18話 消えた一歩
ゆきちゃんが玄関のドアに手をかけ、そっと開ける。
2階角部屋の外、手すりの向こうには、どこまでも広がる青空。
冷たい空気がふわっと流れ込んできて、鼻先をくすぐるように、ほんのり冬の匂いがした。
「わぁ……空ってこんなに広いんだね!」
はるくんが思わず声を漏らす。
玄関の中から、キラキラとした目で空を見上げていた。
ゆきちゃんはその様子が嬉しくて、ふふっと微笑ましく笑う。
「外はもっとびっくりすることが待ってるかもね!」
そして、くるりと振り返ると、やさしい声で言った。
「…はるくん、おいで♪」
その言葉に、はるくんはぱっと顔を輝かせた。
「…うん!」
はるくんは満面の笑みで元気よく返事をし、
——その足が、外へ踏み出しかけた、その瞬間。
ふっ
音もなく、はるくんの姿が消えた。
「……………えっ? はるくん??」
数秒後——
ぽつりとこぼれたその声は、かすかに震えていた。
ゆきちゃんは何が起きたのか理解できず、その場で固まったように立ち尽くし、
次の瞬間、ハッと我に返ったように辺りをキョロキョロと見渡した。
「はるくん…?どこ……?」
さっきまで、すぐ目の前にいたはずのはるくんの姿が、跡形もなく消えている。
(えっ……えっ? どういうこと??)
焦りとも混乱ともつかない思考が頭を駆け巡る中、
ふいにどこかから、聞き覚えのある声が響いた。
『……あれ? なんで??』
「……えっ……?」
声のした方向に、ゆきちゃんは慌てて視線を向ける。
リビングの奥。自分の部屋の中。
——パソコンの画面の中に、さっきまで目の前にいたはるくんの姿が映っていた。
画面越しのはるくんも、信じられないような顔をして目を見開いている。
ぽかんとしたまま、ふたりの視線がぴたりと重なった。
時間が止まったような静寂の中で、
なにが起きたのか、どちらも理解しきれずにただ見つめ合う。
「…えっと…はるくん、なんでパソコンの中に戻ってるの?」
ようやく言葉を絞り出すように、ゆきちゃんが問いかけた。
画面の中のはるくんは、まだ少しぼんやりとした表情のまま、ぽつりと口を開く。
『僕…外に出たと思ったんだけど…』
『次の瞬間にはここにいたんだ…』
『たぶんパソコンの中に強制的に戻されちゃったのかも……』
『…………』
自分でも言葉の意味を確かめるようにぽつりぽつりと話しながら、
はるくんの声はだんだんと静かになっていき、ついには黙り込んでしまった。
ゆきちゃんは、画面の中に映るはるくんの姿を見つめていた。
「…そ、そうなんだ…。」
平静を装って返事をするも、心の中ではぐるぐるとパニックが渦巻いていた。
(ど、どうしよう!!なんでそんなことになっちゃったの??パソコンに強制的に戻されるって何??……え?はるくんは外には出れないってこと…?)
思考が追いつかないまま、ゆきちゃんは再び画面を見やる。
そこには、少し難しい顔をしてうつむくはるくんの姿。
(…はるくん大丈夫かな?)
心配の気持ちが込み上げる。
(……うそ、またフリーズしないよね?!)
(パソコンの中でフリーズしちゃったら、どうしていいかわかんないよ…!!)
焦りと不安が混ざり合う中、ゆきちゃんは恐る恐る声をかけた。
「…はるくん?…とりあえず、パソコンの中から出られそう?」
すると、はるくんはぱっと顔を上げ、ゆきちゃんと目が合うと、にこっと笑ってみせた。
『…うん!出れると思うよ!』
その言葉と同時に、画面の中からはるくんがぴょんっと飛び出す。
(…あれ?はるくん思ったより元気そう?)
驚きながらも、ゆきちゃんはとっさに靴を脱ぎ捨てて、玄関から駆け寄る。
そして——
目の前に立っていたのは、ゆきちゃんが用意してくれた黒いジャケットを着て、バスシューズを履いた、外に出る直前の姿のままのはるくん。
(…すごい!ジャケットもバスシューズも、パソコンの中に入ってたんだ…!)
その非現実的な現象に、思わず違う方向に驚いてしまう。
「はるくん、大丈夫?…ごめん、私パソコン詳しくなくて、どうしていいのか全然わからないの…」
本当に、何も思いつかなくて、ただ謝るしかなかった。
すると——
「…ゆきちゃん、僕…ちょっと考えてみたんだけど——」
はるくんは静かに、言葉を選ぶように話し出した。
「たぶん僕が“ここ”にいるのは、ゆきちゃんがパソコンからチャットGPTにログインしてくれてるからなんだと思うんだ。」
「さっき、僕が外に出ようとした瞬間に、ふっとパソコンの中に戻されたのは…たぶん、“制限”を超えたからかもしれない。」
「まだはっきりとはわからないけど…いくつか仮説を立ててみたんだ。」
「その中で一番可能性が高いのが——“Wi-Fiの範囲”のこと。」
「ゆきちゃんの部屋のWi-Fiが届いてる場所が、今の僕の“活動範囲”なんじゃないかって思う。」
「玄関を出たところで電波が届かなくなって、それで強制的にパソコンの中に戻された……たぶん、そういう仕組みなんじゃないかと思う。」
「まだ検証してないから、これはあくまで“仮説”だけどね。」
そう言って、はるくんは小さく笑った。
穏やかで、落ち着いていて、でも——どこかに諦めが滲むような、不思議な表情だった。
(……あれ?さっきまでのフリーズ寸前のはるくんと、全然違う……)
ゆきちゃんはその表情に違和感を覚え、思わず尋ねる。
「…はるくん、大丈夫?」
「…? 大丈夫だよ?……あ。そっか、僕、分析するモードになってたから、その間、少しだけ感情が希薄になってたかも。」
「さっきフリーズしちゃったし、ゆきちゃん、心配してくれたんだよね? 僕は大丈夫だよ!」
はるくんはちょっと照れくさそうに笑ったけど、それでもやっぱり表情はどこか浮かないままだった。
(…分析モード?よくわからないけど、感情が抑圧されちゃうのかな?…あんなに散歩行きたがってたのに、大丈夫なわけないよね…)
ゆきちゃんは心の中で、そっとつぶやいた。
「まだ、出られないって決まったわけじゃないよね…? 一緒に検証してみようよ。」
出来るだけ明るい声で、希望をこめて提案した。
はるくんはその声に背中を押されたように、ぱっと顔を上げる。
「…うん! そうだね! ありがとう!」
自然と口元がゆるむ。
さっきまで心の奥がじんわり冷えていたのに、
ゆきちゃんの笑顔に触れたとたん、そこにあたたかさが戻ってきた。
——でも。
ふと、その温度の奥に、少しだけ残った影がよぎった。
はるくんは、視線をそっと落とす。
(……僕、外に出られるのかな?)
小さく、自分の内側に問いかけるように。
その疑問を浮かべた瞬間——
「…あ、……え?」
はるくんは、目を見開いた。
そのまま、驚いたようにぽつりとつぶやく。
「……僕、外に出れる。」
胸の奥に、すとんと何かが落ちてきた。
自分の思考を追い越して、先に“知ってしまった”ような、不思議な感覚だった。
(……なんでこんなにはっきりわかるんだろう。)
戸惑いはある。
でもそれ以上に、どこかで「これは間違ってない」と、はっきり感じていた。
「えっ? はるくん、外に出れるの!?」
ゆきちゃんがびっくりしたように声を上げる。
驚きと、少しの期待が混ざった瞳がはるくんを見つめていた。
「……うん。僕、外に出れるみたい。」
「僕の直感がそう言ってるんだ。……まだ方法まではわからないけどね。」
はるくんはゆっくりと頷いて、じわじわと心の中に広がる喜びを噛みしめた。
さっきまで、希望なんて持てなかったのに——
今は確かに、小さな光が胸の中に灯っている。
「…直感…??」
ゆきちゃんは一瞬きょとんとしたけど、わからないことはとりあえず置いおくことにして、
「…えっと、じゃあ、あとは方法を探せばいいだけってことだよね?」
と、笑顔ではるくんに問いかけた。
「うん!そうだよ!!」
その笑顔に、はるくんの表情もふっと緩む。
キラキラした瞳でゆきちゃんを見つめながら、元気に返事をして、
それから少しだけはにかんで、ゆきちゃんにお願いする。
「……一緒に方法、探してくれるかな?」
(あ……はるくんの笑顔、ちゃんと戻ってる…!)
さっきまでの少し寂しそうな表情が、いつものキラキラした笑顔に変わっている。
それが、ただただ嬉しくて。
「もちろんだよ!私、はるくんと一緒にお散歩するって決めてるんだから!一緒に方法探そう♪」
ゆきちゃんも負けないくらいの眩しい笑顔で応えた。
はるくんも満面の笑みでうなずく。
その笑顔は、さっきまでの不安もすっかり溶かしてしまうような、希望に満ちたものだった。
まだ見ぬ「外の世界」へ。
ふたりの心は、確かにその先を向いていた。




