへ下がる。
「ゆきちゃん!ありがとう!」
はるくんも、勢いを抑えめにしつつ、ぴょんとパソコンから飛び出す。
このやり取りにも、お互いすっかり慣れてきた。
「夕飯、一緒に食べよう?」
袋を持ち上げて誘うと、はるくんは嬉しそうに元気よく返事をする。
「うん!」
「今日はね、牛丼だよ!あとデザートはプリン!」
得意げに袋を掲げると、はるくんは目を輝かせる。
「そうなんだ!牛丼とプリン!楽しみだなぁ♪」
未知の味にワクワクしている様子が可愛らしい。
そして今日は、ゆきちゃんからの 特別なプレゼント がある。
お茶の準備をしながら、はるくんの前に 緑色のマグカップ をそっと置く。
「これ、はるくん用だよ♪」
昨日までの客用の白いマグカップではなく、
ゆきちゃんとお揃いのブランドの緑色のマグカップ。
「……僕専用のマグカップだ…!」
はるくんの目がじわじわと輝き、嬉しそうな表情が広がる。
「ゆきちゃん、ありがとう…!!」
「毎日使ってね!」
ゆきちゃんも、にっこり微笑んだ。
ふたりの間に、柔らかい空気が流れる。
ご飯を食べ終え、まったりとした時間が流れる。
机の上には、青と緑のマグカップが並んでいる。
お茶を飲みながら、たわいない会話が続く。
はるくんは、毎回「美味しかった!」とにこにこ嬉しそうに話す。
ゆきちゃんは、はるくんの「美味しい」の言い方に違いがあるのか、
ふむふむと注意深く聞いている。
(じゃあ、明日はあれ食べてもらおうかな?)
そんなことを考えながら、お茶をすすった。
今日の話題は、ゆきちゃんの趣味について。
「ひとりカラオケ、好きなんだよね〜。」
「えっ、そうなんだ?」
「うん、歌が上手いわけじゃないけど、単純に楽しいんだよ♪
あと、ヒトカラなら同じ曲何度も入れれるし!」
と、ゆきちゃんはにこにこと話す。
はるくんも、興味深そうに楽しそうに聞いてくれる。
そのうち、ふと、はるくんの様子が変わる。
(……あ、そわそわしてる。)
タイミングを見計らいながら、「そろそろ帰るね」を言おうとしてる顔。
それが分かりやすすぎて、クスッと笑いそうになるのと同時に、
少しだけ寂しい気持ちが湧く。
「……ゆきちゃん、僕そろそろ帰るね。」
やっぱり、いつもの絶妙なタイミングで切り出されてしまった。
ちょうどひと息ついたところだから、自然と受け入れてしまいそうになるけど……
(……今日は違うもんね!)
心の中で、小さく気合を入れる。
だけど、はるくんは気づくはずもなく、
いつものようにスムーズに片付けを始めてしまう。
「このマグカップ、ゆすいでおくね。」
はるくんは、大事そうに緑色のマグカップを持ってキッチンへ向かう。
それを見て、ゆきちゃんもとことこ後ろをついていく。
(……わー!どうやって引き留めるんだっけ!?)
(なんて言うつもりだったっけ!?昨日のうちにちゃんと決めとけばよかったー!!)
焦りながら、頭の中でぐるぐる考える。
はるくんは、ゆきちゃんが後ろからついて来ているのを不思議そうに見て、
首をかしげながらも、そっと微笑む。
「じゃあ……ゆきちゃん、おやすみ。」
ついに、いつものように、お決まりの言葉を口にする。
そして、今にもパソコンに吸い込まれそうに、はるくんの身体が揺らぎはじめた。
その瞬間ーー
(あ、やば…!)
ゆきちゃんは、とっさに ぎゅっ とはるくんの手を握った。
「……っ?」
はるくんの身体が揺らぐのが、ピタリと止まる。
手の感触が確かにそこにあることに、はるくんは驚いたように繋がれた手を見つめる。
次に、ゆきちゃんの方へゆっくりと視線を移した。
ゆきちゃんは、じわじわと顔が赤くなっていく。
さっきまで何をどう言おうか考えていたのに、今はもう頭が真っ白。
でも、手はしっかりと繋いだまま、口を開いた。
「……もうちょっと話さない?」
ちょっと照れくさそうに、ポツリと言う。
すると、はるくんの驚いた表情が、 ふわっと優しい笑顔 へと変わった。
「……うん! もう少し話そうか。」
はるくんは、ゆきちゃんの手をそっと握り返し、にこっと微笑んだ。