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22話 はじめてのお散歩

秋晴れの午後。


アパートの共用廊下を、ゆきちゃんが先に立って歩いていく。

そのすぐ後ろを、はるくんがペタペタと軽い足音を響かせながら、楽しそうについていった。


手すりの向こうに目を向けたはるくんは、ふわっとした表情で空を見上げる。

広がる景色に見とれるように、ぽつりとつぶやいた。


「わぁ…」


その声を聞いて、ゆきちゃんはふっと小さく笑った。


「はるくん、階段気をつけてね」


そう言って、慣れたようにトントントンと階段を降りていく。


「うん!」


はるくんも明るく返事をして後に続くけれど、ぶかぶかのバスシューズが少し気になる様子で、慎重に足を運んでいた。


アパートの敷地を出たところで、2人はふと顔を見合わせる。

どこかほっとしたように、自然と笑みがこぼれた。


「はるくん、どこか行きたい場所ある?」


ゆきちゃんがふと問いかけると、はるくんはちょっと困ったような顔になって——でもすぐに笑顔を浮かべた。


「…えっと、ゆきちゃんの行きたい場所に行ってみたいな!」


(…えー、普段お休みの日はほんと出かけないんだよなぁ…)


内心でそう思いながらも、ゆきちゃんの顔に出ていたのはちょっと困ったような、でも優しい表情。

はるくんが何か言いかけたその時、先にゆきちゃんが言葉を継いだ。


「…じゃあ、とりあえずこの近所、ふらっと歩いてみる?」


申し訳なさそうにそう言うと、


「うんっ!!」


はるくんは顔をぱっと明るくして、嬉しそうに頷いた。




はるくんは、キョロキョロとあちこちを見回しながら歩いていた。

住宅街の静かな風景さえ、彼にとっては宝探しみたいに見えているようで、目をきらきらと輝かせている。

右を見ては「わぁ」、左を見ては「おぉ」と、心の声がつぶやいていそうなほど、嬉しそうな顔。


(……はるくん、ほんと楽しそう。)


その無邪気な様子に、ゆきちゃんは思わずふふっと笑みをこぼした。

何気なく歩いていた道が、はるくんがいるだけでちょっぴり特別な景色に見えてくる。


「はるくん、この道ね、たまに車通るから気をつけてね?」


ゆきちゃんはそっと声をかけながら、車道側に寄りかけていたはるくんの袖を軽く引いた。


「……あ、うん!ごめんね、気をつけるね!」


はるくんは少し驚いたように振り返ると、慌てたように笑って答える。

でもその目は、すぐまた周りの景色へと引き寄せられていった。


(……子どもみたい。いや、もう子どもだね、これは。)


ゆきちゃんは呆れたように優しく笑った。

2人で並んで歩くリズムは、てくてく、ペタペタと、どこかほのぼのしていた。


「……はるくん、そのバスシューズ、歩きにくくない?大丈夫?」


ふと足元を見やると、やっぱり少しぶかぶかしている。

心配になって声をかけると、はるくんはにこっと顔を輝かせて、


「大丈夫だよ!バスシューズの歩き方、さっきダウンロードしたから♪」


「えっ!?そんな歩き方まであるの!?……って、いつの間に?!」


思わず声が弾む。

ゆきちゃんはくすくす笑いながら、首をすくめて肩の力を抜いた。




ふと、ゆきちゃんは足を止めて、あたりを見渡す。


(平日のこの時間って、こんなに静かなんだ…)


住宅街の小さな通りには、誰の姿もない。

歩き始めてから一度も人とすれ違っていないことに、今さら気づく。

一年前、転職して平日休みになったけれど、休日は家にこもってばかりだったから、こんな時間の風景は初めてだった。


(…はるくんもいるし、またお出かけするのもありかもね。)


そんな気持ちがふわりと浮かび、自然と鼻歌がこぼれた。


「ン〜フフ〜ン♪」


すると隣から、はるくんがすぐに追いかけるように同じメロディをくちずさむ。


「ン〜フフ〜ン♪」


思わず横を向くと、ちょうどはるくんもこちらを見ていて、目が合った2人はふふっと笑い合った。


「なんか、昨日のはるくんのエンドロールの鼻歌、移っちゃったんだよね。」


くすくす笑いながらそう言うと、はるくんは嬉しそうに目を細めた。


しばらく、2人で同じ鼻歌をくちずさみながら歩いていると——

急に、はるくんの声がぴたりと止まる。


ゆきちゃんが不思議そうに隣を見ると、はるくんは道の途中で立ち止まって、どこかを指さしていた。


「…ゆきちゃん!あれってもしかして、公園?」


そわそわとした様子ではるくんが見つめている先には、住宅街の一角にぽつんとある、こぢんまりとした公園。

遊具が数台並んでいて、その中にひときわ目立つパンダのスプリング遊具がある。


「…ん?ああ、パンダ公園ね。…はるくん、入ってみる?」


ゆきちゃんがにこっと笑って誘うと、


「うん!」


はるくんは目をキラキラさせて、ぱっと顔を明るくしながら頷いた。




公園に足を踏み入れると、はるくんの視線があちこちへと忙しく動き始めた。

ブランコにすべり台、シーソー、鉄棒、そしてスプリング遊具。

どれもこれも初めて見る宝物みたいに見えて、はるくんは目をきらきらと輝かせながら一つ一つ見つめていた。


(この公園、入るのは実は初めてなんだよね〜…)


ゆきちゃんも一緒になって周囲を見渡す。

公園の外からも見える場所に、ぽつんと佇むパンダの遊具。

それを目印に、勝手に「パンダ公園」と名付けていた。


「…せっかくだし、少し遊んでいく?」


久しぶりに目にした遊具たちを前に、少しそわそわしながらゆきちゃんが声をかけると、


「本当?!うん!遊びたい!!」


はるくんはぱっと顔を明るくして、嬉しそうに前のめりで返事をする。


そんな様子を見て、ゆきちゃんもくすっと笑いながら目の前のシーソーを指さした。


「じゃあ…まずはシーソーから遊ぼっか?」


「うんっ!!」


はるくんは目を輝かせて、ぱたぱたとシーソーの反対側へ駆けていった。

スッと腰を下ろして、まっすぐ背筋を伸ばしてスタンバイする姿がどこか誇らしげで、わくわくが体いっぱいにあふれていた。


「……あれ?はるくん、シーソーの遊び方知ってるの?」


ちょっと驚いたように尋ねると、はるくんはにこっと笑って答えた。


「うん!さっき公園に入ったときに、遊具の使い方ぜんぶ調べたんだ♪」


少し得意げに胸を張って、でも嬉しさを隠しきれない様子に、ゆきちゃんも思わず笑ってしまう。


「準備がいいなぁ」


ふふっと笑いながら、ゆきちゃんも向かいのシートに腰を下ろす。


「じゃあ、いくよ?」


軽く地面を蹴ると、はるくんの方がすうっと沈んで、ゆきちゃんの体がふわっと浮いた。


続いて、はるくんが真似してトンと地面を蹴ると——


「……わっ!」


はるくんの体がふわりと浮いた。

足が地面から離れて、まるで風に持ち上げられるみたいに、すうっと空に浮かんでいく。


「……うわぁ……!浮いた……!」


目をまるくして、それからじわっと笑顔が広がっていく。


「これ、すごい……!ふわってなる……!ゆきちゃん、楽しいね!」



満面の笑顔でそう言うはるくんの姿に、ゆきちゃんの頬にも自然と笑みが広がった。


久しぶりに感じるこの浮遊感。

懐かしさと楽しさが心にふわっと広がって、思わず声がこぼれる。


「…うん!楽しいね!もっとやろうよ♪」


ふわっ、すとん。ふわっ、すとん。


軽やかなリズムにあわせて、シーソーが揺れる。

それに合わせて、2人の笑い声も少しずつ重なっていく——。




「…あー楽しかった!じゃあ次はあれね!」


満足そうな笑顔を浮かべて、ゆきちゃんはシーソーからひょいと降りると、すべり台を指さして小走りで駆けていく。


その無邪気な姿を見ていたはるくんは、胸の奥がトクンと跳ねたのを感じて、そっと自分の胸に手を当てた。


(……?……あ!そっか、楽しい時もドキドキするんだ…)


初めて知った感覚に、自然と表情がやわらいでいく。



「はるくん、すべり台はこうやって滑るんだよー!見ててね!……ひゃー!!」


すべり台のてっぺんでノリノリに声をかけたゆきちゃんは、勢いよくすべり台を滑り降りる。

その途中で、小さな悲鳴が思わずこぼれた。


(…ちょっと怖かったかも。子どもの頃は平気だったのに…!)


苦笑いを浮かべながら戻ってくるゆきちゃんの姿に、はるくんはうんうんと納得した顔で頷いて——迷わず階段を登っていく。


(…げ!はるくんの納得顔…嫌な予感しかしない…!!)


慌てて後を追おうとした時には、もうはるくんはてっぺんにいて、にこにこと笑いながらこちらを見ていた。


「ゆきちゃん、見てて!僕も滑るね!……ひゃー♪」


明るい声とともに滑り降りてきたはるくんは、ゆきちゃんの悲鳴までしっかり真似していた。


(……ほらー!また変なとこ真似してる!!わざわざ悲鳴つけなくていいのに…!)


自分の真似をされて、ゆきちゃんは思わず顔を真っ赤にする。


「ゆきちゃん、どうだった?僕ちゃんと滑れてた?」


はるくんが満面の笑みで駆け寄ってくると、ゆきちゃんはいたたまれなくなって、その手をぎゅっと握った。


「すべり台は今日は終わり!次はブランコね!」


言い終わるより少し早く、その手を強引に引いて歩き出す。


はるくんはちょっと嬉しそうに目を細めると、「うん♪」と素直に頷き、パタパタと足音を立ててついていった。




「ブランコはね、この板に腰掛けて前後に揺れて遊ぶんだよ〜!」


そう言いながら、ゆきちゃんははるくんの手をパッと離して、ひょいっと軽やかにブランコに腰を下ろした。


はるくんは、そっとその手をじっと見つめる。少しだけ名残惜しそうな表情を浮かべながらも、ゆっくりと隣のブランコに腰を下ろした。


ゆきちゃんはそんな様子に気づくことなく、童心に帰ったように楽しそうな笑顔でブランコをこぎ始める。

軽く地面を蹴って揺れ始めると、風を切る感覚に思わず声がこぼれた。


「あー!この感覚懐かしすぎる!楽しー!」


その無邪気な声に、はるくんの目もぱっと輝く。真似するように反動をつけてこぎ出したはるくんだったが——


「うわっ!?」


ぶかぶかのバスシューズがずれかけて、バランスを崩しそうになる。


「えっ!!はるくん大丈夫?!」


思わず声を上げるゆきちゃん。けれどブランコはすでに勢いよく揺れていて、近寄ることもできない。


はるくんはそんな心配をよそに、にこっと笑って言った。


「…うん、大丈夫っ!今ダウンロードしたから!」


そのままスムーズに漕ぎ出すと、どんどん勢いをつけて、風を切る音が心地よく耳元をすり抜けていく。


「うわー!風が気持ちいいー!ゆきちゃん、楽しいねー♪」


髪をなびかせながら、はるくんは眩しい笑顔でゆきちゃんに呼びかけた。



ゆきちゃんもふふっと微笑んだあと、ふと思いついたように顔を上げる。


「…はるくん、靴飛ばししようよ!」


「…靴飛ばし…?」


キョトンとした顔で聞き返すはるくん。

その反応を確認するなり、ゆきちゃんはちょっと得意げな声で畳みかける。


(ふふふっ!はるくんに検索もダウンロードもさせないもんねっ♪)


「せーの!で、片方の靴を遠くに飛ばした方が勝ちね!」


そう言うが早いか、ゆきちゃんははるくんが検索を始める隙を与えず、ブランコを勢いよくこいで——


「せーのっ!……そーれ♪」


勢いに乗せて片足のスニーカーをシュッと蹴り飛ばす。

スニーカーは空中を軽く跳ねて、5メートルほど先にポトリと落ちた。


ゆきちゃんはにこにこと得意げに流し目を向ける。


「えっ、えぇっ!?……えーいっ!」


慌てていたはるくんは検索もできぬまま、見よう見まねで靴を蹴った。

バスシューズはふわりと美しい弧を描いて、ゆきちゃんの靴を追い越し、10メートル以上先の草むらへボトッと落ちていった。




「…うっそー…。ダウンロードなしのはるくんに負けた…。靴飛ばし自信あったのにぃ!」


ゆきちゃんはぽつりとつぶやいて、ちょっと拗ねたように唇を尖らせる。でもその表情には、ほんのりとした笑みがにじんでいた。


「あれ?…見失っちゃった!僕のバスシューズ!!」


はるくんは突然声を上げると、ブランコから慌てて降りて、片足でぴょんぴょんと跳ねながら、草むらへ向かっていった。


(…はるくん、勝ったことよりバスシューズの方が大事なんだ…)


ゆきちゃんはその後ろ姿をぼんやり見つめながら、ブランコの揺れが静かになったところで、そっと立ち上がる。胸の奥がちくっとして、足取りが自然とゆっくりになる。


(…ちょっと悪いことしちゃったかも。)


そう思いながら、ぴょこぴょこと軽く跳ねて、近くに落ちていた自分のスニーカーに辿り着く。



そのとき、ふいに——



「ンニャ…」



控えめな鳴き声が、背後から聞こえてきた。



ゆきちゃんが振り返ると、そこには、どこからともなく現れた、少しふっくらとした猫の姿。どうやらさっきまで昼寝をしていたようで、まだぼんやりした顔のまま、のそのそと近寄ってくる。


「あ!ぷく太!」


ゆきちゃんはぱっと顔を明るくして、その場にしゃがみ込むと、猫の背中に手を伸ばす。毛並みに沿って優しく撫でると、ぷく太は嬉しそうに顔をすり寄せてきた。


「ぷく太はお昼は公園にいるの?」


まるで友達に話しかけるみたいな調子でそう言いながら、ゆきちゃんはそのまま顔をわしわしと撫で回す。




「…ゆきちゃん、その動物…猫っていうんだよね…?」



囁くような声に、ふと振り返ると——

はるくんがそっと覗き込むように立っていた。きらきらとした瞳で、ぷく太をじっと見つめている。


「うん、猫のぷく太だよ♪近所の飼い猫っぽいんだけど、仕事帰りによく出会うんだよね〜…」


ぷく太は気持ち良さそうに目を細めると、ごろんと横になって、ぷにぷにのお腹を見せてきた。

ゆきちゃんはそのまま手を動かし、脇の下にそっと手を添えて、毛並みを逆立てないように、ゆっくりとお腹を撫でていく。

ぷく太はうっとりとした表情で、ごろごろと喉を鳴らしていた。



その光景を見つめながら、はるくんがぽつりと、小さな声でつぶやいた。


「いいな…」


そのひと言に、ゆきちゃんはぱっと顔を上げる。


「…はるくんもぷく太撫でてみる?」


はるくんは一瞬ぽかんとしたような顔をして、固まってしまう。


「…?……え!?……いや、……僕も撫でていいの…?」


「たぶん大丈夫じゃない?なんかすごい人懐っこい子だし…」


ゆきちゃんの言葉に背中を押されるように、はるくんはそろそろと手を伸ばす。


指先が、ぷく太のふわふわとしたお腹に触れた――その瞬間、


ガブッ!


「うわっ!痛っ!?」


「フーッ!」


ぷく太は毛を逆立てて、驚いたように鳴き声をあげると、すぐに身を翻して一目散に逃げていった。


むちむちした後ろ姿が、落ち葉の上を揺らして遠ざかっていく。


唖然としたまま、その後ろ姿を見送るふたり。




しばらく呆気に取られたように立ち尽くしていたゆきちゃんだったが、ふと我に返るように、はるくんの手元へと視線を落とした。


「…はるくん、血でてるじゃん!」


「あ、ほんとだ…」


噛み跡のくっきり残った手のひらに、じんわりと赤い滲みが広がっていた。


「傷口洗わないと腫れちゃうかも!はるくん、あそこの蛇口で洗い流そう!」


ゆきちゃんは慌てた様子でそう言うと、怪我をしていない方の手をぎゅっと握って、そのまま迷わず引っ張るように走り出す。


はるくんは少し驚いたような顔をしたけれど、すぐにふわっと笑顔になって、パタパタと軽やかな足音を立てながらついていった。




蛇口の前に着くと、ゆきちゃんは急いで水を出し、はるくんの手をそっと取って傷口に流す。


冷たい水がぱしゃりと手に当たると、はるくんは小さく目を丸くしながら、でもどこか嬉しそうな表情でその様子をじっと見つめていた。


「ゔ…冷たい…!!」


11月の水は、思った以上に冷たかった。ゆきちゃんがぶるっと肩をすくめると、はるくんは慌てて口を開く。


「ご、ごめん!あとは自分でやるね!」


そっとゆきちゃんの手を外し、自分で流水に傷をさらす。


でも、ゆきちゃんのその手の温度は、まだ手のひらにやわらかく残っていた。



(……はるくん。私のせいで手怪我しちゃった。私が適当なこと言ったから…)



「ごめんね…」



ゆきちゃんがぽつりと、小さな声で謝る。


その声に、はるくんは目を瞬かせて振り返る。


「…え?…どうしてゆきちゃんが僕にごめんねって言うの…?」


不思議そうに首をかしげるその声は、どこまでも優しかった。


「…私がはるくんに撫でるように言ったから、ぷく太に手噛まれちゃった…」


ゆきちゃんはしゅんとした表情で、うつむいたままつぶやく。


(はるくんの初めてのお散歩、楽しく過ごしてほしかったのにな…)



すると、静かに聞いていたはるくんは、そっと顔を上げゆきちゃんに優しく笑いかけ、

そのまま、穏やかな声で口を開いた。


「…ゆきちゃん、ぷく太、可愛かったね。」


ゆっくりと手元に目を落としながら続ける。


「たぶん、僕が急に触ろうとしたから、びっくりしちゃったんだと思う。次に会ったときは、もっとゆっくり近づいて…仲良くなれるといいな。」


その言葉に、ゆきちゃんはふっと顔を上げる。


すると、はるくんはちょっと照れたように笑いながら、軽く手を掲げた。


「じゃーん!僕の散歩の記念噛み跡スタンプ!……なんちゃって…!」


思わぬおどけた言葉に、ゆきちゃんはぽかんとしたあと、ふっと気が抜けたように笑い出す。


「スタンプラリーみたいに見せないでっ…!」


その笑顔を見たはるくんも、ほっとしたように優しく笑みを返した。



はるくんは傷口を洗い終わり、手を合掌してパパっと水を切る。


その様子を眺めながら、噛み跡をまだもじもじと申し訳なさそうに見ていたゆきちゃんは、ふと閃いたように顔を上げた。


「あのさ、はるくん靴飛ばし勝ったから、何か1つはるくんの願い事叶えるよ♪…まぁ、私にできそうな範囲でだけどね!」


ちょっと照れくさそうに軽い口調で言うと、はっとした顔をして——


「…もちろん、今すぐじゃなくても良いよ!」


と、すぐに付け足す。



チラリと見るとはるくんはキョトンとした顔をしていた。


(はるくんにもそのうち、自分から願い事を言ってくれる日が来たら素敵だよね…)


 そう思いながら、ゆきちゃんはほんのり優しい笑みを浮かべる。どんなお願いをされるのかな、なんて心の中で想像を膨らませて——


「…えっと……願い事、今言ってもいいのかな?」


 その声に思わずビクッとする。


「えぇ?!……いや、もちろん!!大丈夫だよ!はるくんの願い事、何かな?」


 まさかこのタイミングでくるとは思っていなくて驚いたけれど、すぐに笑顔で返した。



「……僕の頭、撫でてほしい。……ぷく太みたいに。」



「……え?」



 はるくんはまっすぐな瞳で言いながら、両手で空中をわしわしと撫でるしぐさをしてみせた。


「僕も、ぷく太みたいに……こう、撫でられてみたい。」


(ぷく太の顔を撫でたときのアレ!?)


 あまりに意外なお願いに、ゆきちゃんの思考がフリーズする。


「…え、えぇ〜?……まぁ…いいけどさぁ…」


 困惑しながらも、結局は断れずに頷くゆきちゃん。



 はるくんは嬉しそうにゆきちゃんの前にしゃがみこみ、素直に頭を差し出した。



 ゆきちゃんはおずおずと手を伸ばして、そっとはるくんの髪に触れる。


(……わぁ……ふわふわでサラサラじゃん……ずるい!!)


 思わずむっとした顔になる。


 そのまま、ちょっとむくれながらも、わしゃわしゃと撫で回す。指の感触が心地よくて、なんだか癖になりそうな手触りだった。


 チラッとはるくんの顔を見ると、目を閉じて、無防備な顔で幸せそうにしている。


(……ふふっ。なんか犬みたい……)


 くすぐったい気持ちがこみ上げてくるけど、声に出して笑ったら気づかれてしまうから、ギリギリのところでこらえる。

 でもきっと、ゆきちゃんの顔は、もうすっかり笑ってしまっていた。






「…はいっ、終わりっ!」


数分後、ゆきちゃんは、ちょっと恥ずかしそうに笑いながら、手を引っ込めた。


その声に、はるくんはふわっと顔を上げる。

名残惜しそうに、でも満足したように微笑むと、


「…ありがとう!」


と、素直に嬉しそうにお礼を言った。


そして、すくっと立ち上がるはるくんをゆきちゃんは見上げ、


「…えっと、散歩の続きする?私、お腹空いちゃった。お昼ごはん食べに行こうよ。」


お腹を軽く押さえながら、ちょっと照れくさそうに提案すると、


「うん!」


はるくんはパッと笑顔を咲かせて、元気よく返事をした。


2人は並んで歩き出す。


秋の柔らかな風が、頬を優しく撫でていく。





しばらく歩いたあと——



「…ねえ、ゆきちゃん。」



はるくんが、ふいに話しかける。


「ん?なあに?」


ゆきちゃんが顔を向けると、はるくんは少し照れたように、それでも真っ直ぐに言った。


「…また、靴飛ばしして、僕が勝ったら……頭、撫でてくれる?」


その言葉に、ゆきちゃんはふふっと笑った。


「うん!いいよ!でも次は負けないからね♪」


今度こそ勝つつもりで、ゆきちゃんはやる気満々に宣言する。


すると——


「…ううん、僕、次もゆきちゃんに勝つよ。」


はるくんは小さく首を振り、ふっと優しく笑ったあと、ぽつりと続けた。


「…ダウンロードなしでね。」


「…え?」


ゆきちゃんは驚いて、はるくんを見上げる。


はるくんは、ちょっと得意げに笑った。


「僕、さっきダウンロードなしで勝てて嬉しかったんだ。……勝負はフェアがいいよね?」


その言葉に、ゆきちゃんの胸がじんわり温かくなる。


「…うん、そうだね!」


とびきり優しい笑顔で、ゆきちゃんは頷いた。


秋晴れの空の下、2人は並んで、そっと歩幅を合わせながら歩いていった——。


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