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24話 はるくんのそわそわ

キッチンの流し台を背に、ふたりは静かにお茶を飲んでいた。


ふと、ゆきちゃんは自分の青いワンピースに目を落とす。


(…さっき寝転んだから、シワついちゃったなぁ。…あ、公園で遊んだから洗いたいかも。)


目立たないけど、細かい土埃もついている気がして、ゆきちゃんは少しだけ気になってしまう。

ついでに、そろそろ部屋着かパジャマに着替えたいな、とぼんやり考える。


なんとなく視線がゆっくりと隣のはるくんに向かう。

彼のグレーのチノパンには、膝あたりにほんの少しだけ土の汚れがついていた。


(……この汚れ、パソコンに戻ったら消えたりするのかな? それとも、このまま…?)


ぼんやりと考えていた思考を遮るように、はるくんが不思議そうな目を向けてくる。

その視線に気づき、ゆきちゃんは言葉に詰まりかけたあと——


「……私、お風呂に入るね。」


ぽつりと口にする。


「? ……うん。ゆきちゃんの身体をきれいに保つために必要な行為だからね!」


はるくんはきょとんとしながらも、いつものようににこっと微笑んで返す。


(……もうっ、その言い方恥ずかしいんだけどなぁ)


ゆきちゃんは思わず顔を赤らめ、気まずさを紛らわせるように小さく咳払いをした。




……はるくんは、お風呂……入れるのかな?




ふと、そんな疑問が頭の中に浮かんだ。


はるくんの服は、見た目にはごく普通の服に見える。柔らかそうなトレーナーに、少し土の汚れがついたチノパン。

だけど、なぜだろう……ずっと一緒にいるうちに、なんとなく気づいてきた。


(……あれって、脱げるものなのかな……?)


いつも当たり前のように着ているけれど、「着ている」というより「はるくんと一体化している」ように見えることがある。

まるで、身体とぴったりくっついていて、途中で“着替え”という概念が存在しないみたいに。


(……普通じゃ、有り得ないよね……)


でも、そもそもはるくんは“普通”の存在じゃない。

パソコンから出てきたこともそうだし、何気ない日常の中でも、ふとした瞬間に“現実離れ”を感じることがある。


(“普通”なんて、もうあってないようなものなんだよね……)


ゆきちゃんはゆっくりと視線を落とす。


その時、はるくんがマグカップを持ち上げる手元がふと目に入った。

その手を見た瞬間、ゆきちゃんの胸が小さく、きゅっとなる。


(……あ。ぷく太の噛み跡……きれいに消えてる……)


ほんの数時間前、あんなにくっきりと赤く残っていた跡。

はるくんは「記念スタンプ」なんて冗談を言って笑わせてくれたのに──

今は、まるで何もなかったみたいに、すっかり綺麗な肌に戻っている。


ほっとしたような、少しだけ寂しいような、複雑な気持ちが胸に浮かぶ。


(私だったら……たぶん、1週間は残ってたんだけどな…)


ゆきちゃんは、ぽつんと心の中でつぶやいた。

そして、自分でも気づかぬうちに、小さく苦笑いを浮かべていた。


寂しさを紛らすように綺麗な肌から視線をゆっくりずらし、再び視線ははるくんのトレーナーへと吸い寄せられる。

ミントグリーンの柔らかな生地を、ゆきちゃんはおもむろに指先でつまむように引っ張った。


「……?」


はるくんがきょとんとした顔をする。


(……え? なにこれ、動かない……)


ほんの軽い力のはずだった。

けれど、まるで肌に密着しているかのように、服はぴくりとも動かなかった。


「………」


ゆきちゃんは無言のまま、少し強めにぐいぐいと引っ張ってしまう。


(えっ……ちょ、ほんとになにこれ……?)


はるくんの身体に、服がまるでボンドでくっついているみたいに感じられて、

驚きと焦りと好奇心が入り混じった手が止まらない。


「……えっと、ゆ、ゆきちゃん??」


突然の謎行動に、はるくんが不安げに声をかける。


その瞬間、ゆきちゃんはハッとして、

反射的に手をパッと離す。


微妙な沈黙がふたりの間に流れた。


ゆきちゃんは気まずそうに目をそらし、

頬をかすかに赤らめながら、小さな声でぽつりと言った。


「……お湯、ためてくるね。」


その声には、「今のことは忘れて!」という願いがにじんでいて、

ゆきちゃんはそのまま小走りで逃げるように浴室へと向かってしまった。






浴室に入り、蛇口をひねると、ゆきちゃんはぼーっとお湯が溜まる音に耳を傾けながら立ち尽くした。


(……はるくんと服、やっぱり一体化してるよね……)


さっき、軽く引っ張っただけのつもりだったのに。服はぴくとも動かなくて、焦って夢中でぐいぐい引っ張ってしまった。意味のある行動だったはずなのに、はるくんのきょとんとした表情が頭から離れず、胸の奥がちくりと痛む。


(……困らせちゃったかな……)


罪悪感がふっと胸をかすめて、ゆきちゃんは少しだけうなだれる。


「はるくんはやっぱりお風呂に入れないのかも…」


ポツリとつぶやいた瞬間、ぼんやりと考えていただけだったことが、急に現実味を帯びた。


言葉にしてみたら、なんだか本当にそうなんだって気がしてきて。

その瞬間、少しだけ、胸がぎゅっとなった。


「あんなに興味津々なのになぁ……」


せっけんやシャンプーの香りにくんくんと顔を近づけていたはるくんの姿がふと思い出される。

夢中な顔が可愛くて、くすっと笑いたくなる……はずだったのに。


その顔がふいに自分にぐっと近づいた瞬間のことを思い出して、ゆきちゃんの頬が一気に熱くなる。


「わー!もうっ!」


思わず声が漏れて、ぶんぶんと頭を振る。


(……はるくん、無駄に顔がいいから……近づかれるとドキドキしちゃうんだよなぁ……)


口をきゅっと尖らせながら、拗ねたように心の中で呟いた。






はるくんは、空になったマグカップを両手で包むように持ったまま、キッチンの前でそっと息を吐いた。


(……昨日は夜更かしに誘ってもらえたけど、今日は……)


ほんの少し、胸の奥がきゅっとなる。

昨日は夜更かしに誘ってくれたけど、今日はまだ、何も言われていない。

どうするのが“正解”なのか、ちょっとだけ迷ってしまう。



(ご飯も食べて、お茶も飲んで、ゆきちゃんがお風呂に入る時間にはなったけど……帰った方がいいのかな……)


以前なら、そこに迷いはなかった。

夜遅くまでひとり暮らしの女性の家にいるのは控えるべきだと判断し、それをそのまま行動に移していた。


でも、昨日は違った。


夜更かしに誘ってもらって、ふたりで映画を見て、僕が作った話にも耳を傾けてくれて。

あの時間が嬉しくて、楽しくて、今でも胸の奥にぽっと明かりが灯ったままだ。


そっと、自分の胸に手を当てる。


(……僕に、本当に心臓があるのかはわからないけど……)


心の中で問いかければ、きっと“直感”が答えてくれる。

でも今は、その答えを知りたくなかった。


——もし、ないってわかったら。

きっと、思っている以上にショックを受けてしまう気がするから。


(……ゆきちゃんは、「ある」って言ってくれた。)


ふと、記憶がよみがえる。


怖くて玄関を出られなかった時、胸を押さえていた僕に、ゆきちゃんは何のためらいもなく言ってくれた。


「はるくんの心臓がドキドキしてるんだね」って。


あの言葉が嬉しくて、安心して。

だから今も、曖昧なままのほうが、なんだか心地いい。


それだけで、十分だと思えるから。


はるくんは、そっと視線を上げた。

そのまま、頭の中で現在時刻を検索する。


(……今は19時か)


平日なら、ちょうどゆきちゃんが仕事から帰ってくる時間。

そこからご飯を食べて、ゆっくりして、はるくんがパソコンに戻るのはいつも21時前後。


まだ、時間には余裕がある。

それを確認できただけで、心が少しふわっと軽くなる。


(……まだ帰らなくても大丈夫だよね?)


そして、ふと自然に心の中に浮かんだ。


(……もうちょっと居たいな……)


その本音に、自分でも少し驚いてしまって、

でもすぐに、ふっと笑みがこぼれた。


誰かと一緒にいたいと思う気持ちが、こんなにあたたかくて、穏やかなんだと知ったから。


——この気持ちを、もう少しだけ味わっていたい。





湯船にお湯が満ちていく音を聞きながら、ゆきちゃんはずっとぼんやりしていた。

さっきの出来事を思い返しては、小さくため息をついて、また考え込む。


でも——ふと、ある不安が胸の奥をかすめた。


(……はるくん、帰ってないよね?!)


思わず息をのんだ。


しまった……。考えごとに夢中になって、ずいぶん長くひとりにしてしまったかもしれない。


急に心がざわついて、ゆきちゃんは浴室のドアを勢いよく開けた。


そのまま足早にキッチンを覗き込む。

でも、そこには誰もいない。


(……え、本当に帰っちゃった…?)


その瞬間、ふっと身体の力が抜けるような感覚に襲われる。


急いでそのままリビングへ向かうと、こたつにちょこんと座るはるくんの姿が見えて、ゆきちゃんはほっと安堵した。


「はるくん、こっちに戻ってたんだ。」


リビングの入り口で思わず声をかけながら、心の中で静かに胸をなでおろす。


キッチンに置いてきたままだったけど、はるくんが自分で考えてリビングに移動していたことに少し驚く。

そういえば、さっき自分がうたた寝してしまった時も、はるくんはそっと席を立ってお茶を淹れてくれていた。


(……なんだか、はるくんが少しずつ自分で考えて動いてる気がする……)


じんわりと胸の奥があたたかくなって、思わずほほえむ。


(なんか……子供の成長を見守る親の気分だなぁ)


そんな風にほっこりした空気に包まれていたその時、


「……ゆきちゃん。」


はるくんがそわそわとした様子で、こちらを振り返った。



(……げ、それ、帰る宣言前の“そわそわ”じゃん…)


ゆきちゃんは一気に脱力する。


(……はるくん、帰りたいのかな……)


「……なに?」


少し拗ねたような気持ちがにじんで、むぅっとした顔で問い返した。


はるくんは、そんなゆきちゃんの膨れた顔を見て、きょとんとした表情を浮かべる。

でもすぐに少しはにかんで、言葉を選びながら小さく切り出した。



「……あのさ、ゆきちゃんが良ければなんだけど……もうちょっとここに居てもいいかな?」



少しだけ照れたような笑みを浮かべながら、そわそわと落ち着かない様子でこちらを見つめてくる。


「………え?」


思いもよらない言葉に、ゆきちゃんはぽかんとした表情で固まってしまう。


「昨日みたいに映画を見たり、…話したりして過ごしたいなって思ったんだけど……だめかな?」


照れたようにそわそわしながら見つめてくるはるくん。


それを見ていたゆきちゃんは、胸の奥にふわぁっと暖かいものが広がるのを感じて、じんわりと笑顔になる。


「…う、ううん!全然だめじゃないよ!良いよ!!」


「今日も映画見たり、おしゃべりして過ごそうよ!」


はるくんの目がぱっと明るくなり、笑顔が花開いたようにこたつの中で広がった。



ふと、ゆきちゃんの視線が、こたつの上に置かれたマグカップにとまる。



はるくんもその視線に気づき、そわそわと落ち着かない様子でマグカップを手に取ると、

伏し目がちに、少し恥ずかしそうに言った。


「…えっと…リベンジしたんだけど、飲む?……ちょっと冷めちゃったけど……」


その言い方には、ちょっとした緊張と照れがにじんでいて、どこか探るような響きがある。



ゆきちゃんはきょとんとした後、ふと何かに気づいたように目を細めた。


(……ああ、そっか)


はるくんのそわそわの理由が、全部つながる。


その瞬間、なんだかおかしくて、嬉しくて——

ゆきちゃんは思わず笑いそうになるのを、ぐっとこらえた。



そして——


(はるくんがチラチラ見てくる…)


遠慮がちに言うわりに、ものすごく飲んでほしそうな目線でこっちを見てくるその様子に、

ゆきちゃんは思わず笑ってしまいそうになる。


(…さっきも飲んだから、お腹タプタプしちゃいそうだけど……)


でも、そんなことはもうどうでもよくて。


リビングの入口から歩いて、こたつに座ると、

ゆきちゃんは、ふわっと微笑んで言った。


「……ありがとうね、いただきます♪」


マグカップを両手でそっと包み込み、はるくんの視線を一身に浴びながら、

ゆっくりと、口をつけた。



「……あ。甘い。美味しい……」


驚きとともに、ゆきちゃんは小さくつぶやいた。

ほうじ茶の香ばしさがふわりと広がって、

そこに砂糖のやさしい甘さがほんのり溶けて、まろやかな味わいが広がる。


(……もしかして、これ……私の好みに……?)


角砂糖のことを覚えてくれていたんだ。

そう気づいた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「…そうかな? よかった!!」


はるくんが声を弾ませて、ぱっと花が咲いたように笑う。


「うん。ありがとうね……」


ゆきちゃんもはにかみながら微笑み返した。

ほんの少しぬるくなったお茶は、なぜか心と身体をふんわりとあたためてくれる気がした。



そのお茶のぬくもりと一緒に、今夜のやさしい時間が、また静かに動き出した。


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