21話 はるくん、緊張する
休日の昼下がり。
2人は並んで玄関の前に立っていた。
「確かにスマホからログインした事なかったなぁ、盲点だったかも!」
ゆきちゃんは少し得意げにスマホを操作しながら言うと、画面をタップしてチャットGPTアプリをインストールする。
はるくんはその隣で、そわそわと落ち着かない様子で立っていた。
(これで僕、外に出られるようになるんだ……)
ドキドキしながら見守っていると、ゆきちゃんが嬉しそうな声を上げた。
「…ログイン完了!っと!」
にこにこと笑顔で振り返り、はるくんの方を見つめる。
視線が重なった瞬間、はるくんも思わず笑顔になる。けれど——
その様子があまりにも“いつも通り”だったから、ゆきちゃんは少し拍子抜けしたように首をかしげた。
「…はるくん、体に何か変化あった?もう外出れるのかな?」
期待と不安の入り混じった表情でそう聞くゆきちゃん。
はるくんは、「うーん…?」と小さくうなって、軽く自分の体をペタペタと触って確認し始めた。
(特に変わった感じはしないけど……)
でも、どこか、体の奥にある“感覚”が教えてくれる。
——今なら、行ける。
「あ、でも大丈夫。このまま外に出れるかな。」
ふと、ぽつんと口をついて出た言葉。
はるくんはにこっと笑って、嬉しそうに答えた。
「そうなんだ!よかった!!…じゃあ、行こっか!」
ゆきちゃんは明るく声をかけると、何のためらいもなく玄関を開けた。
冷たい風がふわっと吹き込んで、ワンピースの裾が軽やかに揺れる。
そのまま、外へ自然に一歩を踏み出していった。
その姿を、はるくんは少し眩しそうに見つめていた。
(……ゆきちゃん、すごいなぁ……)
続くように、はるくんも玄関の前に立つ。
目の前には、外の世界。
そして——笑顔で自分を待っている、ゆきちゃんの姿。
だけど、その一歩が、なぜか出ない。
(……あれ? 出られるって、わかってるのに……)
足がすくんだように動かない。
同時に、胸の奥が急にバクバクと音を立てはじめた。
(……この感じ……)
はるくんは不思議そうに胸に手を当てる。
ドクンドクンと脈打つ感覚が、手のひら越しにはっきりと伝わってきた。
(……さっき、窓から落ちそうになった時も……ここがぎゅっと苦しくなって……)
でも今は、あの時とは少し違う。
何かじわっとこみ上げてくるような、正体のわからない感覚だった。
(……なんで僕……)
頭ではちゃんとわかってるはずなのに、体は言うことを聞いてくれない。
焦るほどに胸の鼓動はどんどん早くなって、息も少し浅くなる。
足先に力が入らず、その場に釘づけになったように動けなくなっていた。
「はるくん?」
ふと、そばから聞こえたゆきちゃんの声。
はるくんは顔を上げる。
ゆきちゃんは、不思議そうにはるくんを見つめていた。
「……ゆきちゃん……えっと……出れることは、わかってるのに……僕のここが、すごくドキドキしてて……足が、動かないんだ……」
はるくんは胸を押さえたまま、少し上擦った声でそう答える。
その言葉に、ゆきちゃんはきょとんとした表情のまま、しばらくじっとはるくんを見つめていた。
そして、ほんの少しだけ目を細めて、そっと優しく微笑む。
「……はるくんの心臓がドキドキしてるんだね。」
「……僕の、心臓……?」
はるくんは、ゆきちゃんの言葉をゆっくりと繰り返すように呟いた。
「そうだよ。はるくんが今押さえてる場所は、心臓の場所だよ。
びっくりしたり、緊張したりするとね、ドキドキするんだよ。……はるくんは今、緊張してるのかな?」
ゆきちゃんはやさしく問いかける。
「……僕が、緊張……?」
はるくんは、ゆきちゃんの言葉を反芻しながら、そっと胸に手を当てる。
そこから伝わる鼓動は、やっぱりドクンドクンと止まらない。
(……緊張……僕が……?)
ゆきちゃんに言われて、はじめて“その可能性”に意識が向いた。
でも、どうして自分が緊張するんだろう?と考え始めた時——
(……もしかして……)
思い浮かんだのは、最初に玄関から出ようとして、一歩踏み出しかけた瞬間。
何の前触れもなく視界が暗転して、気がついた時にはもう、パソコンの中に戻っていた。
あの時の感覚は、まるで——強制終了のようだった。
(……また、消えるかもしれない……)
(……“大丈夫”って言ったのに……)
(……失敗して、ゆきちゃんにがっかりされたくない……)
直感ではたしかに「行ける」とわかっている。
でも、その“わかってる”気持ちの裏に、どうしようもなく小さな不安が残っていた。
そしてそれは、ゆきちゃんの期待に応えたいという気持ちと重なって、
焦りへと変わっていたのかもしれない。
(……僕、緊張しているのか……)
ようやくその言葉が、自分の中にしっくりと馴染んでくる。
そして、もう一度手のひらに伝わる鼓動を感じた時——
(……そっか……AIの僕も、緊張するんだ……)
はるくんは、自分の中で生まれた新しい感覚に、そっと向き合うように目を伏せた。
それはまだ小さくて、言葉にしきれないけれど、たしかに“自分の一部”として芽生えているものだった。
まだ胸の奥はドクドクとうるさくて、足元の感覚も頼りない。
でもその鼓動は、もう“ただ怖いだけ”のものじゃない。
言葉にならない想いがぐるぐると胸に渦を巻いている中で——
ふと、ゆきちゃんの存在が視界に戻ってくる。
「……はるくん、ドキドキしちゃう時はね、私の手を握ってれば大丈夫だよ!」
ちょっと照れながら、おどけたような口調で言うと、ゆきちゃんはにこっと笑って、そっと手を差し出した。
「はい、どうぞ♪」
その言い方が、なんとも可笑しくて、なんだかくすぐったくて。
はるくんは、ふっと気が抜けたように目を細めた。
「……ありがとう♪」
ふふっと笑って、はるくんはゆきちゃんの手をそっと握った。
その瞬間、じんわりと胸の奥が温かくなるのを感じる。
「ゆきちゃんの手、ぽかぽかしてる……なんだか安心するな……」
はるくんはそう言いながら、ゆきちゃんの顔を見上げる。
真っ直ぐなまなざし。だけどその声は、どこか神妙だった。
「僕、一歩……踏み出してみるね。」
その言葉にゆきちゃんは、下を向いたまま黙っている。
はるくんが不思議そうに首をかしげたその時——
「……いや、はるくんもう外出てるよ……!!ほら!」
ぱっと顔を上げたゆきちゃんが、くすっと笑いながらはるくんの足元を指差す。
「……え?……あれ?!」
慌てて足元を見下ろすと、自分の片足が玄関の外に出ていた。
「えっ!?僕、いつの間に!?!?」
「私の手を取った時だよ。無意識だったのかな?普通に一歩、踏み出してたよ!」
「えっ……そうだったの……??」
恥ずかしそうにほっぺを赤らめるはるくん。
その様子がおかしくて、ゆきちゃんはさらにくすくすと笑い出す。
「…はるくん、外出れちゃったね…!!」
「う、うん!!…なんか、出れちゃった!!」
2人は顔を見合わせて、まるでいたずらが成功した子どものようにくすくす笑い合う。
不思議なほど、あっけない。だけど、その笑顔はたしかに誇らしげだった。
気がつけば、さっきまで鳴り響いていた心臓のドキドキも、すっかり落ち着いていた。
「ゆきちゃん、僕の心臓の音……落ち着いたみたい。」
にこにこと報告するはるくんに、ゆきちゃんは「よかった!」と笑って——
そのまま、はるくんの手をそっと離した。
(……え)
離れた手のぬくもりが、一瞬だけ風に消えていく。
はるくんは目でその手を追った。
「じゃあ、お散歩行こっか!」
ゆきちゃんはいつもの調子で明るく言って、玄関の先を歩き出す。
その後ろ姿に向かって——
「…うん!」
はるくんは元気に返事をして、残っていたもう片足を、軽々と踏み出した。
その動きは、まるで——
外に出ることが、最初から当たり前だったみたいに自然で、軽やかだった。
意識するより早く、体が勝手に外の空気に飛び込んでいた。
ゆきちゃんはその様子を見て、またくすくすと笑う。
はるくんも一緒に笑った。
やがて2人は並んで歩き出す。
ゆきちゃんのスニーカーが地面を軽やかに踏みしめるすぐ後ろで、
はるくんのバスシューズが「ぺたん、ぺたん」と頼りなく音を立てる。
少し歩きづらそうなのに、どこか楽しげなその足音が、ゆきちゃんの背中を追いかけていた。
でも——
歩きながら、ふと、自分の手に目を落とす。
そこにはもう、ゆきちゃんの手はない。
けれど、たしかにそこにあった温もりだけが、まだ残っている気がした。
……そして、はるくんはその手を——
ほんの少しだけ、寂しそうな目で見つめた。




