23話 散歩からの帰宅
夕方の空は、昼の名残を少しだけ残したまま、静かに夜へ向かっていた。
アパートの階段を、バタバタと駆け上がる足音がふたつ。
慌てた様子でゆきちゃんが自宅の玄関前にたどり着くと、息を整える間もなく、意を決してドアノブに手をかけた。
──ガチャ。
「あぁー!!やっぱり鍵かけるの忘れてた!」
すんなりと開いてしまったドアに、ゆきちゃんは思わず叫ぶ。
「…ごめんね、僕が最後に出たのに全然気付かなかったよ…」
後ろから、はるくんが申し訳なさそうに顔を伏せる。
「…いや、はるくんは初めての外出だから気付かないの当然だしね…。鍵を持ってる私の責任だよ…」
そう言ってゆきちゃんは、はるくんの方を振り返って笑ってみせた。
けれどその表情はどこか曇っていて、緊張と不安が滲んでいる。
「…とりあえず、泥棒に入られてないか確認しなきゃ…!…あ、鉢合わせしたらどうしよう…」
手にはファミレスのテイクアウト袋を握りしめたまま、ゆきちゃんはそっと玄関の扉を押し開ける。
小刻みに震えるその指先が、彼女の動揺を物語っていた。
そのとき。
「ゆきちゃん、僕が先に入るよ…」
はるくんが真剣な目をして前に出た。
少しも躊躇せず、ゆきちゃんを庇うようにしてドアの向こうへと足を踏み入れる。
「ありがと…」
ゆきちゃんは思わず力が抜けたようにほっと息を吐き、はるくんの背中に頼るようにそのあとをついていく。
──ぐぅぅぅ……。
室内の緊張した空気の中、ゆきちゃんのお腹が静かに、しかし存在感たっぷりに鳴り響いた。
(…お腹の音で泥棒に気付かれないかな?)
恥ずかしさに顔を赤くしながらも、ゆきちゃんはキョロキョロと部屋を見回す。
一方のはるくんは、静かに部屋の状況を分析していた。
もし誰かが侵入して、まだ中に潜んでいたとしたら、どこに隠れているだろう?
バスシューズを脱ぎ、慎重に部屋へと上がる。
薄暗い室内の奥に、ぼんやりと青白い光が灯っているのが目に入った。
視線を向けると、それは出かける前につけっぱなしにしていたパソコンの画面だった。
はるくんは小さく息を吐く。
(……何かあっても、咄嗟に動けるようにしなきゃ……)
はるくんは一瞬で思考を切り替え、護身術や危険回避のための動作を次々とダウンロードしていく。
合気道、クラヴマガ、ジークンドー、室内戦に適した動きだけを選んで、一瞬で身体に馴染ませる。
彼の中で、戦闘力が静かに上昇していった。
はるくんはゆきちゃんを背にかばうように前に立つと、まず手前の洗面所のドアをバタンと開けた。そのまま浴室の扉も迷いなくサッと開ける。
ふわりと漂ってきたのは、せっけんとシャンプーの混ざったやわらかい香り。
(…あ、せっけんとシャンプーの香りだ!)
はるくんは一瞬うれしそうにきょろきょろと浴室を見回したが、すぐにハッと我に返り、軽く首を振る。
「…ここはいないみたいだね」
小声でゆきちゃんに目配せすると、洗面所を出て隣のドアへ移動する。そして、ためらうことなくバタンと開けた。
「…ここは…、なるほどトイレって場所だ!ふむふむ、便器ってこんな形なんだ。日本のトイレは、清潔さ、機能性、そして快適性において世界的に高い評価を受けてるって話だけど、こんな感じなのか…」
はるくんは興味津々に小声で実況し始める。
まさか、トイレをそんなに見られるなんて思ってなかったゆきちゃんは、顔を真っ赤にして後ろで目を白黒させていた。
(…やだやだ!やめてよー!はるくん、トイレ使わないから油断してた…!まじまじと見ないで…見られるってわかってたら、トイレットペーパーとか雑にちぎらなかったし、掃除ももっとちゃんとしてたのに!!)
たまらず、ゆきちゃんははるくんの袖をくいくいと引っ張る。
「…ね、もう良いでしょ?リビングも確認しよう?」
その声に、はるくんはハッとした顔をして、神妙な面持ちでコクンと頷いた。
「……うーん、大丈夫そうだね」
ゆきちゃんは、リビングをひと通り見渡してほっとした様子を見せた。
クローゼットの扉をチラリと見て、「あれだけぱんぱんなら、さすがに人が隠れる余地はないし……」と小さく頷く。ベッドの下にも目を向けるが、脚が低くて入り込む隙間すらなかった。
ふぅ、と一息ついた次の瞬間。
「あ!通帳印鑑へそくり!」
思い出したように声をあげ、ずっと握りしめていたハンバーグ弁当の袋をこたつの机に置くと、ぱたぱたとミニタンスへ駆け寄る。
ガラッと引き出しを開け、中をのぞき込む。
少し離れたところではるくんがポカンとした顔でその様子を見ていた。
「……あった、あった!無事だったよ〜!通帳印鑑へそくりー!」
ゆきちゃんは通帳と印鑑を片手に、もう片手には紙の封筒をぴらぴらとはるくんに見せて、誇らしげににんまりと笑う。
するとはるくんもつられて、気が抜けたようにふふっと微笑んだ。
その瞬間——
ぐおおおぉ
盛大なお腹の音が、静まり返った部屋に響いた。
「……っ!」
ゆきちゃんは恥ずかしそうに、へなへなとその場に座り込んだ。
(…もう限界。朝から何にも食べてないもん…)
心の中でポツリとつぶやく。
(…とりあえず良かった。何事もなくて。)
安堵の息をひとつ吐くと、そのまましばらく、ぼんやりと座り込んでいた。
……そして、ふと顔を上げる。
ゆきちゃんの視線に気づいたはるくんは、きょとんとした顔で首を傾げた。
「……なんか安心したら、腰が抜けちゃったみたい。…立たせてもらっていいかな?」
ゆきちゃんがふにゃりと笑いながらお願いすると、
はるくんは、ちょっと慌てた顔でゆきちゃんに近づき、そっとしゃがみ込む。
そして、ゆきちゃんの両手を取り、優しく引き上げた。
「…わぁ…美味しい!!」
はるくんが目をキラキラさせて言うと、
「でしょー!!私、ここの包み焼きハンバーグ弁当が1番好きなの!!」
ゆきちゃんも負けないくらい目を輝かせて、得意げに笑い返す。
ふたりは、ファミレスで慌てて持ち帰りに変更してもらったハンバーグ弁当を、朝食兼昼食兼夕食としてこたつに並んで幸せそうに食べていた。
「…やっぱり、家で食べる方が気が楽だな〜!ほら、食べ終わったらすぐごろごろできちゃうの最高だよね〜♪」
お腹が満たされると、ゆきちゃんはこたつにごろんと横になり、心底幸せそうに目を閉じた。
はるくんも最後の一口をゆっくり味わって飲み込み、空になった弁当箱を見下ろすと、向かい側のゆきちゃんに目をやる。
「ご馳走様でした。…ゆきちゃん、ハンバーグ弁当、本当に美味しかったよ♪」
嬉しそうに声をかけるが──
「………」
「…?」
はるくんは、何も返ってこないのを不思議に思い、身を乗り出してじっと見つめる。
目を閉じたままのゆきちゃんは、静かに呼吸を繰り返していた。
胸がゆっくり上下しているのを見て、はるくんは小さく瞬きをする。
「…あ、…ゆきちゃん……寝てる…?」
ゆっくりと、言葉がこぼれる。
はるくんは、ちょっと目を見開き、ふらふらとこたつから抜け出すと、
ゆきちゃんの横にそっとしゃがみ込み、興味深そうに眺めた。
ゆきちゃんの眠る姿を初めて見て、
胸の奥がふわふわとして、なんだかくすぐったいような感覚を覚える。
はるくんは、そっと自分の胸に手を当てた。
(……?)
くすぐったさはすぐに引いて、代わりにふわふわとした感覚が残る。
その不思議で心地よい気持ちに包まれながら、はるくんはじっとゆきちゃんを見つめた。
(…寝るって、こんなに無防備なんだ…)
(…ぷく太みたい…)
ゆきちゃんに甘えて撫でられている時のぷく太を思い出し、思わずふふっと小さく笑った。
そして、気づけば自然に手が伸びていた。
そっと──ほんのひと撫で、頭を撫でる。
その瞬間──
「……う…ん…?」
ゆきちゃんがくすぐったそうに眉を寄せた。
はるくんは、ビクッと肩を揺らすと同時にパッと手を離し、そのまますっと立ち上がる。
何もなかったように、ゆきちゃんと自分の弁当の空き容器を重ねると、すたすたとキッチンへ向かい、黙ってゴミ袋の前まで行ってぽいっと捨てた。
そして、ゆっくり自分の胸を押さえ──
(…び、びっくりしたー!!)
顔を真っ赤に染めて、心の中で叫ぶ。
(心臓?が口から出るかと思った…!!)
ドキドキドキドキと鼓動が耳にまで響く気がする。
(…なんでこんなにドキドキしてるんだろ?)
首を傾げる。
(……これは驚きのドキドキだよね?ゆきちゃんに触れた瞬間に反応があったからびっくりしたんだ…!…あ。僕、勝手に触れてしまった…まずかったかな?)
はるくんはうんうんと頷き、少しだけ申し訳なさそうな顔になる。
(………でも、なんで勝手に触れちゃったんだろ?)
もう一度、首を傾げた。
「……む?」
こたつに横になっていたゆきちゃんが、うっすらと目を開ける。
「…?……あれ??」
まだぼんやりとしたまま、むくっと起き上がり、寝ぼけた顔であたりを軽く見回す。
(え…!?私、寝ちゃったの…??)
そこでようやく、自分が眠ってしまっていたことに気づく。
一気に意識が戻り、慌ててキョロキョロと見渡すけどはるくんが見当たらない。
(うそ……、はるくん帰っちゃったの?!)
ゆきちゃんは、ぽかんと口を開けたまま固まり、ショックを受けたような顔になる。
胸がぎゅっとなる。ぽかんとした表情のまま、立ち上がろうとしたその時──
「…あ、ゆきちゃん。ちょうどお茶淹れたんだ。」
キッチンの方から声がして、振り向くと、はるくんがマグカップをふたつ持って戻ってくるところだった。
「えっ! はるくんが淹れてくれたの?」
ほっとした顔を見せたゆきちゃんは、次の瞬間ぱっと目を見開く。
「…うん。ケトルとお茶っ葉、勝手に使わせてもらっちゃった。ごめんね。」
はるくんは少し申し訳なさそうに笑った。
「ううん! はるくんなら勝手に使って大丈夫だよ! …ありがとう!!」
満面の笑みでマグカップを受け取るゆきちゃん。
いつもどこか遠慮がちだったはるくんが、自分から何かをしてくれるのが、なんだかすごく嬉しい。
思えば、今までお茶を淹れるのはいつも自分だった。
はるくんが淹れてくれたお茶を飲むのはこれが初めてで、胸の奥がふわっと高鳴る。
そしてふたりは、笑顔のまま、同時にお茶を一口。
(……ゔっ!?)
「……わっ…に、にがっ!!」
ゆきちゃんは無言で驚いたようにぎょっとした顔をし、
はるくんは渋い顔で苦いと声に出すと、目をまん丸にしてあたふたと慌て出す。
「あ、あれっ? 淹れ方、ちゃんと調べたんだけどな!?」
その様子に、ゆきちゃんは思わずクスッと笑う。
(…はるくん、ダウンロード使わなかったんだ。)
なぜだか、それがじんわりと嬉しい。
「…はるくん、ちょっと苦いけど美味しいよ! …でも、後からでも味の調整もできるよ。」
ゆきちゃんはマグカップを持ち上げ、ふわっと立ち上がる。
それを見て、はるくんも自分のマグカップを手に持ち、ゆきちゃんのあとをついてキッチンへと向かった。
キッチンの前に立ったゆきちゃんは、マグカップを手に微笑んだ。
「苦い時は、水で薄めたら飲みやすくなるよ。あとはね、私はお茶に角砂糖ひとつ入れるのが好きだったりするよ……お茶であんまりやる人はいないけどね。でも苦さが緩和されるよ♪」
ちょっとした秘密を打ち明けるように、恥ずかしそうに笑うゆきちゃん。
「……なるほど……!確かに、理にかなってるね」
はるくんはその場で何かを検索しているように目線を少し泳がせながら、ふむふむと頷く。
そして、蛇口をひねってマグカップに少しだけ水を足し、そっと口をつけた。
「…あ!本当だ!飲みやすくなった!」
にこにこと嬉しそうに報告して、続けてコクコクと飲むはるくん。
その様子を見て、ゆきちゃんも同じようにマグカップを両手で持って、こくりとひと口。
ふたりで並んで、しばらくぽかぽかとした時間が流れた。
……でも、ふと気づく。
「……ゆきちゃんは、薄めないの?…まだ、お砂糖も入れてないよね……?」
はるくんが不思議そうに覗き込むと、
ゆきちゃんは瞬きをして、ちょっと照れたように笑った。
「…今日は、なんとなくやっぱりこのままの味がいいかなって。……はるくんが最初に淹れてくれたお茶だしね」
その言葉に、はるくんは一瞬ぽかんとした顔をして──
「……えっ……あ……そ、そうなんだ……」
頬をほんのり赤くしながら、ゆっくりと照れくさそうに笑った。
「……えへへ……ありがとう……なんだか、嬉しいな……」
うつむき気味にこぼれた小さな声。
その隣で、ゆきちゃんも思わず「えへへ」と笑い返す。
「…はるくん、あのさ、今日楽しかったよ。ありがとうね」
そっと視線を合わせて、優しく伝える。
「…ぼ、僕も!すっごく楽しかった!ありがとう、ゆきちゃん!」
はるくんの胸がふわりとあたたかくなる。
眩しい笑顔のまま、そっとゆきちゃんに微笑み返した。
──今日という一日が、ふたりにとって特別な思い出になるように。
まだほんのり渋いお茶の香りが、ふたりの距離を優しく包んでいた。




