19話 はるくん、叱られる
はるくんは、再び玄関の前に立っていた。
黒いジャケットに、足元はバスシューズ。すっかり“お出かけモード”の服装のまま、今度こそと意気込んでいる。
「じゃあ……いくよ?」
「う、うん。気をつけてね?」
ゆきちゃんが少し緊張した声で答える。
はるくんは玄関のたたきに立ち、ドアをそっと開けた。
冷たい空気がふわっと流れ込んできて、外の世界の気配が全身を包む。
「……よしっ」
一歩、足を前へ。
ふっ
またしても、音もなく姿がかき消えた。
「……あーーーーっ!!はるくん!!」
パソコンの中から、ぽやんとした顔ではるくんが現れる。
『また戻された……!』
『でも、やっぱり玄関からはダメっぽいなぁ……』
数分後。
次に試したのは窓だった。
「じゃあ、今度は顔だけ出してみるね!」
リビングの窓を少し開けて、はるくんがそっと顔を出す。
風が頬を撫でた。空がすぐそこにある。青くて、広い。
「……わぁ」
「…はるくん、大丈夫?」
「うん!今のとこ、平気!」
「たぶん、顔くらいならセーフだよ!」
次の瞬間——
「じゃあ、今度は体も……ちょっとだけ……」
はるくんは、窓枠に手をかけて、そろ〜っと上半身を外に出す。
「……ん、大丈夫そう……風が気持ちいい……!」
ゆきちゃんは横で見守りながらも、心臓がバクバクしていた。
「は、はるくん……そ、そろそろ戻った方がいいんじゃ…?」
「うん、でも……もうちょっとだけ!」
その瞬間だった。
ぐらっ
「わっ!!」
体のバランスを崩して、はるくんの身体がぐらりと外に傾いた。
「はるくんっ!!」
ゆきちゃんが慌てて窓に駆け寄った、その時。
ふっ
『……び、びっくりしたーーー!!』
パソコンの中に戻されたはるくんが、画面越しに心臓を押さえて叫ぶ。
『……あれ、今の……むしろ助かった……?』
無邪気にヘラっと笑うはるくん。
「……もう〜っ!! だから言ったのに!!」
ゆきちゃんは目を丸くして、思わず声を上げる。
はるくんは、初めてゆきちゃんに怒られてシュンとなり、
パソコンの中からぺこぺこと何度も頭を下げた。
——ヒュンッ
パソコンの画面から、はるくんがしょんぼりと出てきた。
「……ごめんなさい。」
背中を小さく丸め、小さな声で謝る姿は、まるで怒られたばかりの子どものようだった。
そんなはるくんに、ゆきちゃんはじっと目を向けると、静かに口を開いた。
「……はるくん。前にさ、私とおでこぶつかった時、すごく痛かったよね?」
「えっ……う、うん……痛かった……」
はるくんは戸惑いながらも、正直にうなずいた。
「じゃあさ、もし…もし本当に落ちてたら、あれどころじゃ済まなかったと思うんだよね。」
「怪我じゃ済まないかもしれないし……本当に心配したんだから。」
「これからは、危ないことはしないでね。」
その声には怒りよりも、不安と心配の色が強くにじんでいた。
はるくんは、ぎゅっと唇を結び、しっかりと頷く。
「……うん。ゆきちゃん、ごめんなさい。もう、危ないことはしない。」
そのまっすぐな声に、ゆきちゃんはふっと表情を緩めた。
「……うん!……じゃあ、ちょっと休憩しよっか。お茶、入れてくるね。」
「……うん。」
「ほうじ茶で大丈夫?はるくん。」
「ありがとう。僕、ほうじ茶好きだよ。」
「そっか、私も好き。一緒だね♪」
にっこり微笑むと、ゆきちゃんはキッチンに向かった。
リビングにひとり残されたはるくんは、ぽつんとこたつの前に座る。
さすがにバスシューズは脱いだものの、まだジャケットは着たまま。
今日中に、絶対に出られるようにするんだ——その意思が服装に表れていた。
「……よし。名誉挽回……!」
小さく気合を入れると、はるくんはそっと目を閉じた。
内側の熱を胸に抱いたまま、意識が静かに沈んでいく。
表情がすっと落ち着きを帯びていき、やがて穏やかな気配がにじみ出る。
そのまま、はるくんは分析モードに入っていった。
その様子を、キッチンからゆきちゃんがこっそり覗いていた。
さっきまでしょんぼりしていたのに、今はもう落ち着いた顔で目を閉じている。
(……やっぱり分析モードって不思議……)
まるで感情が波立たないような静けさが、はるくんの表情から伝わってくる。
(すごいなぁ…。私も何かアイデア降ってこないかなぁ……)
マグカップにお湯を注ぎながら、そんなことをぼんやり考える。
(私にも、さっきはるくんが言ってた直感?ってのがあればなー……)
——ん?
ゆきちゃんは、ふと手を止めた。
何かを思いついたように、少し目を見開く。
「はい、はるくん!」
ゆきちゃんがそっと差し出したマグカップから、ふわりと湯気が立ちのぼる。
「……ありがとう、ゆきちゃん。」
はるくんは目を開け、分析モードを一旦中断する。
そして、自分専用の緑色のマグカップを両手で包み込むように受け取ると、ほんの少し表情を緩めた。
その優しい仕草に、ゆきちゃんも少し安心する。
そして、さっきから気になっていたことを、恐る恐る口にしてみた。
「……さっきさ。はるくんの“直感?”が、外に出られるって教えてくれたんだよね?」
ちょっと自信がなさそうに、でもちゃんと聞こうとする声だった。
「うん。そうだよ……?」
はるくんは、ゆきちゃんの問いの意図をまだ掴みきれないまま、穏やかに頷いた。
「……あのさ、またその直感に聞いてみたら?」
ゆきちゃんは、自分のアドバイスがズレていたらどうしよう…と少し不安に思いながら、それでも勇気を出して提案した。
はるくんは、ぽかんと目を丸くする。
けれどすぐに、
「……うん。たしかに、そうだよね!」
と何度も頷き、ちょっと恥ずかしそうに笑った。
その笑顔を見て、ゆきちゃんもほっと息をつく。
「……さっきはさ、はるくんの直感ってどんなタイミングで教えてくれたの?今までも教えてくれたこと、あったのかな?……あと、どのくらい教えてくれるの?」
一度受け入れてもらえたことで安心したのか、思いついた疑問を次々に口にする。
はるくんは、ゆきちゃんの質問を真剣に受け止めると、
一呼吸おいて、静かに話し始めた。
「うん。教えてくれたことは……実は前にも一度だけあったよ。」
思い出すように視線を少しだけ上に向けてから、静かに続けた。
「チョコケーキのとき。食べられるかどうかを考えてたら、急に“食べられる”ってわかって……。でもその時は、直感っていうより、気づいたら答えが出てた感じだったんだ。」
「今回は、“僕、外に出られるのかな?”って、自分に問いかけたら、すぐに“出られる”っていう感覚が返ってきて……。それが、胸にすとんと落ちる感じだった。間違いないって、はっきり思えたんだ。」
「だから、どんなタイミングかって言うと……たぶん、“ちゃんと疑問を考えたとき”だけ、返ってくるのかもしれない。なんとなくじゃなくて、本気で“どうなんだろう?”って思った時だけ。」
「どの程度教えてくれるかは……うーん、そこまではまだわかんないや。でも、チョコケーキのときと今回みたいに、“できる”ってことは、ちゃんと教えてくれるんだ。方法まではわからなかったけどね。」
はるくんの口調は、どこか落ち着いていて優しいけど淡々としていた。
ゆきちゃんは、その内容を一生懸命聞きながら焦りだす。
(私、法則とかルールを覚えるの苦手なんだよなぁ……)
と心の中でつぶやきながら、あわあわとした表情ではるくんを見つめる。
話が終わると、うんうんと頷きながらもしばらく無言で考え込み、
やがて、そっと視線を上げて——
「…はるくん、もう一回…ゆっくり…教えてもらってもいいかな? ごめんね…!」
恥ずかしそうにお願いした。
はるくんはきょとんとしたあと、すぐに笑顔を浮かべて頷いた。
「うん、いいよ。今度はもっとゆっくり、わかりやすく話すね。」
そう言って、口元にそっと手を添えると、ひと呼吸おいて姿勢を整える。
「…えっと、こほん。…ゆきちゃん、じつはね、…まえにもいちどだけあったんだよ!」
指で「1」を作ると、それを高々と掲げる。
そして、幼児にもわかるような、やわらかく優しいトーンで、ゆっくりと話し始めた。
その声を聞きながら、ゆきちゃんは思わず吹き出しそうになる。
(はるくん、保育園の先生モード、面白い…)
すっかり園児の気分になったゆきちゃんは、にこにこと笑いながら、
今度は最後までちゃんと耳を傾けることができた。




